感動創造に向けた本物の飲食業態づくり やりたいことは、やるべきことをやってから 株式会社RYコーポレーションの企業物語
レストランLA COCORICOやビストロガブリなどを中心に45店舗の飲食店を展開するRYコーポレーション。
これら飲食事業のスタートは、大赤字のフランチャイズ加盟店の運営受託から始まった。
今は独自業態を中心に、社員数が170名、パートアルバイト450名を擁し、年商も35億を超え成長を続けている。
多くの飲食経営者が夢見る多店舗展開可能な独自業態開発にたどり着くまでの道程を横山藤雄社長に聞いた。
起業は必然
実家が商売をやっている環境で生まれ育ちました。茨城県の実家も三代目として私の兄が受け継いでいますが、周囲の叔父、叔母も商売をやっている方が多くて、物心ついたころから商売が身近にありましたね。
自分もできるだけ早く独立したい、店をもちたいという思いが、小学校高学年くらいからあったかもしれません。
高校を卒業したらすぐにでも自分で事業をやりたい気持ちはあったものの、世の中そんなに甘くないし、ローカルの茨城から出て厳しい環境で一度は揉まれるつもりでいました。そこで親族の取引先として紹介してもらったのが、埼玉の株式会社サンアイという肉の小売と焼肉レストランを経営している会社です。
まずここに入社させていただいてから7年間しっかりスキルを身につけ、25歳で起業しようと決意しました。
それで予定通り7年間修業を積んだ後25歳の時に退社、地元で起業しようと、茨城に帰りました。すると、すぐにご縁があって隣のショッピングセンターのテナントとしてぜひどうかという話があり、ちょうどいいタイミングだったので入居を決め、意欲高く取り組みました。まさに自分の描いた道だと。
ところが、周りは私が思っている以上に天狗になっている姿を見ていて、成功する確率は高いと思うが、せいぜい3店舗くらいで止まるのではないかと心配していました。
「今焦ってやる必要もないし、ショッピングセンター自体も下降気味だとすれば、もう少し大きい会社で力をつけてからでも遅くないのではないの? まだ25歳でしょ?」と親族会議で指摘されました。そのときは言われてみるとそうかもしれないなと思い、今一度修行した方がいいかもしれないと考えたのです。
フランチャイズビジネスでの苦闘、独自業態へ
自分の中でも焦ることはないかなと思い直し、次の巡りあわせの中で株式会社天池(あまいけ)という会社を紹介してもらいました。当時天池は精肉の小売業として絶好調で、関東でも肉の業界では100億売り上げていてすごく勢いがありました。
ここなら技術とスキルを磨くのにもってこいのフィールドだと思ったんです。天池ではちょうど千葉県で新しい店のプロジェクトを考えていて、立ち上げをやってくれる人を探しているというタイミングでした。ここでスケールの大きいことを学ぶのもありかなと、天池にお世話になることに決めました。
そこからずっと肉関係の仕事をやって、店長であったりその上のバイヤーであったり、いろいろ経験を積んで、飛び級で幹部にさせていただきました。
しばらくすると銀行さん経由で、経営の2本目の柱を作ったらどうだとアドバイスがありました。そこで、時を同じくして話があった外食へ挑戦をすることになりましたが、小売りには小売りのノウハウがあるように、まず、外食に参入するには外食のノウハウがあるフランチャイズへ加盟して、接客サービス等のノウハウをシステム的に学んだ上で、次に自分たちの業態を創ろうということになりました。
天池の社長には、これは一代の大きなプロジェクトだから、「横山君やってくれない?」と言われまして。あれがちょうど28歳の時、あれよあれよという間に出店候補地がどんどん見つかり、半年で3軒も出てきました。
フランチャイズの業態選びの中では、肉関係の業態ではなく当時まだ4、5店舗しかなかった「土間土間」に目が止まりました。結局、土間土間は3店舗出店。ところが、よくある話で実際にはシミュレーションのようにぜんぜん儲からない。儲からないわりに投資が重い。
こんなことを続けても事業会社としてプラスにはならないし、会社的にも傾く。「売れているうちにどこか事業をまるごと買ってくれるところを探そうよ」と会議に行くたびに売却の話が出てしまうようになりました。事業は売るが、幹部としてやってほしいからお前だけは残れと言われました。
しかし、事業責任者としてビジョンを語り、人も新規に採用して巻き込んでいたので、中途半端な気持ちで土間土間事業を辞めるわけにはいかない。マイナスからのスタートになってしまうが、自分で会社を創ってでも続けていかないと後悔すると思ったんです。
そこで、事業の運営受託の形でやらせてもらうことにしました。バタバタでしたが、2006年12月に自分の株式会社を作りました。事業的にはトータルすると、年間1000万くらいの赤字でした。経験だけで言えば25歳で事業をはじめ、若い頃からコツコツと貯金はしていたので、最初から自分の手持ちの資金では展開できましたが、正直怖かった。
最初2店舗からスタートし、社員も4人、アルバイトを入れると30、40名くらいはいた状況です。役員報酬を決めるときもどうしようか迷いましたが、赤字だし、最初は月額20万円という数字に設定しました。
当時、自分が住んでいた住居の家賃が15万。貯金を切り崩してなんとか、ぎりぎりかつかつという有様です。それでも、一生懸命がんばって道を拓こうと、社員も巻き込んでいき、一緒にやろうよと呼びかけました。
今になって思うと多くの苦労がありましたが、その僕の呼びかけに皆呼応してくれ目の色を変えて働いてくれました。自分も人、もの、金という部分で、シビアに見るようになり、ここから意識が大きく変わり、あれよあれよという間に業績もみるみる回復するという経験をしました。
同じスタッフで赤字だったフランチャイズ店が、スタッフのモチベーションが変わったことによって黒字化されていく。人ってやる気さえ出れば、変われるんだなと感じた瞬間です。
そこから事業の成長のためにフランチャイズ業態の加盟を増やし、2007年5月にもう1店舗「ステーキのいわたき」に加盟しました。年の終わりには、「ステーキのけん多摩センター店」をオープン。けんの井戸社長には昔から可愛がっていただいており、本当にお世話になった方です。
その翌年に国分寺店をオープンしました。ようやくこの時、WBSの取材があったりして、メディアを通じて飲食店がブレイクする体験をしました。次いで、お誘いがあって立ち食い寿司もやってみました。ただ、これは職人をうまく使いこなせずあえなく撤退しました。
そしてついに、2009年いよいよ肉を使った初めての独自業態、「ビストロガブリ」の立ち上げを行いました。五反田にはもともと居ぬきで入手した物件があり、たまたま魚に詳しい人材が入ってきたので、水槽を入れた魚業態など、和食業態をいろいろ試していたのですが何をやってもうまくいきませんでした。
あらためて五反田で何やったらは上手くいくのかなとゼロから検討し直したところ、洋食をやってみようという話になったのです。五反田には当時スペイン料理の業態しかありませんでした。そこで、得意の肉を使った業態である、ビストロガブリを始めました。当時ワンコインが流行っていたので500円均一にしましたが、それでも最初は全然売れませんでした。
でも、結局店は人なんです。業態も大事だけれど、人、やはり店長だなと気づき、元気な店長に替えました。すると彼も彼なりに一生懸命やってくれて、みるみる業績が上がっていった。オペレーションも、人の意識もベクトルが1つになっていきました。
業績が悪いときは、料理長と店長が仲悪いとか、コミュニケーションが取れないとかばらばらだったんです。ところが店長交代後には売り上げがどんどん上がっていって、今ではうちの中でも大事な繁盛店になりました。
何と月400万円位しか売れなかった店が今は月1200万売るようになりました。一番苦労しましたが、この店の経験があるから、大抵の店はやれると自信がついています。
主要業態「LA COCORICO」の開発
東日本大震災の中あえてオープン
店の業績は人のオペレーションで変わってきますが、それにプラスとして商品力が加わります。なんちゃって料理人しかいないところから、しっかりした料理人が年を重ねるごとに入ってきてくれて商品力が上がり、プラスアルファの効果が出せるようになってきました。ようやく、ここからは本格的に自社業態に向かっていきます。
常に戦略とビジョンを考えて、経営していこうと思ってはいますが、商売なので、きれいごとを言っても継続しなければ、その先の発展はない。そこで、まずはやりたいことではなく、儲かる事業、今できることをやる。
フランチャイズ事業で実績を作りつつ、一方で自分が本当にやりたいことは何かを突き詰め展開していく。
我々がやりたいことは、世の中に新しい価値を提供していくことです。それがRYコーポレーションのR、レボリューションの意味するところです。やりたいことは常に変わらず、今でもそう考えながら、一切ぶれずに進めてきました。
ただ、今になって思うと、当時は本当に何の経験やスキルがあるわけでもないメンバーでよくやっていたな、という感じですが。
僕たちの提供するサービスが一段上がったと自認できるタイミングは、六本木に「ガブリシェア」というお店を出した時です。今の総料理長の渡邊という人間が入ってきてくれてこれで大きく変わりました。
僕たちの会社は最初は料理人専業という人がいなかったので、外部の方にメニュー開発をお願いしていました。これは反省なんですけど、大体こういったやり方をするとうまくいかないものです。僕たちも数多くの失敗がありました。
一方、渡邊は料理人としてのキャリアを、イタリアのミシュランで星もとっている名店で積んだり、アルマーニのレストランで料理長をしたりという人間なので、言うなればテクニックもさることながらノウハウなど一流でした。料理だけじゃなくて、人間的にも素晴らしいです。
料理人になる人というのは職人気質の方が多く、経営として扱う際には難しい人間であることが多いんです。こだわりがお客様に向いたものであればいいのですが、意外とそうでない人も多くて、弊社としては過去に難しさを感じたことが多いので敬遠していたところがありました。ただ、やっぱり肉をやっていたので、肉に関しては尖ったレストランにしたい。「ああさすがだな」と言われるものを作りたい。
六本木での渡邊との出会いが、今日までの商品力を作っているなと強く感じます。渡邊には、今後こういった自分たちにしかできないレストランを作っていきたい、うちはとにかく本物、本質にこだわって店作りをしていきたい、そういうビジョンを語り、共感してくれました。
その後、たまたま上野のホテルの1Fで居ぬきで物件が出ました。ホテル自体も経営主体が変わり違うホテルで、「開業するレストランを探しているのだが、どうですか?」という話でした。
ところが上野といっても、北の方で岩倉高校並びのところで、どちらかというと入谷に近い。いろいろな人に相談したら、「絶対やめたほうがいい」「危ないよ」「何やりたいの?」という話になり、猛反対でした。
でもね、僕はいけると思ったんです。条件はすごくいい。上野だから逆にここだったら、結構かっこいいんじゃないかなと。「どう?」と、メンバーたちに聞いたら「社長がやりたいならやりましょうよ」と賛同を得て進出を決定しました。
やると決めたら、その業態に関しては、何をやったら入るだろうねと議論を重ねて、ホテルのレストランで、朝食からの営業なので洋食。常務の梶から、上野といえば「焼き鳥とビール」を、洋食風にしてみたら面白いかもしれないと提案がありました。
ロティサリーマシーンを使って、鶏を焼き上げたロティサリーチキン、そしてベルギービールを中心とした業態。渡邊が得意なフレンチイタリアン業態がいいんじゃないかと。こうして中核業態のLA COCORICOは生まれました。
しかし、タイミングは極めて悪く、開店が震災の3日後。しびれました。経営判断としてどうしようか迷いましたね。ホテルの試泊が、ちょうど3月11日震災の日だったのです。ホテル側から宿泊の招待を受けていたので、「ホテルはどうされますか?」と聞くと「予定どおりやります」との答え。
では朝食もやらなきゃいけない。そこで予定どおりオープンすることに決めました。オープンする頃は、世の中は完全に自粛モードで非常に厳しい状況でした。でもやり続けなきゃいけない。
だって自分たちが暗い気持ちでやっていても世の中は一向に明るくなるわけじゃない。自分たちにできることは何か。光を灯すことだろうと。地元の法人さんなどに必死の思いで案内したところ、そういう方々からかなり応援していただいて、結構速い段階で立ち上がっていきました。
結果的には、半年かからなかったです。このブランドを大事に育てて行こうと、ここからLA COCORICOを中心に当社の業態の展開が始まっていきました。
感動創造、経営について考えること
僕は人は考え方で未来が決まっていくと思います。基本は商人として、ビジネスっていうよりも商売だなと感じています。小売をずっとやってきたから、1円のありがたみがわかる世界で揉まれて生きている中で、食を通じて当社の理念である「感動創造」を実直にやっていきたいですね。
感動創造という理念は創業当時からあります。僕らはプロとしてやっていく以上、お客様に満足してもらうのは当たり前。そのうえで飲食サービスの1番のてっぺんはどこだろう、感動にあるんじゃないかと考えています。
お客様には、なんらかの期待を持ってご来店していただいています。お客様が求めるものは、料理、サービス、空間であり、その期待をはるかに上回ったとき、満足を超えた喜びとか感動を感じるのではないかと思います。さらに、様々なお取引先様も、僕たちと付き合うことによって、繁栄に繋がっていくことで感動をもたらせたらと考えてます。
お客様だけではなく、お取引様からの感動、全ての方々の期待をはるかに上回る感動を作り続けていきたい。すべてのステークホルダーへの貢献。これを経営として企業として体現し、実現していきたいと思っています。
さらに、僕の座右の銘で、「意思あるところに道は拓ける」というのがあります。「意志」ではなく「意思」です。まさに人生ってこれだなと思っています。まずは自分の意思から全て始まる。やるのかやらないのか。そして努力してやれば必ず道は拓けていく。全てはご縁、良いことも悪いことも自分が引き寄せているのですね。
意思があれば、正直どんな到達点にだって行ける。ただ、やはり僕もまだまだ、常に緊張感をもってやっています。10年やってきてすごいですねと言われることもありますが、たかが10年なのです。僕がかつてお世話になったサンアイさんも天池さんも創業40年以上経営をしていて、本当に凄まじいことだと思っています。
僕もそういった先輩達に一歩でも近づいていきたい。何事も続けていくことが大事だと思います。そこで雇用も作りだし、企業として地域として貢献していく。
だから僕も、常に緊張感をもって、そんな奇をてらった店ではなく、常に本物、本質を求めていきたいと思います。なんちゃってや流行りものは長続きはしない。絶対本物、王道が最終的には残るのです。強いから勝つんじゃなくて、勝ったものは強いとも言えます。
ビジネスマンである前に、人としてどうかというところが重要ですね。まずは、常に明るく元気に素直で謙虚であること。親、家族など身近な人に感謝の気持ちを持つこと。物を大切にし、約束を守ること。
人としての当たり前のことが最初は絶対条件になってきますね。
社員を役職者、店長とか料理長に任命するとき、1つの判断基準として、当然スキルは大事です。さらに大事なのは、お客様に対する想い。仲間に対する想い。ただ働くだけじゃなくて、学生さんであれば、会社に貢献したい、社会に貢献したいと考える人。
そういう人にチャンスを与えていきたいと思いますね。入社の年齢でもなく、社歴でもありません。
最近は、アルバイトから正社員への本採用が増えてきています。会社があるべき姿です。少しずつ、企業文化ができてきました。当社の企業文化は、自由闊達です。マニュアルで縛っていないので、1人1人の個性がそのお店のサービスに反映されたりします。
ところが、たまにコンセプトと違うということもありますが、やって良いこととそうじゃないことはちゃんと分けています。一番ぶれてはいけないのは、自由にはやらせるけど感動創造という理念。ベクトルがお客様のためになるのかどうか、そこに対して一貫していることですね。
【プロフィール】
横山藤雄(よこやま・ふじお)氏…1975年、茨城県生まれ。高校卒業後、年商10億円規模の精肉店や飲食店を営む株式会社サンアイに入社。20歳で店長をまかされる。2000年に年商80億円規模の精肉店やスーパーを営む株式会社天池に入社。同社がはじめた飲食店事業の責任者を務める。2006年に会社が飲食店事業からの撤退を決めたのを機に、事業を引き継ぐ形で独立。株式会社RYコーポレーションを設立、代表取締役に就任。
株式会社RYコーポレーション
〒108-0074東京都港区高輪4-10-63 エミナンス高輪
TEL:03-6416-0210
年商:35億円
従業員数:600名(アルバイト含む)
http://www.ry-corporation.com/