世界平和研究所参与 小島弘氏・特別インタビュー【第2回】『そこにある歴史 砂川闘争』
世界平和研究所参与 小島弘氏・特別インタビュー【第2回】『そこにある歴史 砂川闘争』
◆インタビュアー:筒井潔 /文:加藤俊
砂川闘争
1956年10月12日から13日にかけて、東京都立川市砂川町で、地元農民と武装警官隊が衝突。1195人が負傷、13人が検挙されるという大事件が起きた。後に「流血の砂川」と呼ばれる、「戦後学生運動の輝かしい成功」とも称される砂川闘争(砂川基地拡張反対闘争)の一幕である。
この渦中に身を投じていた一人の男がいる。全学連で副委員長や共闘部長を歴任した、小島弘氏である。60年後の現在、小島氏の肩書は「公益財団法人世界平和研究所 参与」。この世界平和研究所とは、中曽根康弘元首相が会長を務める政策研究提言機関である。
かつて政府と戦った男が、現在では元首相の懐刀になっているという事実。そこには日本という国家の懐の深さを感じさせる面白い物語がある。本稿は連載を通して小島氏の激動の人生を辿る。
砂川闘争(砂川基地拡張反対闘争)とは、米軍が基地を拡張するために、在日米軍立川飛行場に隣接する砂川町の約5万2000坪を接収しようとしたことに、学生や町が反対闘争を行った住民運動である。第1次砂川闘争は1955年でそれほど注目されなかったが、1956年10月の「第2次砂川闘争」では当時東京大学の学生だった森田実(政治評論家)等の指導する学生運動によって測量が中止となった。そのため、地元で「勝った、勝った」と大騒ぎになり、学生運動が盛り上がるきっかけとなった。最終的に米軍は1968年12月に滑走路延長を取りやめ、翌1969年10月には横田飛行場(横田基地、東京都福生市)への移転を発表している。
(前号の続き)少年時代に敗戦を迎え、大人たちへの反発を覚えた小島氏は、明治大学に進学すると、学生運動にのめり込むようになった……。
■最高の悪役だった岸信介首相
筒井:小島さんは学生運動をやる上で一番良い時期を経験できたと言いますが、それはどういうことなのでしょうか。
小島:それは、世論に応援されている意識を持てたからというのが、大きかったと思うんです。砂川闘争にしても、住民の方に随分味方してもらいましたから。学生さん頑張れ!って。
筒井:当時集まった学生の気持ちとしては、アメリカが嫌だからっていうところが、最大の動員のエネルギーなのでしょうか。
小島:反米というよりは日本は占領されて独立したんだから、わざわざアメリカの基地を伸ばさなくてもいいじゃないかという思いが根底にありました。ぼくら自身は反米じゃなかった。もちろんアメリカと協力しようなんて言ったことないけど、ただ砂川に反対だっていって。もちろん安保条約だって日本の地位が高くなるんだから、考えてみればそんなに悪くはないことです。
だけどやっぱりあの当時の雰囲気が作られたのは、60年安保はね、岸信介首相がやったからですよ。あの人はA級戦犯の被疑者で東条内閣の閣僚だった人ですから。
筒井:本当に悪い人物ってイメージがあったみたいでうね。戦前、東条内閣で大臣やっていて、アメリカのエージェントとも噂されていますし。事実、アメリカは使えると思って動かしたところはあるのかもしれませんね。
小島:そう。東条内閣の閣僚でそれからA級戦犯になっていた人だから、岸さん本人はそこまで悪い人でなくても、イメージは最悪だった。というか、これ以上ない悪の親玉に見えました。東條英機の所為で日本がめちゃくちゃにされて。その手下だった奴がアメリカと裏取引をしてA級戦犯の訴追を免れて、今度はアメリカの手下になって、日本を再び戦争のできる国にしようとしている。これは阻止しなければという思いがあったんです。
筒井:その裏には、もう戦争は懲り懲りだというのが広い国民の意識にあったのでしょうか?
小島:ええ。労働組合の人達は兵隊にも随分いっていましたから。我々は兵隊行く歳じゃないけど、もう二度とああいうことはやりたくないって。
筒井:懲り懲りだと。だからその米軍基地があったら、再び戦争に巻き込まれるから出ていけとなるのですね。そして、一番の先頭に立った学生が広く社会から支持されていたということなんでしょうか。共産党はどうだったのでしょうか。
小島:共産党も敗戦の反動もあって、非常に勢いがありましたよ。多くの人が共感していた。ぼくも、そうだったし。
■森田実氏との出会い
筒井:整理しながらお聞きしたいのですが、大学に入学されてからまずは共産党員になるんですよね?小島さんが共産党員になったのは、いつですか?
小島:55年くらいじゃないかな。ちょうど六全協の前あたりで党員になりました。そのときは正義感に燃えていましたから。マルクスの共産党宣言に共感して、共産党こそ理想の社会を築く党だと。そうしたら六全協になって、今までの共産党の軍事路線は間違っていたということになった。で、党中央から追われていた宮本顕治らの国際派が戻ってくるんです。そこまでは、共産党は武力で日本に革命を起こそうとしていましたから。山村工作隊や中核自衛隊などね。
僕はそんなこと知らないで共産党に入りました。それで、六全協でみんなが反省するんです。今までのやり方は間違っていたって。森田とか島成郎達東大の学生は「幹部はみんな反省しろ」とか言って。
※日本共産党 第6回全国協議会とは、1955年7月27~29日に行われた、日本共産党がそれまでの中国革命に影響を受けた「農村から都市を包囲する」式の武装闘争方針の放棄を決議した会議である。
筒井:森田さんとかと一緒に行動し始めたのは?
小島:56年の9月第8回全学連中央委員会の時です。その時に中央執行委員の欠員ができたんです。僕の前任者に明大文学部の加藤君という人がいて、彼の後任として同じ文学部でぼくということになったんです。
ぼくは9月に全学連の中央執行委員に選ばれて、すぐに砂川の現地入りでした。
■砂川闘争に至る経緯
筒井:全学連が第二次砂川闘争に参加する経緯を教えてください。
小島:ええ。そもそも55年の第一次砂川闘争にはぼくらは参加していません。このときは共産党は動員を呼びかけていました。ところが、途中で六全協があって、第2次砂川闘争には共産党の連中は入り込めなかったんです。
共産党のスタンスは地主反対です。51年の五全協のときに明確に打ち出した。ところが砂川闘争の住民運動というのは、砂川町に土地を持っている地主の方々が中心になった運動です。要は、米軍に土地を獲られてたまるものか、自分の土地を死守するぞとね。そんなもんだから当然地主の方達は、共産党をよく思っていなかった。連中に、昨日まで地主反対!とさんざん、虐められていたワケですから。
筒井:学生側では、そういった地主の方達と戦略的に提携しようという発想はあったんですか。
小島:ぼくら? なかったな。アプローチも向こうからなんです。清水幾太郎先生たちが社会党や総評はあてにならないということで、森田を四ッ谷のうなぎ屋さんに呼び出したんです。そうしたら、清水先生の他高野実前総評事務局長、青木市五郎砂川基地反対運動行動隊長の3人がいて、砂川米軍基地拡張反対運動に全学連としての参加を正式に求められたんです。
それで傑作なのが、森田がすっかりやる気になって、全学連書記局に戻り記者会見するんです。「砂川米軍基地拡張を阻止するため、学生を3000人動員するぞ!」って。そこでばーっと吹いちゃった。3000人なんて集められる根拠は全くなかったのに。
それが各紙で報道されました。そうすると、今度は総評が騒がしくなった。だって、学生に3000人動員されて、労働組合がそれ以下だったらメンツが立ちませんよね。それで労働組合も夢中になって始めたんです。
筒井:3000人動員すると、森田さんが宣言したときの学生の反応はどうだったのでしょうか?
小島:森田はそういうことが上手だったから、「よし、いっちょやってやるか」という空気になったんです。
筒井:それからもう1人100人動員みたいな感じですか。
小島:そうそう、各自治会に行って。
筒井:そのときはどういう演説をしたんですか?
小島:丁度ね、占領されていますからね。米軍の基地拡張反対、と。戦争が終わってからまだ10年しか経っていない。当時はアメリカ反対って言ったら、受けるんですよ。
筒井:結果的に3000人も集まったんですか、学生は。
小島:これが集まったんですよ(笑い)。
筒井:労働組合はどれくらい集まったんですか。
小島:労働組合もものすごく集まった。学生が中心だから。労働組合は、「業務命令だ!行け!」みたいな、そういうことできますからね。でも日当出さなきゃいけないから、大変ですよ。
筒井:学生は本当に一本釣りですよね。一人一人来てね、来てねって。交通費は誰か支給したんですか。みんな手弁当できたんですか。
小島:手弁当で行ったやつもいるかもしれないけど、バスを貸し切ってね、バスで砂川町に行った。僕らの経験だと、東京から東京女子大の前を通過して小金井街道を通って砂川に行きました。
■労組との関係
筒井:すごい。今じゃ考えられない。砂川で活動を教えて下さい。
小島:砂川では地主の宮崎さんという方のお宅に泊まっていました。学生が集まるようになると、砂川中学の体育館や講堂でごろ寝になりましたね。このとき、周りの労働組合の連中は完全に主導権は学生に取られちゃうと思うわけよ。こっちは24時間砂川にいるんだから。
筒井:学生だから働かなくていいですもんね。
小島:だからあれは危機感あったろうね。国労とかね。
筒井:その頃の国労って、ものすごく戦闘的な集団でしたからね。国鉄労働は本当に強かったんですよね。
小島:ぼくは仲が良かったから、新宿から手配してあるからって当時は二等車でね。今でいうグリーン車に乗せてもらって立川に行っていました。なにせ、同じ釜の飯も食っていたし。ご飯は、大抵の場合質素でおにぎり2個とお新香とかでしたけど。
筒井:測量しに来ないときの活動はどうしていたのですか?
小島:カンパを集めましたよ。ラーメンが30円の時代に100円札を入れていく人が結構いました。それを現地の闘争資金にしたり、活動資金にしたりしました。世論が味方についていること実感できましたね。学生さん頑張って!って。大学の教授だって、大勢応援に来ていましたし。それから、学生の中には、地元の人に家庭教師をする人もいたし、農作業を手伝ったりもした。
筒井:それで測量に来るときはどうやって阻止しようとしたんですか。
小島:機動隊が来るタイミングは、新聞記者が教えてくれることが多かったですね。最初の衝突10月12日も事前に分かっていました。
■流血の砂川
筒井:では、後に「流血の砂川」と呼ばれる1956年10月13日についてお伺いしたいんですが、この日、1195人が負傷し13人が検挙されています。当時の写真を見ると、皆さんすごい格好をしていますよね。
小島:警察もメディアがいるから、学生に暴力をふるっている写真を表立って撮られるのが嫌で、上からは殴らないんです。下から突き上げてくるんです。だから制服の下に桟俵を入れていました。それに多くの人間が鉢巻きを巻いていたけど、これも景気付けじゃないんですよ。警察が被っている鉄兜が当たると痛かったから、それを防ぐためなんです。ヘルメットは旧陸軍のものだったから。
筒井:測量をさせないために、実際にどういったことをしていたのですか?
小島:砂川の辺りは、道路は五日市街道の1本しかない。要は測量に来るのを阻止することが目的ですから、通さなければいいんだと。警察は2,000人ぐらいでした。
筒井:座り込みをしたのですか?
小島:座り込みなんかしません。スクラムを組むんです。本格的に機動隊にぶつかっていくと、向こうは向こうで人垣のトンネルを作っていて、そこに引っ張られていって、その中を潜らされてボコボコと殴られたり蹴られたりするんです。あまりに痛いもんだから、かえって座り込んで殺すなら殺してみろと啖呵を切ったりしました。向こうも困っていたな(笑い)。で、トンネルを抜けたら、また学生の側にまわってもう一度突っ込んでいく。それを延々と繰り返しました。体力の続く限り、何度もね。
筒井:最終的に負傷者が1000人ぐらい出たんですよね。
小島:ええ。13日の夕方になって日が沈む頃には、膠着状態になっていました。もうみんな疲れきって。ボロボロでした。服はスタボロ、全身泥だらけで。なんとはなしに、停戦状態になって。そのとき夕焼けが見えて、誰からともなく、赤とんぼの歌が夕焼け小焼け~のと歌われ始めたんです。そこから合唱になって。機動隊の警察官だって、農家の次男坊三男坊が大勢いたんですよ。自分たちの土地を追われることがどれだけ辛いか心情的にわからないことはない。歌はじ~んときたでしょうね。あの光景は忘れられないよ。
で、翌日の14日は警官隊は来なくて、15日に中止の発表がありました。測量中止が発表されるや、町中が大騒ぎになりました。それはもう飲みましたよ。森田なんか普段酒を飲まないのが飲み過ぎて、翌日の京都の方に報告会に行くはずだったのが、行けないぐらいでした。
■砂川闘争の勝因
筒井:小島さんは、砂川闘争の勝因と意義についてどうお考えになっているのでしょうか。当時の全学連は大衆運動が広く受け入れられたと、喜んでいたと思うのですが。
小島:勝因は世論を味方に付けたことでしょうね。マスコミをうまく味方につけて世論を喚起できたことが大きいと思います。当時の新聞は「警官の暴行!」と書いていますし。
確かに、マスコミ受けするようなネタでしたよ。20歳前後の学生が中学校の体育館に泊まって、機動隊とぶつかるなんてのは。(次号に続く)
筒井:小島さんは全学連で共闘部長や副委員長という役職を経験されています。こういった役職の仕事や田中清玄との出会いなどを教えて下さい。
◉プロフィール/小島弘(こじま・ひろし)氏…1932年生。明治大学卒。57年全学連第10回大会より全学連副委員長。60年安保闘争当時は、全学連中央執行委員及び書記局共闘部長。その後、新自由クラブ事務局長を経て、現在は世界平和研究所参与。
◉インタビュアー/筒井潔(つつい・きよし)…慶應義塾大学理工学部電気工学科博士課程修了。合同会社創光技術事務所所長。株式会社海野世界戦略研究所代表取締役会長。株式会社ダイテック取締役副社長。