株式会社にっぱん ‐ 江戸前寿司の源流、立ち喰い寿司で 日本食文化を広める 株式会社にっぱんの企業物語
江戸前寿司はもともと立ち喰いだった。遠浅の江戸湾で採れた新鮮な魚介類を新鮮なうちに、屋台で立ったまま食するのがもともとのスタイル。
座るようになったのは第二次世界大戦後らしい。
この江戸前寿司の文化を復活させたのが「魚がし日本一」を中心に展開する、株式会社にっぱんである。
立ち喰い業態へのこだわりと可能性を代表の近藤洋一氏に聞いた。
─立ち喰い寿司を中心に展開されている全業態のイメージをお聞かせください。
今は、外食産業として立ち喰い寿司を中心に展開しています。ただ、寿司というより、魚を使った日本食がベースにありまして、ピラミッド戦略を組んでいます。
つまり、立ち喰い寿司だけではなくて、一番土台となるのが魚を使った日本食で、これをベースに日本の食文化を広げていくという考え方。業態名としては、立ち喰い寿司の「魚がし日本一」、高級店の「美寿思(みすじ)」、魚菜料理と酒の「青柚子」、魚介まぜそばの「魚がしそば」などを展開しています。
中心となる立ち喰い寿司業態の特長としては、お寿司の美味しさを変えずに提供方法を変えると、一貫75円から出すことができようになること。
なぜかというと、高級寿司もやっているので、高級寿司で使うネタと同じものを立ち喰いで提供することができる。一括仕入れ、加工センターによる一次加工だからです。さらに、業界に先駆けた独自の商品開発も積極的にやっています。たとえば、びんちょうまぐろなどは、生だとバサバサで食べられない。冷凍したことによって脂がまわって「びんとろ」となったりするのです。
─事業はどのように立ち上がったのでしょうか?
最初はお寿司屋ではなかったのです。創業者がほっかほっか亭の創始者でして、ほっかほっか亭の店舗に対し、ご飯の炊飯ネットを販売する会社として立ちあげました。最初は日本炊飯ネットと言いまして、それがのちに「にっぱん」となった。いろんな事業をやっている時に、オーナーが立ち喰い寿司を見つけ、これ面白いんじゃないかと思って、1号店を新橋に出しました。
それが平成元年のこと。寿司の歴史は二百数十年ありまして、もともと立ち喰い寿司だったのが、だんだんと高級になってきたという流れです。ところが近年、気軽に楽しめる小僧寿しさんとか出てきて、寿司屋が普通になってきた。
しかし、美味しいお寿司っていうと結局は高くなる。そこで僕らは、美味しいお寿司を安く食べてもらいたいというのが基本です。初代の店長が前社長で、今の会長、村田宣政です。その村田が、オーナーに言われて、一人で調べて自分で仕入れしたりして、業態を開発しました。
─実際に1号店を出して、どういう受け止められ方をしたのですか?
最初は1日3万円くらいしか売れなくて、全然売上が上がらなかったですね。狭い店で目立たなくて、場所は今の総本店と同じ場所。しかも職人さんも抱えないといけない。ところが、職人さんがオープンの日に来ない。次の日辞めているみたいなことがありました。寿司屋でいうと包丁が無くなったら辞めたな、ぐらいの世界。その後、いろいろ失敗を繰り返して、券売機を導入したりとか、深夜営業したりもしましたが、なかなか受けなくて、地道な努力、宣伝活動をするしかありませんでした。
新橋ではサラリーマンが出社してくる7時8時にはシャッターが閉まっている状況。お昼にランチに来ていただけるかどうか。知名度がないので、村田が通勤ラッシュの時に店の前を派手に掃除し始めた。
水をぶちまけてデッキブラシでゴシゴシやっていると、こんなところにお店があったんだと気づいてくれるようになる。それが奏功して、徐々に認知度が上がっていった。お客様がお昼に来たり、夜来たりしてくださって、どんどん増えていきました。
知名度が上がり経営が好転したのは開業後1カ月くらいで、売上日販3万だったのが50万になりましたね。しかし席数が8席しかないので非常に狭い。そこで、少しでもお客様に入ってもらえるよう、カウンターに斜めに立つ「ダークダックス・スタイル」が生まれたのです。
─その後の店舗展開とマネジメントの変遷についてはどうだったのでしょうか?
3店舗まで出したあとは、どんどん出店して、伸びていきましたね。そうするとやはり職人さんの離職率が激しい。90%以上退職する。1年もたない。高級店から来た職人さんですと、どうもゆっくり握るので、間に合わない。速く握れる人しか残らない。
職人を集めないと寿司屋ができないので、次第に人件費が高騰していって、10店舗出したところで赤字転落。売上は上がっているのに、原価、人件費、家賃も高い。それで、いろいろ追いつかなくなって、その時に新卒を採ろうと考えたのです。僕がまさに、その2期生にあたります。
もともといた職人の方からみると、若造なので叩かれました。今だと問題になりそうな話ですが、当時はシフト表に休みを引いてもらえないことも多かった。特に僕の場合は、怖い店長がいて、チラシを作らせてもらったはいいものの、見せるといつも「全然だめだ!」しか言われない。いくら工夫して出しても「全然だめだ!」。それで、あるとき店長が作ったチラシを隠しておいたんです。それを出してみました。そうしたら、やっぱり「全然だめだ」と。
そういう世界なんだ。そこに気づいたときに逆にスイッチが入りました。店長が何をしてほしいかを考えて、店長がしてほしいことを積極的にやるようにしました。ふつうの人なら腐りそうな仕事を店長から奪っていきましたね。店長は数字が苦手なので、朝早く来て、「店長これやっておきますよ!」、店長の休憩時間に「それ僕にやらせてくださいよ!」とか言って。
そうすると、そのうち店長が、僕が作ったチラシに対して「お前うまくなったな」と。そうなるとどんどん教えてくれる。序列があるから、店長が可愛がっていたら他の職人も絶対にいじめない。おそらくどんな社会もトップをおさえることが大事ということなのですね。
僕はまた、本部にもそれとなく仕事ぶりをアピールしていました。その時いたマネージャが3人、ところが担当エリアが厳密に決まっていない。布巾の色が3種類あるのですが、その使い方がマネージャによって違う。白が一番清潔度が必要なものなので食材関係、緑がお皿をふいたり、ピンクはダスター。これがまた、緑の扱いがマネージャによって違う。視察に来るマネージャーに合わせて、店舗オペレーションを変えるなんてずいぶん馬鹿げたことをやっていました。伝票の出し方もマネージャによって違う。
これは早く自分が出世して、偉くなって統一しないと現場がかわいそうだと思いましたね。現場で変えても1店舗しか変わらないけれど、偉くなればなるほど、全体を変えることができる。そこで僕は早く出世したいなと考えていたのです。
─もともと入社した動機は?
学生の時は、東京水産大学で、お寿司屋さんでバイトをしていました。どうせなら長く働きたい、中小のこれから大きくなる会社に入り、そして社長になりたい。その頃から思いとしてはありましたね。
大手で揉まれるよりは、伸びる会社に入り、若いうちからそこで長く働く。家が漁師でしたが、父親も漁師は大変だから継がなくていいと言ってくれました。ならば東京の大学に入り、東京で一旗あげてやろう、そのために東京で働きたいなと思いました。アルバイトを20種類くらいやりました。
やはりメインは寿司屋で、中元とお歳暮は山形屋、マハラジャの黒服とかもやっていましたね。ちょうど僕が入社した時は外食バブルで、居酒屋とかも考えたのですが、自分としては小さいところがよかった。
その時、会社説明会でにっぱんと出会いました。寿司職人って、普通何年たっても握らせてもらえない。それをにっぱんは6カ月で即、握らせてもらえる。そういう人を求めている。これはおもしろい、6カ月で握れるんだと。5年たってもまだ握らせてもらえないところもありますからね。
果たしてやっぱりきつかった。当初は新卒で残るのが20%ぐらいでしたね。しかし、3年でやめないで、我慢して3年で店長になると、役職があがるので、楽しさが分かるようになります。店長になるまでが一番辛い。
僕は、店長になって2年で本部に上がりました。現場が楽しかったのでもう少しやりたかったのですが、本部に上がりたいとアピールもしていたので、経営企画室という難しい部署に配属になりました。
昨日まで握っていたのに、本部に来たら初めてのお客さんが監査法人で、すごいとこにきたなと。独学で財務の勉強をして、いろんな本を読んだりしました。もともと数字を分析するの好きで、現場にいる時からパソコンは自分で買って、アピールをしていました。当時は店からの報告書も手書きだったので、パソコンをやっている奴がいると評判になっていました。
─その後実際に御社としてはどのような歩みをされたのですか?
株式上場をめざしていて、平成14年、年商が55億まで伸びました。その時はすごい勢いよく伸びた。でもそれは、成長じゃなくて膨張でした。既存店は売り上げが下がるし、人はいないし、全然店長の能力がない人が店長をやったりして、赤字が膨らんで、リストラを敢行して閉店したり。本社も移転したり、どんどん落ちていきました。
その時に、やっぱり財務体質を固めないとだめだと考えました。お金の面で心配にならないような戦略を立て、徐々に地盤を固めて教育を入れました。教育システムはいろいろ入れたと思います。合う合わないはいろいろありました。まずは、前社長が教育を行いました。前社長自らの言葉で、毎週社長研修とか社員同士の勉強会とかも積極的にやるようになりました。特に新卒も育ってきたので、そういう人たちが後代の教育ができるようになってきたと思います。
─社長交代されていますが、その意図は? また、今後の御社の青写真はどういったイメージでしょうか?
村田が65歳になったとき、うちは100年企業を目指そうと言い始めました。そこで引き継げるうちに、次の世代に引き継がなきゃと思ったようです。村田も同族経営という思いがなくて、新卒を入れたのも、後代に引き継いでいく意味があったのですね。だから実際には20年前から引き継いでいく文化を考えていた。
村田の心の中で一旦上場は見送って、もうそろそろ引き継いだ方がいいんじゃないかと、会社全体を若返りさせました。年配の役員さんにも退任していただきました。100年続く企業の土台作りに協力してほしいと。
後は、日本の食文化を繋げていってほしい、という思いがあったと思いますね。僕の使命は、伝統と進化は相反する言葉だけれど一緒にやらないといけないってこと。伝統はすごく大事にしたい、でも時代に合わせて進化してほしいということです。
僕が会社にかける思いは、新しい和食の文化を、寿司とか天ぷらじゃなくて、にっぱんが作った和食で展開したいということ。第一段階のビジョンとしては名実ともに100年企業、日本一を目指す。お客さんがたくさん来る店にしたい。単価ではなくて、お客様の数が大事。お客様に愛されている日本一、客数日本一がいいですね。
─御社に新卒で入るとどういうキャリアを歩めますか?
必ず現場を経験してもらいます。野球でいうと、速い球を投げられるようになるのは足腰を鍛えたから。基礎を訓練しないと、上に上がったときに活躍できない。いきなりトップに立つより、ちゃんと下から順番に。僕も今、新卒たちにメッセージを発しているのは、君も社長になれるんだということ。
去年の新卒のうち2人が、「社長になるためにはどうしたらいいですか?」と聞いてきました。嬉しかった。そういう高い志を持ってほしいです。ただ迷っている子たちも迷っているなりに、何を目指しているのか、明確じゃなくても、幅広く考えてほしいと思います。
とにかく我慢強く、自分がある程度決めた目標に対して、我慢の3年がすごい大事。3年やってだめだったらやめてもいい。合わないということだから。今はブラックじゃないので、優しく育ててくれます。ここがねこうでね、とか気を遣ってます。この角度だと見た目いいんだよとかね。今、研修期間3カ月で握れるようになって、店に出しますから。
学生時代って休みも多くとれる。いろんなところに行ってほしいなと思います。その地域にとどまるのではなくて、いろんなところを見てほしい。違う場所を見て文化を楽しんでほしいです。醤油一つでも、東京、大阪で違う。いろんなとこでいろんなものを食べていってほしいです。
僕は、海洋大学時代に実習で船にのって海外を回りました。いろいろな魚料理があって、海外経験はすごく役に立ちました。社会人になるといろんな人といろんな地域で食べることを楽しんでほしい。単なる食事じゃなくてね。
勉強すると役立つと思うものは、いろんな職業にあるとは思うけれど、必ずあるのは経理なので、数字は必須。数学とか統計学とかマーケティングとかが必要。あとは本を読む力です。新しい知識は30歳までに勉強する習慣をつける事が大事、つけなければ老化がはやいとも言われていますね。
【プロフィール】
近藤洋一(こんどう・よういち)氏…宮崎県出身。出身校:東京海洋大学。
「基本的に優しいと言われます。お酒と人とのふれあいが好きで、外食産業に飛び込みました」
株式会社にっぱん
〒104-0045 東京都千代田区有楽町2-10-1 東京交通会館10階
TEL:03-6259-1928 FAX:03-6259-1947
URL:http://www.susinippan.co.jp/
年商:53億400万円(2017年2月実績)
従業員数:648名(正社員数127名)(2017年5月現在)