◆文:加藤俊

(上) 株式会社ゼットン/代表取締役社長 鈴木伸典
(下)鈴木社長の腕に巻かれている「赤サブ」

zettonという会社には一本の腕時計が紡いだ物語がある。高級腕時計ロレックス・サブマリーナ。二代目鈴木伸典社長の腕にはいつも一本のサブマリーナが巻かれている。

ダイビングウォッチとして名高いこのモデルには、通称「赤サブ」と呼ばれる希少モデルが存在する。

 

1960年代末期~1970年代後期までのわずかの間、文字盤の「Submariner」の記載が「赤く」印字されて生産された珍しいモデルなのだが、鈴木社長の腕に巻かれたこの「赤サブ」は創業者の稲本氏から託された特別な一本だ。

 

事業というものは時間の経過を経て発展するにつれ、創業時の革新的なコンセプトやテクノロジーよりも、緻密なオペレーションと仕組みが求められるようになってくる。

すなわち、ステージごとに経営環境に合った経営者が求められる。

企業を存続発展させるためには、経営者のスムーズな交代が必要となる場合が多い。もちろん、理屈では誰しも理解するが、現実にはそう上手く運ぶわけではない。

 

その点zettonは両者間の呼吸が合致した。

鈴木社長は二代目として何をすべきなのかを明確に理解したうえで、新しい理念をまとめ上げた。バトンタッチが円滑にできた理由はどこにあるのか、経営を引き継いだ鈴木社長に同社が辿ってきた物語を語ってもらうなかに答えがあった。

 

 

(写真は栄の古民家を改装したZETTON1号店)
zettonとは zettonの事業は、基軸にダイニング事業部があり、街や建物に合わせた業態開発を得意としている。その街に住んでいる人、働いている人、遊ぶ人が求める、この場所にこんな店があったらいいなという想いをそれぞれ形にして成長した一大飲食グループだ。
現在では事業が派生して、ハワイアン・カフェ&ダイニング「アロハテーブル」を中心としたハワイ事業や、レストランブライダル事業、ビアガーデン事業、海外事業なども展開。全て「店づくりは、人づくり 店づくりは、街づくり」という理念を軸とした事業運営を行っている。

1995年に古民家を飲食店に再生先代が原型を創る

zettonの物語は創業者の稲本健一が名古屋の栄で一軒の古民家を舞台に飲食店を開業したところから始まります。栄と聞くと繁華街のイメージがありますが、その古民家は駅から歩いて15分はかかる街外れにありました。

その場所も今でこそ飲食店が並ぶようになりましたが、当時は問屋街。帽子屋や靴屋、倉庫が並び、人通りのある場所ではなかったんです。その一角にぽつんと古民家が建っていました。

 

稲本はその古民家を見た時にインスピレーションが走ったと言っています。

ここで自分たちがあったらいいなと思えるお店を創りたい、今までになかった飲食店、人のニーズや時間の使い方が変わる、そんなお店をこの場所に創りたいという気持ちが沸々と湧き上がってきたそうで、この場所に人が集まってくるような未来の映像(シーン)が浮かんだとよく言っています。それが1995年。今から22年前のことです。

 

稲本は起業する前はプロダクトデザインのデザイナーをやっていました。ですから、起業するにあたってもデザインを武器としていきたい想いがありました。同時に学生時代からバーテンをやってもいたので、お酒を提供して喜んでもらう酒場の雰囲気自体が大好きな人でした。

それで自ずと「デザイン」と「飲食」を掛け合わすことができる飲食店をやろうと考えたそうです。

 

当時はお洒落なお店自体がまだ少なく、飲食店の業態も居酒屋かバー、あるいはファミリーレストランや喫茶店ぐらいしかありませんでした。また、あの時代の飲食店というと街の中の一要素として存在しているものに過ぎませんでした。端的に言うと、飲む食べるという行為のみが主目的の場でした。

例えば、好きな子を連れてお店に行くとして、その場合当然オシャレをして、女の子の方もばっちりメイクを決めますよね。手には素敵なバックをかけて。でも、そういったときに行きたいと思えるお店が当時はあまりなかったんです。名古屋には特にありませんでした。

 

そういったなかで※ZETTONのコンセプトは飲む食べるだけではなく、その場の空間や時間の過ごし方の細部まできちんと設計して、お客様に感動をしてもらえる場を創ろうというものでした。いかに自分たちが理想とする空気感をお店のなかに現出させていくかを真剣に考えたものだったんです。

ZETTONが評価されて会社として成長できたのは、お店のコンセプトを明確にし、「過ごしたい時間が過ごせる空間や雰囲気」を一つひとつのお店で創ってきたからに他なりません。

 

実際に栄の1号店はオープンカフェ・スタイルで、そのテラス席を抜けてなかに入ると長いバーカウンターがありました。2階のダイニングフロアは民家の古い様式美をそのまま活かした空間に仕上げてありました。またその上の屋根裏部屋では個室としてプライベートを過ごせる空間を用意しました。カフェでもバーのような使い方もできるお店でした。

提供する食事のメニューは当時流行り始めていた気負い過ぎない創作料理でした。このように空間と時間、機能を総合的にデザインで纏め上げて、お客様に驚きと心地よさを齎そうとしたお店でした。

 

多くのお客様に集まっていただけるようになったのは、オープンして約8カ月が経った頃からでした。すると、今まで人通りのなかった場所の雰囲気が変わり始めたんです。お店から発せられる熱量のうねりが地域を活性化して、ZETTONがまさに街の顔になっていったんです。

「店づくりは街づくりになるんだ」という理念が本当にカタチになったのです。よく稲本は、「店を繁盛させなければならない理由は店を創って街を元気にできるから。店を通して街を創るのがZETTONの使命だ」と話していたんですが、まさに街を変えることができたんです。

 

ちなみにプロモーションは当時の飲食店だと当たり前だったビラ巻きから始まり、地方のテレビ局やラジオ宣伝を打つよりも、稲本の得意としたブランディングを意識した手法をとることが多かったです。例えば、映画館でイメージ映像を流したり、ZETTONとしてお届けするグラフィカルなDMも好評でした。

そして、雨が降ったときに差し上げる傘にはZETTONのロゴが入ったものを手渡したりしました。デザイン性に長けた稲本のこういったアイデアとプロモーション戦略は飛躍的にZETTONの知名度を高めていきました。

 

それで2号店を出そうということになり、場所として選んだのもやはり栄から離れた場所にあるベルベットの倉庫として使われていた6階建てのビルでした。これをzetton ODEONという店として再生、開業することになりました。この店舗はその後、僕が店長としてデビューする店舗となります。

※zettonの1号店の表記として「ZETTON」

 

デザインとオペレーションの役割
繁盛店を創りながら、「人づくり」に気づく

zettonの社名の由来は、舌(ゼツ)と呑(トン)。舌で味わい、のどで呑む「フード・アンド・ドリンクス」を日本語ひとことで訳した造語からだが、ウルトラマンを倒した最強の怪獣ゼットンの名前にもかかっている。

僕が入社したのは1996年秋のこと、創業丸1年が経った頃でした。当時僕は司法書士になろうと思っていたんです。というのも安易なのですが、当時の司法書士の平均年収が1500万円と聞き、単純に悪くないなと思ったからでした。

ただあまり勉強に身が入らず、フリーターとして生活をしていたところ、ODEONを開業するにあたり、「いつまでもフラフラしていないで、そろそろちゃんと社会人をやれよ」と稲本から誘われ、最初は腰かけ程度の気持ちでアルバイトとして雇ってもらいました。

稲本は僕が大学生時代によく遊びに行っていたバーのバーテンで、僕が学生アルバイトとしてバーで働くきっかけを作ってくれた間柄でした。

その後、社員として正式に入社することになったのですが、なかなか仕事に身が入らず、店長に昇格した後もあまり良い店長ではありませんでした。

 

自分が変わったきっかけは入社してから2年後のことでした。旅行で行ったジャマイカの帰りに稲本とNYで待ち合わせをして、当時流行っていたカッコいいお店をまわったことがきっかけでした。また、同時期に妹の結婚式があり、東京の最先端のお店を見て回る機会も重なったんです。

NYも東京も僕にとってすごく刺激的な街でした。お洒落でカッコいいお店が飲食業に対しての気持ちを駆り立てたのです。その時に想いました。これは待てよと。zettonであれば日本のレストランシーンを牽引できるようになるかもしれない。そこから見える風景を見てみたい。そう思った瞬間にスイッチが入りました。

 

当時僕はODEONの店長で、最初はいきなり売上を3割程落としていました。今一度自分にできることは何だろうと考えました。するとやはりチームが一丸となったお店を創ることだろうなと。稲本が手掛けた独創的なお店に息吹を吹き込むようなオペレーションを確立したいと思い、徹底的にお客様や従業員の立場に立ったお店の運営を試みるようになりました。
すると、ODEONのワンフロア30坪4階までの店の売上が一気に上がりました。これが本当に嬉しかったのです。結果を出せたということが自信にも繋がりました。自分のzettonでの役割、使命が見えたようにも想えました。

チームを創ることによって人を育てるという意識が芽生えたんです。クリエイティブ担当の稲本が創って僕が売るという役割分担のラインが見えたんです。

 

社長になる決意、
そして「辞めません!」宣言

それからしばらく経って社員面談で稲本と話をしたときのことです。名古屋の街は狭くて、稲本と飲みに行く場所が重なることが多かったのですが、僕が前向きに仕事をとらえている言動がそうした場所を通じて伝言ゲームを経るうちになぜか「鈴木が独立しようとしている」という話になって稲本の耳に伝わりました。
僕にとって稲本とその件について話をしていた時に投げかけられた言葉が忘れられません。「独立どうのこうのという話よりもzettonをのっとってやるくらいの話として俺は聞きたかった」と言われたのです。この一言は僕にとって衝撃でした。

というのも、ちょうどその頃はODEONの業績が大きく伸びてお店創りが楽しくなっていく一方で、この先自分はどう生きていくのがベストなのかを模索していた時期でもあったのです。僕の実家は会社を経営していました。経営者の両親と創業者の祖父母という環境で育てられたので、幼い頃からいつかは経営者になりたいという想いを持っていました。

 

一方でzettonの仲間とお店を創り上げていくのはやりがいもあるし本当に楽しかったのです。仲間と共に過ごす時間が濃密になればなるほど、仲間を置いてスピンアウトする自分がイメージできなくなっていきました。後輩もどんどん育ってきていましたし、何より自分の高校時代の大事な後輩を当時の仕事を辞めさせてzettonに来てもらっていることも関係していました。

彼が横浜にいたところを名古屋に強引に呼んでしまったので、責任感もありました。

 

ただ、そんな頃に創業者の祖母が亡くなったのです。祖母は生前僕に会社を継いでほしいと強く思っていました。当時経営者であった父は直接それを僕に言いにくかったみたいですが、さすがにどうするんだということになりました。家を継がなければならないという想いとzettonでやっていきたいという気持ちで揺れ動きました。

 

稲本の「会社をのっとってやるという言葉として聞きたかった」という発言は、そういった葛藤のなか、もやもやしている僕自身の悩みを瞬時に解決する言葉となりました。結局zettonの社長になりたいという想いの方が大きかったんです。

稲本の言葉を聞いたときに霧が晴れていくように決心が定まりましたし、何度考えても仲間と離れて自分が独立していくイメージがつきませんでしたから。

 

それで父に「やはり継ぐことはできない。僕はzettonでやっていく」と意を決して言いに行きました。父は悲しかったのでしょうが、それでも「おまえがそこまで想っているのだったら、自分の人生を必死に生きろよ」と送り出してもらいました。

 

zettonは当時まだ4店舗、売上5、6億円という水準の会社でしたが、この会社を日本の飲食業の中でリーディングカンパニーに成長させ、その会社の社長になるという目標に僕はとてつもなくワクワクしました。

そこからです。僕は社内社外問わず、「僕はzettonを辞めない」と宣言し始めました。その裏側には、あなたの夢は何ですか?と聞かれて、「独立して自分の店を開業することです」という飲食業界における月並みな返答をしたくないという僕がいたというのも事実です。

 

実際にリーディングカンパニーになるためには東京進出が重要でした。それで東京の1号店である恵比寿のお店に入りこみました。3カ月後には35坪のお店で売り上げ1800万を達成しました。

続いて、銀座のはずれに地上6階地下1階のビルがあるので見に行かないかと稲本に誘われて行ったところ、今度は僕がここだというインスピレーションを覚える物件と出会ったんです。繁盛したらこの一角から賑わう街ができるなとワクワクしました。

様々なシーンを思い浮かべ、利用動機が増えるよう、地下がバー、1階が立ち飲み、2階以上がダイニングと、一棟のビルに3つのブランドを入れ、お客様のリピートサイクルを短くする工夫を施しました。この店が狙い通りに4カ月目に大ブレイクしたんです。

ちょうどこの頃から、社内の役割分担として、稲本が創って僕が売るサイクルが確立してきました。このサイクルを展開できるなと大きな自信がついたのもこの頃でした。

 

そこから怒涛のように銀座に和食と洋食のダイニングや塩辛をテーマにしたバー、六本木のシークレットバーなどを創りました。2004年には洋食和食の絶妙な一線を追求した神南軒で東京でのエリア売り上げ10億円が見えてきました。

実は僕は東京に事業進出していく際、自分自身のなかで掲げた目標が最短でエリア売り上げ10億円を達成しようというものだったのです。それが僅か3年ほどで実現できたのも僕の力というよりは、すべて信じてついてきてくれた仲間たちのおかげでした。

そのころ上場の話が持ち上がり、そのタイミングで副社長に抜擢されました。

 

あの頃はお店創りを通して街を創っていくのは僕たちだというエネルギーに満ち、一人ひとりやるべきことが見え、そこに向かってがむしゃらに駆けていました。何年も何年もそうやって走り続けました。

その過程で「名古屋めし」という言葉を産んだ会社として世評を得たり、尾張徳川家のお屋敷の跡地である徳川園の再開発や横浜マリンタワーの再開発など、多くの公共事業に関わることもさせて頂きました。

 

しかし、不思議なもので一つひとつのお店を創る感覚は、1号店目をオープンさせたあの頃と変わりません。今もお客様が本当に来てくれるのか不安になるし、だからこそ一層お客様一人ひとりの笑顔が見れたときに感動できるんです。

その刺激と感動に満ちた店づくり、街づくり、人づくりを実直に一店舗ずつ行ってきて、時には失敗も重ねながら、その都度ワクワクドキドキを繰り返して、僕たちはここまで来ました。

 

 

稲本が代表者を退く株主総会の前々日二人で会食をしたんです。zettonの代表としての稲本と会食する最後の機会でした。そのとき、「これはお前がつけてくれ」と言って「赤サブ」を贈られました。僕は稲本がこの時計をずっと身に着けていたのを知っていました。1店舗目のお店が軌道に乗ったときに、稲本が自分自身に気合を入れるために買ったものです。
「店づくりは街づくり」を体現してきた僕たちの時間を刻みつづけてきた一本です。とんでもない宝物です。zettonの歴史と共に創業者の想いをのせて時を刻んできたこの時計を「お前、頼んだぞ」とプレゼントしてもらえたことが物凄く嬉しかった。同時にそこはかとないさびしさを覚えました。

 

僕にとって稲本の背中はあまりに大きくて、創業者としてzettonの産みの親であり、僕の社会人として必要なこと大切なことを時には厳しく、時には優しく指導してくれた先輩が、zettonを卒業していく現実はとてつもなくさびしく感じました。

 

稲本は、僕の人づくりの取り組みを静かに見ていて、この後さらに会社を成長させるためにはオペレーションの精度を高める仕組みが重要であると考え、僕にこのタイミングでzettonを完全に任せようと決意したのだと思います。僕はこの「時」を継承して一つのラインとしてつながり、次の代表として「人づくり」につなげていく意味を強く感じました。

 

zettonの新しい物語

5月25日。株主総会のその日、鈴木社長は自らが議長となり総会を進行していった。その中には、稲本代表が退任するという第二号議案も含まれていた。議案は拍手に包まれ滞りなく進んだ。

やがてその時が来た。しかし鈴木社長は言葉に詰まってしまう。沈黙が流れたという。この議案が通ったら本当に稲本代表は退任してしまう。それを考えると、こみ上げてくるものがあった。

 

「本当に辛い時間でした。第二号議案に賛同の方は拍手をお願いします、となかなか言葉にできないんです。やっとの想いで口にしてからも法的にはその場で稲本の退任は可決されたにもかかわらず、まだそばにいてくれているという感覚が心のなかに残っていて。自分としてもそこに縋りたかったんです。

でもさすがに株主総会が終わり、そのまま臨時取締役会に移行して徐々に閉会の時間が迫るにつれ、本当に終わってしまうのだなということがはっきり自覚できるようになっていきました。最後に『取締役会を閉会します』と口にした瞬間のことを僕は一生涯忘れないと思います」

 

人生で一番複雑な心境を覚えた、辛い瞬間だったという。一方最も感動した瞬間は、2日前に稲本氏から赤サブをもらった瞬間なんです、と答えている。

十数年前、この会社で社長になると高らかに宣言したころ、実際に社長になることの痛みまで想像できるはずもなかった。しかし夢は実現され、zettonの物語は鈴木社長に託された。この先、この会社がどういった物語を辿っていくのか、全ては鈴木社長の舵取りに委ねられている。そのとき腕に巻かれた赤サブは航路の指針となるはずだ。

会社が一大飲食グループに成長していく変遷を小気味よい音を立て、しっかりと紡いできた時計は、今日も時を刻んでいる。

 

 

稲本が作った経営理念『店づくりは、街づくり』『店づくりは、人づくり』ですが、この店と人を中心に据えた創業以来の理念の軸は大切に守りつつ、今後更なる成長をしていくために、僕は社長になってから理念を『店づくりは、人づくり』『店づくりは、街づくり』と改めました。

『人づくり』と『街づくり』の順番を入れ替えたのです。ここには業務の効率化と仕組化を徹底的に研磨していくことで、更に人が活きる企業を創っていきたいという想いを込めています。

僕はzettonというチームの輪の中に入って仲間たちと一緒に伴走しながら、企業成長のための太いトルクを生みだしていく経営スタイルのイメージを持っています。

一方でクリエイターでありアントレプレナー(起業家)でもある稲本のスタイルは、力強いリーダーシップのもと周囲を引っ張って企業を大きく成長させていくという手法でした。

 

稲本からバトンを受け継いだ段階で、企業を成長させる手法が変わったことを経営理念に反映させる必要を感じました。ただ基本的には、zettonが掲げてきた理念が基軸にあることは変わりませんので、意味を変えないでやり方を変えるポイントを探したんです。それで順番を『店づくりは、人づくり 店づくりは、街づくり』と変えたのです。
よく僕たちは、繁盛店を作ることでそこにたくさんの人が集まること自体が街づくりになることを説明する際に、店づくりを「花には蝶が舞う」という言葉で例えます。美しい花とは「お店(繁盛店)」のことで、蝶々とは「人(お客様やスタッフ)」のことです。花が美しければ蝶はたくさん集まります。その光景を一枚の絵として見たときに綺麗かどうか、ここでいう絵とは「街」のことです。

 

僕が考える、若いうちにやっておくとよいと思うことは、徹底的に友達を増やして大事にすることです。これは父親によく言われたことなのですが、たくさんの人と深く接することが、学びやスポーツ、センスを磨くコツなのです。同時に自分に足りないものが見えてきます。

ぜひ全力で仲間づくりに励んでください。そうすることで今の自分に足りないもの、欲しいものが見えてくるはずです。これはテレビや新聞、本などの情報では見えてきません。

 

【プロフィール】
鈴木伸典(すずき・しんすけ)氏…1971年岐阜県生まれ。愛知大学卒。大学卒業後、一時は司法書士をめざすが断念し、「ゼットン」に入社。入社以来、創業者の稲本健一氏をサポート。「ゼットンを企業にする」という使命を掲げ、奮闘。2016年現在、稲本氏に代わり、社長に就任。カリスマ的な稲本氏とは異なり、人間臭い経営を行っていくという。

株式会社ゼットン
〒153-0061東京都目黒区中目黒1-1-71 KN代官山ビル2F
TEL 03-5773-4317
URL:http://www.zetton.co.jp/
年商:99億円(グループ連結 2016年)
従業員数:2,300名(従業員・アルバイト含む)