佐野 極(さの・たかし)氏 シミックホールディングス株式会社 専務執行役員 小淵沢アカデミー担当(人財育成センター長)

 

難しいミッションだった。ヘルスケア業界の改革を旗印に白羽の矢が立ったのが、当時Jリーグのサガン鳥栖の副社長だった佐野極(さのたかし)氏だった。与えられた役目はシミックグループ内で業績の落ち込んでいた赤字会社の立て直し。

そのときのシミック中村和男社長(現 シミックホールディングス株式会社CEO)の印象について佐野氏は言う。「ヘルスケア業界を変えていくんだという覇気があり革命家みたいな人に見えた」と。

 

多くの規制に縛られている製薬業界。CROという専門事業で業界に一石を投じたシミックホールディングス株式会社の軌跡と挑戦を紐解く。

 

中村和男 シミックホールディングス株式会社 CEO

 

日本で初めてCROを導入

シミックホールディングス株式会社は、日本で初めてCRO (医薬品開発支援)のビジネスを始めた会社だ。現在は、非臨床試験、臨床試験、製剤開発・製造、販売・マーケティングなどの医薬品メーカーの総合的な支援の他、コンサルティング、調査等、製薬業界のソリューション提供を行う。

 

CRO(Contract Research Organization)とは、製薬会社が新薬を開発するために行う臨床試験(治験)を支援するビジネスをいう。1970年代のアメリカで生まれたCROは一言でいえば、製薬会社の医薬品開発を請け負うこと。CROが生まれたからこそ、製薬会社は1社ですべてのリソースを持たなくても専門性の高いCROに外注してスピード感ある開発ができるようになった。

企業の医薬品開発における治験のスピード化、質の向上、経費節減に大きく貢献しており、現在の医薬品業界ではCROなくして新薬開発はできないとまで言われている。

 

かつての日本は、医薬品の開発は全て自社で行うことが当たり前であった。しかし時代の変化とともに、一つの医薬品が作られるまでのコストと時間は膨れ上がっていった。それでも、高度な専門知識のある組織に開発をアウトソースするという考えは生まれるはずもなく、「他社に自社の新薬開発を任せるなどとんでもない」というのが共通の認識であった。
日本の製薬企業の発展は欧米から20年遅れるといわれるが、シミックがビジネスを始めた1992年当時、治験のアウトソースであるCROに関しても、同じように未知のものであった。

 

 

「シミックの創業期は、事務所もマンションの一室で、従業員は3人だったと聞いています。CROはまだ日本では認知されておらず、治験を外注に出すなんてとんでもないという時代でした。そんな状況の中でビジネスを進めていくことは、並大抵の努力ではなかったと思います」と佐野氏はいう。

 

中村CEOは三共株式会社で医薬品開発のリーダーとして活躍し、大きな成果を上げていた人物であった。社内では次期役員への登用が期待されていたが、中村CEOのアメリカの友人たちは、次に何をやるのかを同氏に求めていた。

彼らは中村CEOが会社でやれることは全てやりつくしたと見ており自身もそう感じていたのだ。

 

当時、アメリカでは医薬品開発はアウトソーシングが当たり前であり、CROのシステムが整っていた。

一方、日本ではCROは認知されておらず、法律も曖昧であった。「アメリカでは医薬品の研究開発はスリムに効率良くできる環境でした。そんな中で、このまま会社にいても自由に仕事ができないという閉塞感を感じていたのだと思います」。

日本の医薬品開発はこのままで良いのか。今日本を変えることができるのは自分しかいないのではないか。1992年、日本初のCRO事業専門のシミックは立ち上がった。中村CEOは安定より変化を、徹底した挑戦を選んだのだ。

 

 

「最初は実績もなく明確な法律もなかったので、なかなか仕事はもらえなかったようです」。そこでCROを製薬業界に認知させることから始める。中村のリーダーシップで業界団体を作り、人材育成や品質基準を設けるなど、CRO全体の認知向上を行った。

この活動は実を結び、ついに国が動いた。1997年、CROを前提とした新しいGCP(Good Clinical Practice 医薬品臨床試験実施の基準)が施行されたのだ。中村CEOが新生シミックを立ち上げた5年後のことである。「これをきっかけとして一気に業績は伸び始めました」。まさに、中村CEOの動きが業界の歴史を変え、市場を作り出したのだ。

 

さらに、2005年には旧薬事法改正に合わせCMO(Contract Manufacturing Organization)(医薬品製造受託機関)事業に進出。その後、CSO(Contract Sales Organization)(医薬品販売業務受託機関)事業にも着手した。

 

医薬品業界は、今まさに劇的に環境が変化している。グローバル環境での競争激化、ジェネリック医薬品台頭など様々な要因が複雑に絡み合い、製薬企業各社は生き残りをかけてM&Aなどを繰り返している。シミックはこれを大きなチャンスと見ている。社会のニーズやマーケットの変化に合わせて、シミックは進化を続けている。

 

トップへ引き抜かれる理由は「人間力」

佐野氏の出身は、京都大学の工学部。しかも、工学部卒業で金融業界に就職したという異例な経歴を持つ。

 

「学校推薦でメーカーに行くつもりで就活していました。しかし、三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)で調査部にいる先輩に就活について相談したら、私のコミュニケーション能力をかってもらい、会社訪問から三日目には三和銀行から内定をもらっていました」。

工学部から銀行に就職することは当時非常にめずらしく、就職しても配属はシステム部門である。しかし、配属は融資担当の営業。持ち前のコミュニケーション能力を発揮し、人脈はどんどん増えていったという。

 

銀行では、佐野氏は頭取の秘書を長く務め、トップの隣でバブル経済とその崩壊、そして不良債権問題を経験する。「通常の銀行業務だけでは見えない部分を見ることができました」。語り口を読むに、墓場まで持って行かねばならない案件もありそうだ。

 

2004年には、金融庁検査を妨害したとして、金融庁から刑事告発される事件が勃発する。

この事件での経験を、佐野氏は「人生の中で一番哀しかった時」と表現する。「職員全体が事情聴取やマスコミの影響で極限状態になっていました。そうすると、仲間だと思っていた人間の中に、組織や他人を売ってしまう人間が出てくるんです。同じ釜の飯を食ってきた仲なのに、当時はそんな姿を見るのが辛く哀しかったですね。

しかし、本来人間はこういうものなのかもしれない。大切なことは極限状態になったときに自分はどの道を選ぶのか。その瞬間瞬間に人間力が試されると捉えられるか否かだと思っています。今では、良い経験をしたと思っています。冷静に物事や人間を見ることができるようになりました」。

 

銀行を去った佐野氏は、サガン鳥栖の取締役副社長に就任。当時は経営危機であったが、選手が練習している横をランニングで並走しながら球拾いを始めるところからコミュニケーションをとったという。そして、練習終了後も近くの山まで一緒に走ったそうだ。そうやって汗を流しながら話をしているうちに、チームの状況、監督やコーチの様子、フロントへの思いなどがあらかた把握できたという。

 

経営破綻の危機から同チームを救い、東京に戻ったときに出会ったのがシミックと社長の中村氏であった。異色の経歴であるにも関わらず、シミックにヘッドハンティングされた理由について、佐野氏は「製薬業界には居ない、おもしろそうな奴だったってところじゃないでしょうか」と笑う。

 

佐野氏が大切にしているのが、人の縁だという。

「社内でも取引先でもプライベートでも、縁を大切にしてきました。SNSがない時代には、手紙を書いていました。今でも年賀状は500枚くらい出しますよ。打算がない縁こそ、自分の財産です」。

様々な局面で刺激を受け、その価値観を共有できる縁と、チャレンジしてきたからこそ得た経験。このふたつの財産が、業界に挑戦し続ける中村氏との縁を繋いだのだ。

 

時代を作るのはチャレンジ精神

常に逃げずにチャレンジを続けてきた佐野氏の生き方は、シミック発展の歴史と似ている。

 

「シミック発展の歴史は常にChallengeとChange。未だにベンチャー企業精神を持っています」と佐野氏はいう。昨日と同じ今日ではなく、今日と同じ明日ではない。常に変化をすることが成長と革新へと向かう原動力となるのだ。

その意識は、シミックの企業理念「CMIC’S CREED」にも活かされている。「一度しかない人生を、年齢や性別、人種に関わらず、誰もがその人らしくまっとうしていくために、ヘルスケア分野に革新をもたらすことを、シミックグループの志とする。」から始まる理念は、中村CEOの創業当初からの想いが込められている。

 

また、理念を実行するためのシミックカルチャー「W&3C」は「WELLBEING その瞬間を生ききる」を実行するための3つのC「Challenge 新たな視点で可能性を切り拓く」「Change 常識に安住せず変革する」「Communication 人や社会へ積極的に働きかける」を表す。

 

「中村はよく大切にしなければならないのは(生け花の)〝一輪挿しの心〟といいます。切られても美しく生を全うする志は、業界の改革者としての生き方そのものです」。

 


山梨県北杜市小淵沢町所在の小淵沢アカデミー

3人で始めた事業は現在では6000人を超えた。成長の過程では、傘下の子会社による治験データの改ざん事件が起こり、シミックグループも信頼失墜のあおりを受け減益に転ずるという苦しい時期もあった。

そんなときでも社員一同が結束し乗り越えられたのは、ひとえに中村CEOが伝えてきた志があったからだろうと佐野氏はいう。「成長と改革のスピリットが、企業理念に活かされています。この理念を次の世代へ伝えなければならないと思っています」。

 

シミックは、従業員だけではなくグループ企業や他の製薬業界、さらには社会的に大きな影響を与える組織へと成長している。シミックの成長と巻き起こすイノベーションは、ヘルスケア業界の革新へと繋がるのだ。

 

 

シミックホールディングス 本社

製薬業界はどのように変化していくのか

医療費が高騰化する現在、医薬品の開発の仕方も変わるのではないでしょうか。たとえば、ビックデータの活用により、早く安価に開発や製品化が可能になると言われています。

医薬品は病気の人の人生を変え、生きるエネルギーとなります。しかし、経済的な理由が望みを阻んでいます。これは世界中の業界が抱える問題であり、そのままにしていてはいけない課題です。この先、開発の仕方が変わるときCROの立ち位置も変わるのではないでしょうか。

 

どんな人材を求めているか

生物学、化学、農学、物理学、数学、工学、薬学、医学、栄養学など、理系の方に志望して頂くことが多いです。専攻や学業の成績も大切ですがシミックグループは何より人間性を重要視しています。リーダーシップを取り活発なコミュニケーションが図れる方、内向的で人前に出るのは苦手でも緻密で正確な仕事が得意な方など、様々なタイプの「人財」が結集しています。また、シミックは社会を見据え革命を起こしていく企業です。「自ら変えていくことに喜びを感じられる人、その企業理念に共感できる人」にたくさん来てほしいですね。

医薬の分野でスペシャリストになりたい人はもちろん、何かに挑戦したい人にとっては、とても面白い会社だと思います。

 

学生に伝えたいことは

今の日本の就活では、欧米に比べるとまだまだ終身雇用制度を前提に企業選択がなされていると思います。しかし、定年まで同じ会社で勤め上げた人は、私の時代でもそんなに多いわけではありません。今決めた企業に将来も居続け、サラリーマンで人生を終えるとは限らないのです。人生は山あり谷あり、年輪を重ねることで学びが得られます。辛いことがあっても、自分の成長を楽しんで欲しいと思います。

また、これから新入社員となる皆さんは、先輩や取引先に色々と教えてもらうことができるという、一番得な立場にあります。しかし、後輩ができて管理職になるにつれて、受け取ったもの以上のものを誰かに与えなければなりません。

そのためには自分の中に広い漏斗を作り、もらえるときに沢山もらうことが大切です。大量に蓄えることで、自分の中に知識や応用力が備わり、人に教えるだけの器となります。受けた恩を人に返すこと。人生は一生勉強なのです。

 

 

佐野極(さの・たかし)……シミックホールディングス株式会社 専務執行役員 ※小淵沢アカデミー担当(人財育成センター長)。1957年東京都生まれ。1980年京都大学工学部卒業後、三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)入行。 2005年サガン鳥栖に入社。2008年よりシミックホールディングス株式会社に入社し、現在に至る。

※「小淵沢アカデミー」は山梨県北杜市小淵沢町に所在するCMICグループの人財育成の聖地であり、GEグループのクロトンビルの様な存在です。議論の原点は常に「CMIC’s CREED」がベース。日常から離れた環境で、Refrection(内省と自己開示)、Team Building(チームビルディング)、Creative(独創性)を軸に、徹底的・本質的な議論を行います。

小淵沢アカデミー

 

シミックホールディングス株式会社

〒105-0023 東京都港区芝浦1-1-1 浜松町ビルディング

℡03-6779-8000

従業員数:6,144名(連結子会社含む、2017年10月1日現在)

年商:652億82百万円(2017年9月期・連結)