世界平和研究所参与 小島弘氏・特別インタビュー【第4回】『そこにある歴史 新自由クラブ』
世界平和研究所参与 小島弘氏・特別インタビュー【第4回】『そこにある歴史 新自由クラブ』
◆インタビュアー:筒井潔 /文:加藤俊
小島弘氏(世界平和研究所参与)
全学連で副委員長や共闘部長を歴任した小島弘氏は60年後の現在、政策研究提言機関「公益財団法人世界平和研究所 参与」となっている。
学生時代に自民党岸信介政権を退陣に追い詰める運動を主導し、その後「新党ブーム」の先駆けとなった新自由クラブの事務局長を務めた男は、今、世界的視野に立って世界の平和と繁栄のための政策提言を行うシンクタンクに籍を置いているという事実。
そこには日本という国家の懐の深さを感じさせる面白い物語があった。本稿は連載を通して小島氏の激動の人生を辿る。
■入社即「総務課長」
筒井:前回まで60年安保など大学生時代のお話を聞かせていただきました。今日は大学を卒業した後のことをお聞きしたいのですが。
小島:ぼくは逮捕歴がありましたから普通に就職なんかできません。結局、清水幾太郎先生の紹介で、竹内書店という出版社に就職させてもらいました。ここは日本興業銀行の中山素平さんの側近だった竹内博さんが作った会社です。
ただ、ぼくは新卒で入社したのですが、一般社員の仕事はしなかった。役職もいきなり総務課長でした。というのもワケがありました。その頃は全共闘などが賑やかな時代でした。東大や一橋を出た連中が中心となって組合の活動が盛んだったんです。
要するに会社側に立って、組合との団体交渉をまとめることを期待されたんです。
筒井:なるほど。蛇の道は蛇、組合の勝手もわかるだろうと。実際どういった調整をおこなったのですか。
小島:ぼくの交渉の仕方は変わっています。まず、「相手の組合員全員で来い。そのうえで時間はどっちかが倒れるまで無制限でやろう」と。こっちはぼく一人、一方の相手は百人近く。
でもこれが狙いなんです。人間面白いもので百人の集団になると、各人意見は微妙にずれているもので、そこをつきさえすればいい。で、時間が経てば、意見が割れてもめだします。ぼくは一人だから意見が割れようもない。
後はただ向こうの自滅を待つだけ。ぼくはそういったことは得意でした。一人で怖くないのかという点も、警察と仲が良かったから、交渉の日になんかあったら来てくれと、事前に連絡しておくんです。会社の希望通りにまとめていましたよ。
筒井:そこには何年ぐらいおられたのでしょうか。
小島:10年ぐらいかな。組合交渉が終わった後は、普通に営業や企画をやっていました。新設された学校を営業でまわるんです。学校の図書館というのは洋書が何冊・和書が何冊と本の所蔵数に取り決めがありました。だから大量の本が必要になるのです。それをこちらで全部ご用意しましょうと。そうやってセット販売をしていたんです。
竹内書店は主に実用書の類を専門に扱っていました。清水幾太郎先生の『現代の経験』(1963年)、『驚くべき日本―日本経済調査報告 エコノミスト特集』(1963年)といった本などがありました。
■柿澤弘治の秘書に
筒井:そこからどうやって政治の世界に戻るのですか。
小島:森田実(東京大学)の同級生に島田仁さんという通産官僚がいました。島田さんがベルギー大使館にいた頃に、大蔵省から出向中の柿澤弘治(後の外務大臣)と一緒だったんです。
で、あるとき島田さんから「小島君、柿澤君がなんかムズムズしているぞ。手伝ってやろうじゃないか」と誘われまして。要は選挙に出たがっているぞと。それで柿澤さんの選挙を手伝うことになったんです。当時柿澤さんは井出一太郎内閣官房長官の秘書官でした。
それで1977年の第11回参議院議員通常選挙に新自由クラブ公認で東京都選挙区から出馬して56万票で当選したんです。
筒井:選挙活動はどういったことをしたのですか。
小島:ベビーブーム期以降に生まれた世代の家庭を当時『ニューファミリー層』と呼んでいましたが、そこにターゲットを絞りました。例えば柿澤さんのポスターは子供を連れて夫婦で散歩している写真を使いました。後は青年会議所にも協力してもらいました。
筒井:新自由クラブ(※)って新党の先駆けですよね。党としての旗は何だったのですか。
小島:新自由クラブは1976年、「保守政治の刷新」を訴え結党された政党でした。ロッキード事件で田中角栄さんに捜査の手が伸びようとしているところに、「自民党は歴史的役割を終えた」と河野洋平さんや田川誠一さん達が中心になって作ったのです。1983年の中曽根内閣で自民党と連立して1986年に解党しましたから活動期間は10年と短かったのですが。
筒井:当選後柿澤さんの秘書としてはどういったことをしていたのですか。
小島:それがぼくには向かないんですよ(笑い)。狭い事務所でじっとしていることができなくて。陳情なんかもぼくが聞くと全部引き受けちゃう。まぁ上手く機能しなかったから、1年で秘書を辞めようとしたんです。
そうしたら西岡武夫さんやウシオ電機の牛尾治朗さんが、「もう少し広いところで働けばいい」と。それで新自由クラブの事務局に行きました。
筒井:事務局ではどういったことを?
小島:自由に動かせてもらいました。選挙に出る人の発掘なんかをしていましたね。例えば民主党の松原仁君や杉並区長だった山田宏君とかね。
筒井:確か小島さんってご自身も党公認で出馬したことありますよね。
小島:よく知っているね。1980年の第36回衆議院議員総選挙に東京5区から出ました。でもあれは数合わせで出馬しただけです。政党要件を満たせなくて、人数が足りないから仕方なく出るしかなかった。あの時は女房が「そんな約束はない」と怒ってね。子供連れて出てっちゃった(笑い)。
まぁ、すぐに選挙区に子供を連れて戻ってきましたが。
筒井:それは普通の家庭でしたら、いきなり選挙に出るって言ったらそうなりますよね。でも最後は奥さまも理解してくださって?
小島:理解じゃない、諦めだよ。まぁ当選するはずもない泡沫候補でしたから、一時我慢してくれればいいだけだって言い含めました。
筒井:でも最終的に1万9999票も取っていますよ。
小島:カッコ悪いから二度と出たくないな(笑い)。
※新自由クラブ:所属議員は河野洋平、田川誠一、山口敏夫、西岡武夫、中川秀直、鳩山邦夫、甘利明、上田清司、西川太一郎、山田宏、下村博文、松原仁、田中秀征、水野晴郎、宇都宮徳馬、大石武一、円山雅也、野末陳平、海江田万里、川合武、木村守男、石原健太郎らがいた。
■学生運動家政権起用の経緯
筒井:そうやって政治の世界に戻ってきたと。そして1982年に中曽根内閣が発足すると、新自由クラブは自民党と連立政権を組むようになりました。一転して与党側にまわります。ここで小島さんも政権側の人間になるわけですね。
全学連のリーダーの方達って小島さんだけでなく多くの方が学生運動を離れた後に、紆余曲折を経て最終的には政府の要職に起用されていくんですよね。小島さんが全学連副委員長の時、委員長だった香山健一さんや政治学者の佐藤誠三郎さんなど。この流れが興味深いのですが。
小島:ぼく達が政府自民党と関係性を強めたきっかけは、田中内閣の時の橋本登美三郎幹事長の影響が強いんです。橋本さんの同級生に早稲田大学の吉村正さんという教授がいました。
当時は共産党の勢いが伸びていました。それで橋本さんが吉村さんに共産党の勢いを止めるにはどうすればいいかを訊いたそうです。
そうしたら、そんなに難しく考えるなと。「共産党を除名された学生達を利用すればいい。なにせ共産党を内側から知っている連中だからどこが泣き所か、共産党が一番嫌がることを知っているだろう」と答えたそうです。
そうした経緯で全学連関係者が重用されるようになったのです。
筒井:凄いですね。今だったら考えられないことですよね。だって自民党側からすれば、ある意味過去に政権転覆を狙ったテロリストですよね。実際犯罪歴のある若者達を起用するセンスが凄い。そういったことを考えると、ある種昔の方のほうがプログマティストなところがあったのでしょうね。
小島:そうですね。あとは大平正芳さんの影響も大きい。1978年に大平内閣が誕生しました。この時、大平総理は日本の在り方として『田園都市国家構想』というビジョンを掲げました。
これは都市に田園のゆとりを、逆に田園には都市の活力をもたらそうというもので、大都市、地方都市、農山漁村のそれぞれの地域の自主性と個性を活かして、多様性のある社会を目指そうという考えなんです。
実際に大平さんの娘婿森田一さんや大蔵官僚で首相首席補佐官の長富祐一郎さん、日本経済新聞社出身の田中六助官房長官などが中心となって、学者の梅棹忠夫さんや劇団四季の浅利慶太さんなど総勢200人を超す大平研究会ができるんです。
大平ブレーンと呼ばれるこの田園都市構想研究グループに香山健一君はじめ、ぼくらの仲間の多くが参加したんです。そして大平さんの急死後、中曽根康弘内閣になって遺志が継がれていったのです。
中曽根総理は田園都市構想研究グループのメンバーを丸抱えしました。この時の話として森田さんが言うには、ある時中曽根さんに呼ばれて、「俺はあの田園都市国家構想を全部読んだ。素晴らしい構想だ。あれを実行するために大平ブレーンは全員面倒をみる」と言われたんだそうです。
■NTTの民営化
筒井:小島さんもそこに参加されているのですか。
小島:いえ、ぼくは直接の関係はありません。ただ、中曽根内閣になってからは、一応連立を組んでいる新自由クラブの事務局として動くようにはなりました。
筒井:中曽根内閣というと、3公社民営化のイメージが強いですけど。
小島:ええ。1985年に日本電電公社がNTTになる時にはこんなことがありました。その前年民営化法案が話題になってきた時のことです。
ぼくは昔から労働組合と仲が良く、あれは日本労働組合総連合会初代会長だった山岸章さんが当時全国電気通信労働組合(全電通・現NTT労働組合)の委員長だった時のことです。
山岸さんのところになんとはなしに行って、民営化法案どうしますかと聞いたんです。そうしたら山岸さんが「小島君、俺は個人的には民営化賛成だ。だけれども8月に全電通の大会があるからそれ以前に国会で議論されると、組合としては反対にならざるを得ない。できたら、それ以降に取り上げて欲しい」と言うんです。
それで「この点をお願いしたいから幹事長の田中六助さんに会えないか」と言われてね。
田中さんに聞いたら「会う」と。それでホテルオークラで会ってもらいました。山岸さんが組合としての希望を述べている間、田中さんはずっと黙って聞いていました。最後に一言、「わかりました」と答えただけ。その後幹事長としてどう動いたのかはわかりません。ただ、法案は山岸さんの希望通り9月以降に上程されました。
筒井:まさに政治家ですね。今はそういった動き方ができる方は殆どいないでしょう。それにしても今の話だと、小島さんが動かないで国会審議に入っていたら、まとまることはなかった可能性が高いのですね。まとまったにしても物凄いしこりを生んでいたでしょうね。
小島:それはわかりません。ただそこで終わりではなくて法案が通ってからも、今度は財界におけるまとめ役として当時「財界官房長官」「財界幹事長」の異名を取った日本精工の今里広記さんがNTT設立委員会の委員長をしていましたので、彼と山岸さんを会わせました。
今でも憶えているんですが、今里さんに組合側が会いたがっている旨を連絡したら「小島君すぐ来い」と呼ばれまして、それで渋谷のご自宅に伺ったんです。
会ったら開口一番「小島君、組合に失礼なことはしていないだろうな」と。でもぼくの出自に思い至ったらしく「君はもともと本籍が向こう(組合側)だから連中とは気心が知れているから大丈夫か」って。面白い人でした。
面白いといえば、その後民営化されて最初の春闘の時に、山岸さんから当時副総理だった金丸信さんに会いたいと言われたんです。で、これも会ってもらったんですが。
筒井:どうやって取り次いだのですか?
小島:ぼくは秘書と仲が良かったんです。秘書っていうのはみんな繋がっていますからね。金丸さんに会ってもらった時は、組合の執行員が大勢いてね。
彼らの話を金丸さんもまた黙って聞くんです。凄さを感じたのは、それで話が一段落したら、組合員がいる前でNTTの真藤恒社長に電話をしたことです。
「真藤さん、民営化した最初の春闘です。ここはひとつ組合とよく話し合って決めて下さい。内閣は副総理の金丸信が責任を持ちます。党の方は竹下君(竹下登)にやってもらうから安心して下さい」って。結局、この電話で団体交渉がまとまってしまったんです。
筒井:最初の春闘は肝心ですからね。そこで組合側がごねていたら、今頃どうなっていたかわかりませんものね。それにしても凄い場面ですね。NTT民営化の裏でそんなことがあったとは。
ひとつお聞きしたいのですが、小島さんはそういったことを誰に頼まれて画策したのでしょうか。
小島:誰にも頼まれていませんよ。お金だってもらっていない。ぼくは山岸さんと仲が良かったから。
筒井:そうなんですか。連合政権の事務局ですから、全く関係がないというわけではないにしても、ある意味大きなお世話で動いたということなんですか。こう言ってはなんですけど、新自由クラブというそんなに大きくない政党の事務局員として動ける話ではないですよね。
小島:ぼくは砂川闘争の時から組合と付き合っていましたからね。
筒井:小島さんの人付き合いを見ていると、本当に幅広い方達とお付き合いをされていますね。その人脈の広さが、期せずして中曽根内閣の大民営化法案成就の影の立役者として、舞台回し役を担わせたということなんでしょうね。 (次号に続く)
◉プロフィール/小島弘(こじま・ひろし)氏…1932年生。明治大学卒。57年全学連第10回大会より全学連副委員長。60年安保闘争当時は、全学連中央執行委員及び書記局共闘部長。その後、新自由クラブ事務局長を経て、現在は世界平和研究所参与。
◉インタビュアー/筒井潔(つつい・きよし)…慶應義塾大学理工学部電気工学科博士課程修了。合同会社創光技術事務所所長。株式会社海野世界戦略研究所代表取締役会長。株式会社ダイテック取締役副社長。
◆2015年10月号の記事より◆
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