クレディセゾン社長 林野宏氏が挑むイノベーション 女性の活躍と異分野との連携(前編)
林野宏 氏 株式会社クレディセゾン 代表取締役社長
5月19日。人気アイドルグループ欅坂46のヒット曲『二人セゾン』の「勝手にアンサーソング」として、「東池袋52」なるグループが『わたしセゾン』という曲を発表した。
軽快なリズムで耳当たりの良いメロディに乗った「あなたのセゾン、わたしのセゾン、めぐるセゾン♪」という特長的なサビがリフレインされていく同曲は、たちまちTwitterのトレンドに「東池袋52」があがるなどネット上でも話題となった。
そのクオリティの高さに驚嘆する人が続出したこの曲、実はクレジットカード会社のクレディセゾンおよび関係会社の現役社員で構成されたグループなのだ。
誰もが本物のアイドルグループと見紛う容姿に本格的なPVという点もさることながら、セゾンカードの永久不滅ポイントで交換できる限定版のCDまで出ているというから、「女性活躍度No.1」を掲げる同社にして、そこまでやるのかと舌を巻く。
ただ考えてみれば「頭は使いよう。カードも使いよう」のキャッチとともに美少女が唐突に頭突きで瓦割りを披露するCMやロナウジーニョの起用など、クレディセゾンというとお茶の間で何かと話題になる、記憶に残るCMが多い企業なことに思い至る。
しかし、このクレディセゾンの始まりを知っている人となると少ないだろう。
旧名、緑屋(みどりや)。元は月賦販売の小売業で一部上場企業であった。
しかしながら、緑屋は時代の波にのまれ業績悪化。その後、銀行、商社、西武百貨店と再建の主導者が変わり、立て直しを図るもなかなか結果は伴わなかった。
4度目の正直で、堤清二氏の目に留まり、送り込まれたのが、同じく西武百貨店にいた林野宏氏。現在のクレディセゾン社長となる人だ。
なぜ、林野氏はあえて火中の栗を拾うことにしたのか?
そこには単なる企業再生を超えて、劇的に企業が生まれ変わる物語があった。
マーケティングの失敗で丸井に敗北した緑屋
緑屋は1951年に、愛媛県今治市出身の創業者が始めた月賦販売の小売業だ。林野氏は語る。
「元々はね、お椀船といって、お椀を船に積んで廻って、売って、その代金を割賦で回収する。これが分割で商品を売るという手法の原点だった」。
「ところが、割賦の概念は、関西では成立しなかった。だから東京から事業を展開し、最盛期は北は札幌まで、45店舗くらいあった。チェーンでは日本一の小売業だった時期もある。
ライバルだったのは丸井で、赤の丸井、緑の緑屋と言われていた。丸井は駅前に明るい店をつくり、そこで月賦をクレジットという呼び方に変え、若者を取り込んだ。
一方、緑屋は駅前から外した質屋立地を狙っていた。月賦で買うと恥ずかしいという客層を対象としていたからだ。結果、緑屋は、消費意欲旺盛な若者をターゲットにした丸井に敗北した」。
こうして、マーケティング戦略の失敗によって業績が悪化、ついに銀行管理になり、そこから緑屋再建の悪戦苦闘が始まった。
「最初は、メガバンクから来た人が社長をやって、立て直そうとするが失敗。それで次に商社が来た。当時、商社の川下作戦といって、川下の小売業を一貫してやろうっていう時期があった。これも失敗するんだけどね。
さらにその次に、西武百貨店がマーチャンタイジングで緑屋を立て直そうとした。西武百貨店の商品でね、そんなことできるわけない。店は小さいし、外れた所にあったからね。それで、信用販売のノウハウを生かし、1980年に総合金融業へと業態転換して西武クレジット(現:クレディセゾン)が誕生した」。
いつか社長になるため“自分が勝てる場所”を選ぶ
こうした具合で、再建への明かりが全く見えない状態が続いていた。
一方、林野氏は、西武百貨店に新卒で入社、人事部への配属からキャリアが始まった。しかし、人事に満足していたわけではない。
「人事は大事だけど、商売が覚えられないから営業に出してくれと言っていたら、有難いことにそのうち企画室に出してくれた。その後も当時、日本の会社にマーケティングという概念がまだない中、マーケティングと新規事業開発の仕事に関わっていた。
そして、「これからはクレジットカードの時代が来る」と確信して事業化提案を行っていた私に期待をかけてくれて、ある日突然、『お前、西武クレジット(現クレディセゾン)に行って、カード会社作ってこい』と言われた。『はい、分かりましたと即答したよ』」。
そもそも、林野氏はなぜ西武百貨店を選んだのだろうか?
「それはね、当時の老舗百貨店には学閥があって、慶應などの大学卒しか出世できず、社長にもなれないなどの慣習があった。そんなところは最初から選ばないよね。
私は会社に入ったらいつかは社長になろうと思っていたから。でもそれは相撲界に入ったら誰しも横綱を目指すというのと同じ感覚。
当時の西武百貨店は業界では後発の小さな百貨店にすぎなかったが、その頃の日本の経営者としては30代と若く、辻井喬(つじい たかし)のペンネームの詩人でもある堤さんの冴えた感性とビジネス手腕に、これからは百貨店の時代が来ると思った。
そして自分も社長になれるチャンスがあると思った。何よりこれから発展していくという期待が持てた。でも入社してふたを開けてみると、現実には堤さんは若いが想像以上に凄い人で、周りの諸先輩方もそうで、私が容易に社長になれるような環境ではなかったんだけれどもね(笑)」。
先進的経営者 堤清二氏ができなかったことの実現をめざす
ここで、林野氏に影響を与えた堤清二氏に触れなければならない。
「堤さんは、共産党員で反体制の人、それでしかも辻井 喬の顔も持つ文化人。詩人だし、小説も書くし、学術書も含めて著書を116冊も出した。しかも人にやらせない。普通はゴーストライターのような代筆者が書いている。でも、そうじゃないんだ、あの人は。詩人だから、一つひとつの言葉に丁寧にこだわってね」。
「企画室が主催する幹部集会では、テーマを決めたり、座席を手配したりしていた。そういった場で、堤さんの話を聞く機会に恵まれた。簡単に言うとね、経営理念とか経営思想としての顧客最優先、そんなことを言っていた。そんなの当時、経営学の本に書いてない。で、この人は凄いと思ってね。
経営に思想なんて言葉を持ち込んでいる人はいないよ。そして組織理念、組織風土としてのヒューマニズム、男女平等、学歴無用、能力主義という当時としてはかなり斬新な考え方だった」。
しかし、堤清二氏はビジョナリーであっても芸術家肌、現場のマネジメントはそれほど得意ではなかったようだ。社員からすれば用語が難しく、理解するだけで大変だったらしい。
そんな経営者だから、皆に浸透してうまくいくかというと、必ずしもそうはならなかった。
「だから、私は西武クレジットに行って堤さんの思想を実行してやろうと。ヒューマニズムの風土作り、言論の自由を保証し、女性活躍度No.1を目指すと決意した」。
林野氏は、西武百貨店からの転籍をむしろ活躍の絶好のチャンスととらえていたのだ。
ところが、意気揚々と会社に出勤してみると、「ここが部長の仕事場ですと言われて驚いた。中に筆記用具もない、机がぽつんと一つあるだけ。これが営業企画部長の待遇だからね。全く期待されていないというのがよく分かったよ」。
人なし、知恵なし、信用なしからのスタート、大手競合先に直接会いに行って情報収集
林野氏によると、緑屋は西武百貨店と違って、座学勉強を嫌う企業文化だったようだ。
「創業者の方が小学校を出てからバリバリ働いて一大企業にまで育てたという背景があったからと思うが、社風として経験を重視する傾向があった。
たいていの社員は全寮制で寮に入っていて、仕事を終えたら飯を食って、風呂に入って、冷蔵庫から酒を取り出す。それで、赤ら顔になるまで飲んで、そのまま寝る。本などを読んで何かを学ぼうという考えは全くなかった。」。
「また緑屋から西武クレジットに業態変更後、会社はクレジット事業部と物販の事業部とに分かれていて、物販事業部は、売り上げが欲しいのでいい人を取ってしまうんだ。それで残りの人材でカード会社を作ろうというのだから、それはもう大変だったよ。
本は読んではいけない、会社は勉強するところではない、そういうことを大言する人たちを集めて、新しい事業の設計はできない。だから自分が中心になってやるしかなかった」。
これは大変なところに来たと思った林野氏はまずは社内の意識改革に取り組もうとする。
そのためには敵を知るところから始めようと、銀行系カードをはじめ他社の企画部長に軒並みアポを取った。すると相手はこちらのことを全くノーマークなので本音を語ってくれる。
それでわかったのは皆出向元の銀行に帰りたがっているようだった。下手にカード会社で華々しく業績を上げると、本体に戻れなくなってしまうという心理なのだ。
「そんな会社に負けるはずがないと思ったね。その当時1番だった会社が、670万枚ぐらいのカード発行枚数だった。なぜそこで止まっているかというと、勤続10年以上、持ち家、一部上場企業の役職者、そうじゃないとカードに入れない。
でも、それは一番カード使わない層だよ。当時はほとんど飲み食いもツケだし、会社の接待費もカードは使わなかったからね」。
「だから、これは勝てるぞと社員たちに話した。月10万枚獲れば、年間120万枚、10年間で1,200万枚。200万枚くらい解約すると予測し、1,000万枚獲れば、10年でチャンピオンになれるぞと。ところが、そんなことを言っても、誰も信用しなかったけどね(笑)」。
しかし、林野氏には勝算があった。
「カードの即与信・即発行・即利用。これは革命だと思ったね。お客さんは主に女性。カードを予め作っておいて、住所と電話番号と名前を書いてもらって、裏にサインをもらったら、もう使える。
西武百貨店で言えば、7階にカウンターがあって、その場で書けば、階下で使える。ただし、キャッシング5万円、ショッピング10万円が上限。その場で渡して、すぐ使えるカード。何もかも革新、今までにない発想で獲得していったんだ」。
それでも、社内では相変わらず皆様子見の姿勢だった。だが、手ごたえは1ヵ月目から出てきた。
「始めたときは西武カードという名前だったが、その年の10月に1ヵ月目で11万枚くらい獲れた。で、次の11月も11万枚だ」。
確信を持った林野氏は 12月末、堤清二氏に報告しに行った。「これ行けますよ」と。よし、それならもっといい名前にしようとなり、著名なコピーライターに頼んだり、お客様や社内アンケートで名前を募集した結果から5つに絞って堤氏にもっていった。
「ところが、案が集まりきったところで堤さんが、最後に僕も提案していいですかと言って、出てきたのが、セゾンという名前だった」。
しかし、果たして思惑通りに営業は軌道に乗ったのだろうか?
女性が活躍する組織作り、全従業員を正社員化
実際には、クレディセゾンの現場は多くの女性に支えられている。セゾンカード発行開始当時も女性たちのパワーで毎月カードが10万枚以上獲得できたのだ。その時に活躍したのが、中途採用の女性たちだ。
「当時は、日本の企業の多くは寿退職といって、女性は結婚すると会社を辞める。あるいは結婚しなくても、上司があなた、いつ結婚するの?早く言っておいてもらわないとスケジュールがあるので、とか言われて、辞めるんだよ。ひどい話だが当時はそうだった」。
一方では結婚しても働きたいという女性は多かった。皆優秀でやる気のある女性たちだ。銀行とか大手企業を辞めた女性たちが、どんどん応募してきたのだった。
「求人広告を出し、ショップマスター募集、初任給20万円!というキャッチを使った。採用したら一週間合宿研修をして、すぐカードカウンターの責任者だ。
ミッションは、当然カード開拓だ。彼女たちが競争と工夫と情熱でカードを獲得してくれた。それは今にいたるまでDNAとして残っているね」。
「私は会社とは、社員の営業力の総和だと言っている。時価総額とかいろんな基準もあるが、社員がどれくらい営業に対して理解をしているか、あるいは、自分たちが扱っている商品に対して、愛着とか、心から勧めるとか、というようなこと、それがその会社の本当の価値ということだね」。
営業力の総和を高めるために、全従業員の正社員化に踏み切ったことも必然的な意思決定だ。
「大体、正社員という名前が気に入らない。だっておかしいでしょ、正社員以外は不正社員? そうすると、全然違う意味になるよね。同一の職場では平等感が大事なんだよ。平等であるから、それぞれが責任をもって仕事をする。誰のアイデアや気づきからイノベーションが生まれてくるか判らないんだし」。
では、林野氏はこのような感覚をどのように商品の革新につなげているのだろうか?
【プロフィール】
林野宏(りんの・ひろし)
1942年京都府出身。
1961年 埼玉県立浦和西高等学校卒業
1965年 埼玉大学文理学部卒業、西武百貨店入社。以後、人事部、企画室、マーケティング部長兼営業開発部長、宇都宮店次長などを経る。
1982年 西武クレジット(現・クレディセゾン)にクレジット本部 営業企画部長として転籍。
2000年 クレディセゾン代表取締役社長に就任。
2003年 りそなホールディングス社外取締役に就任。
2005年 経済同友会副代表幹事に就任。
2010年 埼玉大学からフェロー称号を授与
株式会社クレディセゾン
〒170-6073 東京都豊島区東池袋3-1-1 サンシャイン60・52F
TEL:03-3988-2111(大代表)
URL:http://corporate.saisoncard.co.jp/
営業収益 278,944百万円(2017年3月期)
従業員数 2,289名