アパグループ代表 元谷 外志雄氏

 

今やアパグループは、国内、アメリカ、カナダにおいて、ホテルを430棟、71,267室(建築・設計中、海外、FC、パートナーホテルを含む)を展開し、住宅部門を含めた2016年11月期のグループ連結決算は売上高1,105億円、経常利益338億円に達し、世界でも有数の巨大観光、住宅産業グループとなった。

1971年創業以来、短期間での事業拡大はまるで手品を見ているような驚きがある。

その急拡大がなぜ可能だったのか?

また、耳目を集めた中国人宿泊客のボイコット問題になぜ徹底した姿勢を貫いたのか?

その背景を元谷代表に取材した。

 

企業家意識の萌芽

最初から話しましょう。石川県小松市は航空自衛隊の小松基地で有名ですが、私はその町に6人兄弟の4番目にあたる長男として生まれました。当時は家父長制の名残もあって家を継ぐのは長男と思っていて、私が一家を守っていかねばならないという意識が強かったんです。

親父は、木工所を経営しており、戦中は船の舵輪をつくる軍需工場として稼働させていました。戦後は桐箱や、桐ダンスを作る工場に民需転換し、最盛期には100人ぐらいの従業員を擁する会社に成長させました。

ところが頑張りすぎて病気になったんですね。私が幼稚園に入る頃から入退院を繰り返し、病院と家とを行ったり来たりの生活でした。

 

父は、家で食事をするときは他の家族のちゃぶ台と離れて一人膳で、いつも傍らに新聞を置いて読んでいました。自然と一家の親父というのはこういうものかと思いました。

父の入院中は「オレは長男だから」と父の姿をまねて新聞を読み始めたのですが、分からないことだらけで非常に悔しく思い、小学校の5、6年頃から「現代用語の基礎知識」を買って、開きながら分からないことを調べているうちに、個別の内容に興味が湧いてきました。

分類されている各項目、政治、経済、軍事、医学、哲学……と見ていくうちに楽しくなって、全部最初から関心を持って読むようになりました。これが私の常識力の基礎となっていますね。

父は病気で働けなくなりましたが、一方、工場という資産がありました。工場を細かく仕切って、貸し間に転換したんです。事業家の父からすれば病気でもできる不動産賃貸業でした。

小学生の私は父の命令で、貸間の入居者募集チラシを貼りに行ったり、集金に行ったり、雨漏りを直したり、屋根に防水の為のコールタールを塗ったりと動き回りました。

まさにこれが生業で、現在営んでいる不動産業の基礎となっています。父が中学2年生の時に亡くなって、高校は地元の進学校でもありましたので大学進学も考えましたが、1日も早く稼がなければいけない。また、家族もいる一家の主として家計もある。そこで、慶應大学経済学部通信教育部を選択、働きながら学ぶことにしました。

 

信用金庫で将来の事業構想を練る

ところで、世の中では技術や営業が得意だからといって起業し、大きくなって資金繰りがついていかずにバタッと倒れる企業がよくあります。なぜならば、技術だけや販売だけの、得意なことだけで先走って事業の拡大を進めるからです。

事業を拡大する為には、事業の根幹である資金の流れをしっかり把握しておく必要があります。それには金融のメカニズムを勉強すること。私は金融の実態を知るには、実際に金融を業とする金融機関に勤めるのが一番と考え、一家の主として家の面倒を見る必要もあり、転勤の範囲が限られている地元の信用金庫に入庫しました。信用金庫で、多くの取引先の実態についてヒアリングをすることで、将来どんな事業を興したらいいかについての参考にし、考えることができました。

 

気づいたのは、市場規模でいえば頑張っても一定の需要しかないもの、例えば10億円、100億円の規模の事業であれば、最大でもそこまでしか伸ばせないということです。

ならば、「無限の市場規模があるものは何か? もっとも客単価の高い事業は何か?」などと考えました。その当時、いい家に住みたいという思いは多くの人の努力の目標であり、人の夢に手を貸しながら、なおかつ市場規模が巨大な住宅産業に参入するというのは良いのではないかと閃きました。

住宅産業は、当時、大工さんとか工務店があってもなかなか大きな会社はありませんでした。どうしてなのかと見ていると、結局資金がボトルネックになっていることが分かりました。

 

事業拡大のエンジンになる住宅ローンを開発

一方、住宅を建てる側への金融も必要です。当時は今のような住宅ローンはなかったので、サラリーマンはいくら一生懸命働いても、貯まってから家を建てようとすると相当な年齢になっている。建てたくても、建てられない。これが一番の課題でした。

金融機関に勤めている私としては、その解決のために、全国に先駆けて長期15年で元利均等償還の住宅ローンというスキームを商品化しました。元利均等償還は、元金均等償還と比べて初めの負担が大きくなくて、サラリーマンも借りやすくなる。併せて、独立して住宅産業を興そうとしている私にとっても必要であるとの気持ちもありました。

私は最初の家を20歳のときに建てることができました。なぜできたのか。それは信用金庫職員の福利厚生の一環として低利の融資制度の創設を提案し、その実施第1号として融資を受け、自分の家を建てたからです。

自分で家の設計をし、ほとんど自前で工事を区分発注してやってみたところ、意外にできるなと確信できたのも、その後の住宅産業への道を進む決意を助けました。

 

住宅産業起業における必勝策

いよいよ独立にあたって一番大事なのは、信用です。住宅を発注してもらうためには、会社の信用が大事です。お客さんが安心して家の注文をしてくれるようにするためには、信用金庫の信用を背景に事業を興せばその問題が解決できると考えました。そこで、信金開発株式会社という名称にして起業。27歳の時のことです。私が代表取締役となり、大蔵省から小松信金に来ていた方に会長を引き受けていただきました。

 

なぜ、実現できたのか。当時大蔵省が、地域ごとの中小金融機関の統合を考えており、折しも、地元の3信用金庫合併の話が進んでいたのです。合併にあたって最も困難なのは労組の合意を得ることです。

私はこれまで労働組合の書記長として職員の給与水準を地域の最高レベルにまで引き上げてきましたが、これ以上労働条件を良くするには、信用金庫の合併により規模の利益を得る必要があると以前から考えていました。

そこで、合併案を労組として承認して、合併を機に脱サラして起業することにしました。先述の住宅ローンの商品も大蔵省の許可を得て実現できました。もちろん、大蔵省としても今から金融商品として将来性があるし、必要としていたのも事実です。

いよいよ私にとっては、住宅ローン制度をもとにして信用を得る事業の基盤ができたのです。信用金庫は資本金の出資もしてくれることになり、株式の60%を私が出資、残りの40%は信用金庫が名義株として、引き受けてもらいました。これにより私が必要としている信用が確保できた効果は非常に大きく、1期目から黒字化し、税金を払うことができるようになり、2期目からはもう石川県の高額所得番付に載るようになりました。

 

信用を積み上げていく信用累積型経営

私は昔から戦略論に非常に興味をもち、孫子の兵法や、マキャベリ、ランチェスター戦略などをよく研究し、自身の経営論に昇華させています。孫子の兵法に「将兵は必ず勝ちて、而る後に戦を求む」とある。先に勝つ形をつくって臨めば必ず勝つ。

その勝ちパターンを実践するとき、もっとも大事なものは「信用」なのです。その信用は形から入る。

先の信金開発の設立で言えば、人が信用してくれる信用金庫と関係が深く、信用金庫の名前が付いている会社にする。この形の要件を満たしたうえで、一生懸命に事業で儲けて、税金を払うことで信用が高まる。信用が高まると、資金調達力がつく。資金調達ができればさらに事業を拡大することができる。

そうすれば一層金融機関の信用を得て、もっと大きな資金を調達し、もっと多くの土地を買って開発ができる。これを私は「信用累積型経営」と呼んでいます。

 

と言っても、当初はお金がないから、注文住宅から始めることしかできませんでした。お客さんの持っている土地の上に頭金をいただいて着工するというやり方です。

その頃は住宅金融公庫の融資は抽選制度であり、当選したら住宅金融公庫融資の頭金をもらい工事を進め、こちらは手形で業者に工事金を支払うことで、工事を進め、住宅が出来上がって公庫から残りの融資金がおりて入金があると、その手形を決済するという流れでした。

私が20歳の時に家を建てた経験をもとに、お客さんの家に行って、玄関はこちらのほうに、お風呂はこっちのほうにとか、いろいろ考えながら、お客さんの希望を聞いて、目の前でいろんな敷地の形状に合わせて個別に設計していったのです。

 

販売利益を償却赤字と損益通算して事業を拡大

初期のころに活用された、デザイン性の高いパンフレットの数々

だんだんと、資金調達力がついてくると、土地をまとめて買って、建売住宅へと分野を拡大。平面的な木造建築だと土地効率が悪かったので分譲マンションを建てて売ると、利益がもっと出るようになりました。さらに、その利益をどうしたら合法的に節税ができるかを考えるのも経営者の重要な能力です。

 

例えば、賃貸マンションを建てるには結構お金がかかる。そのお金は住宅金融公庫の資金を借りて造って、建売住宅の販売と並行して行う。そうすると賃貸マンションの償却赤字と建売住宅の譲渡益が損益通算ができ、片方の赤字と片方の黒字を合算して、利益を減らすことができる。

建売住宅販売と賃貸のマンションを拡大しながら、次は分譲マンション事業を始めました。この分譲マンションの譲渡益を節税する為に、節税効果の大きいものは何か? ということで自社で所有するホテルを造って経営するのはどうかと考えました

当時、そこに入れるベッドや、冷蔵庫、テレビなど、一品20万円以下のものは初年度一括償却ができた。つまり初年度償却赤字が一番大きいホテル事業こそが節税効果がもっとも高いということに気づいたのです。

 

北陸から東京へ

事業でトップになるには、いつまでも北陸の地にいてはだめです。しかし、いずれ東京へという思いを持ちながらも、実際に東京に出て来ることができたのは1984年のことです。

ランチェスター戦略による西側拠点説に基づき、東京の中心は皇居で、その皇居の西側の新宿に最初の支店を出しました。次に、日本で一番、最先端の金融拠点で外資系金融機関が多いところ、それが当時最新のビルだったアークヒルズで、2つ目の拠点としました。

 

当時はバブル時代で、土地の値段がどんどん上がっていき、一方、東京の投資利回りは低くなっていきました。ところが、地方はまだ高いという状況でした。例えば東京は5%、そのうち4%、3%、2%と投資利回りが下がっていきましたが、地方は10%、8%、6%と、まだ開きがありました。

そこで、私はそれまで造って持っていた賃貸アパート、賃貸マンションを東京、大阪など大都市の地価の上昇で相続税に困った方に金融機関からの借り入れとセットにして、地方の当社のマンションを販売しました。

利回りの高い地方の賃貸マンションに投資をしたら、相続税軽減メリットが享受できるし、金融機関もビジネスになるので、多くの金融機関がお客さんを紹介してくれたのです。大手の都市銀行も、「こういう資産を買いたい人がいるので、いい物件ありませんか?」と次々にやって来ました。

バブル期でもあり、買いたいのであれば、「まず手付金の一部を先に振り込んでください。そうすれば順番にご案内しますから」という具合に、金沢等の北陸物件はかなり売れました。

 

世の中のバブル期を最大のチャンスに変える

ところが、1987年10月ブラックマンデーが起こると株価が大暴落しました。これまで株価と連動して上がり続けた地価が、株価が下がれば下がるのではと、欧米における不動産価格の評価基準である収益還元法で計算してみると、既に実際の価値の4~5倍になっていました。

「これは大変なことになる。今後、土地は一切買うな」と指示を出し、保有不動産の売却をはじめました。88年、89年とまだ結構高く売れました。社員からは、「もっと持っていればもっと上がるのに、何で早く売るのか?」と言われ批判されましたが、私は「そのうち必ず下がる!」と言い続けて、「東京本社も閉鎖し一旦北陸に撤収だ!」と、アーク森ビルで莫大なお金をかけた内装を元に戻し、金沢に撤退。福岡支店、名古屋支店も撤退しました。果たして、その後バブルが崩壊、不動産は大幅に下がりました。

 

一方、こちらは撤退に伴い資産をどんどん売却していたので、利益が出る。利益が出ると税金を払う必要が出てくる。

「さて、この税金をどう節税するか? 先述のように償却赤字と損益通算できる1番償却が多いものは何か?」と考えてみると、それが、航空機でした。

そこで、レバレッジドリースを活用し、ジャンボジェット機、エアバスを買ってリースして、バブル崩壊前に売却した不動産の大きな利益と損益通算しました。レバレッジドリースは初めの6年間は大赤字、その後6年目から特別利益が出てきて、12年目に航空機を売って、ボンと利益がでる。さらに、この資金を、健全償却資産で最も節税効果が高いホテルへの本格進出の原資にしたのです。

 

ファンドバブルの崩壊を機に頂上戦略を発動

2010年4月、アパの頂上戦略を発動しました。東京でトップを取るには、まず東京都心3区でトップを取る必要があると、東京の中心、北は池袋、西は新宿・渋谷、南は品川、そして東は浅草と、皇居を取り巻くこの範囲内で地下鉄駅徒歩3分以内のところに絞り込んで土地を取得し、リーマンショック後の金融機関融資が厳しい中、全て購入時キャッシュで土地を取得したのです。

瞬く間に60件ほどの都心一等地を購入でき、東京でトップのホテルチェーンを造ることができました。

 

 

 

事業活動と言論活動で日本への貢献、二兎追うものは二兎とも得る

縷々、自社の成長の経緯を話してきましたが、単に自社が儲かっていれば良いということではなく、事業を通して、社会貢献をしていくことが最も重要なのです。

需要を創出し、雇用を創出、そして適正利益を上げて納税義務を果たす。この3つのことを同時に行うことが社会貢献度の高い事業といえます。

この国全体が貶められている現状を打ち破り、本当のことを言える国にしたい、誇れる祖国の日本を再興したい、ということで、言論活動にも力を入れています。その受け皿として、公益財団法人アパ日本再興財団は日本を再び興すために「勝兵塾」を主催しています。

さらに財団では懸賞論文制度も実施しています。公益財団法人での言論活動と事業活動を同時に進める、この二兎とも追っていきたいですね。

 

南京大虐殺はなかった!中国人宿泊客失うも業績は過去最高

日本は素晴らしい国なのに、ずっと貶められてきました。無かったことがあったように言われている。南京大虐殺も従軍慰安婦強制連行も然り、全く事実がないのに、謝ってお金を払ってこれで永久に解決したと言って、また言われて蒸し返されて、何度も何度も繰り返している。

南京大虐殺では30万人殺したというが、人口25万人の都市でどうやって30万人を殺すのか?

実は、最近その当時撮影された東宝記録映画が出てきたんですよ。その頃の南京の状況がわかる映画を見れば、いかに日本は信頼されていたかがわかる。

例えば、日本兵の前で中国の子どもが爆竹を鳴らして遊んでいる。それを気にせず、丸腰の日本兵が通り過ぎる。爆竹などそんなものを鳴らしただけで普通は取り押さえられるはず。

映画を見たら、いかに南京虐殺が嘘だったかということがわかる。私はわかっているので、中国が抗議をしてきたところで南京大虐殺は無かったと言う。戦争で占領した後で、無抵抗な人々を殺す必要がありますか?

民間人に紛れ込み奪った服を着て武装しているゲリラを摘発して処分したことはあったかもしれないが、一般の民衆、子供、非戦闘員は1人も殺していない。中国政府から抗議をされ、中国国内からの予約ができないようにされました。中国を出てからは、予約可能で、少しずつ増えてはいるけれども、中国人はまだ少ないです。

しかしその分、台湾人や香港人などのお客さんは増えています。台湾人は中国から来た人と勘違いされたくない、アパのホテルに泊まれば勘違いされないということでたくさん来てくれています。

現状、香港とかシンガポールとか、中華系の人が多い。実は、この騒動の結果、1月の中旬から過去最高の稼働率で過去最高の売上が続いています。おかげで知名度が世界的になり、結果的に非常によかったと思っています。

 

 

 

 

今の学生は、もっと幅広く勉強する必要がありますね。もっと自分の興味を広げて、いろんな能力を身につけないと単に受験に出てくるところだけ丸暗記して、それなりの学校を出て、それで終わりではない。それは自分のためにも国のためにもよくない話。

最近だんだんと本や新聞を読む人もいなくなった。新聞はおかしなことを書いている場合もあるが、それは行間を読めばよいのです。

いろんな人の本を読んで、活字で得た知識を、経験と見聞で検証していき、自分の考えを持つことこそが重要なのです。

自分の考えをもたないと、ただ誰かがこう言った、あの人がこう言ったと流される、いろんな人はいろんなことを言うけれど、自分の価値観をもつべきですね。

自分のものにしないと知識をいくら詰め込んでも、知恵には昇華しないのです。知恵は自分のもの、知識は他人のものを丸暗記したに過ぎない。

だから、読んだことが正しいかどうかを経験と見聞で確かめていく。私は常に常識を磨くために、世界81カ国を回って、多くのその国の要人とディベートしてきました。それ以外にも多分何千人の人に会っている。

外国に行った時の見聞もすべて事業に役立てている。だから、若い人たちにも知識を知恵に昇華できるよう、一瞬一瞬を全力でとらえて、悔いのない人生を送ってもらいたい。あの時こうすれば良かったということがないように、いろんな知識を吸収して知恵を高めていってほしいと思います。

 

 

プロフィール

元谷 外志雄(もとや・としお)氏……アパグループ代表。石川県出身。慶應大学経済学部通信教育部に入学するとともに、小松信用金庫に入社。27歳で独立、アパグループ前身の「信金開発」を設立、国内有数の都市開発企業へ成長させ、ホテル事業は国内最大級の企業規模になった。

事業の傍らで「誇れる国、日本」の再興を目指して言論活動を積極的に展開し、藤誠志のペンネームで月刊誌『Apple Town』(78,000部発行/月)に、社会時評エッセイを執筆。「誇れる祖国、日本」(幻冬舎)、「【増補版】理論近現代史学」(扶桑社)など著書多数。

 

アパグループ

1971年、石川県小松市において住宅産業として創業。1984年にホテル事業を開始以来、430ホテル71,267室(建築・設計中、海外、FC、パートナーホテルを含む)を展開する日本最大のホテルネットワークに成長。現在、首都圏を中心に全国でタワーホテル6棟・6,455室を含む33棟・12,244室を設計・建設中。2015年4月に始動した「第二次頂上戦略」では、国内は東京都心から地方中核都市へと展開を広げ、2020年3月末までに10万室展開を目指す。

〈東京本社〉

〒107-0052 東京都港区赤坂3-2-3 アパ赤坂見附ビル

URL:https://www.apa.co.jp/

年商:1,105億円

従業員数:4,300人