人間のやることだから、真面目にやっていてもどこかで間違いは起きる。その場合、法的にはともかく、心情的には誰しも恨む気持ちにはなれないだろう。

一方、人間だからエゴはある。エゴとエゴのぶつかり合いが人の世の仕組みと言えばそれまでだが、そのぶつかり合いによって、取り返しのつかない間違いを起こされては話は別だ。

 

福島原発事故を巡る関係当局及び運営側と、原発反対派の論議である。事故からすでに7年。国民もぼちぼち冷静になって、この問題と根本から向き合ってみる必要がありそうだ。

 

官民一体プラス大マスコミ

かつて〝良い子、悪い子、普通の子〟という、それぞれにキャラクターを付して笑いを取るテレビ番組があったが、原発を真ん中において、この国のすべての人たちを同じように属分けするとなれば、〝狡い連中、嫌な奴ら、可哀相な子たち〟といったところか。

 

〝狡い連中〟は言うまでもない。自分に都合の悪いことは全部隠して、「安全だ、安心だ」と言っては目眩ましの数値や方策らしきものを示し、その矛盾を指摘されると臆面もなく開き直るか論点をすり替えてきた、東電をはじめとする原発関係者と当局のお歴々、更にはその御先棒を担いできた御用学者たちだ。

〝嫌な奴ら〟は、このときとばかりに善良な国民を煽動し、世論を〝反戦、平和、人権〟という過ぎ去りし時代の不毛なイデオロギー論争に引き摺り込もうとする旧左翼的勢力であり、〝可哀相な子〟は、福島地方とその周辺の人たちはもとより、ただただ一生懸命に働き、愚直に生きてきただけの罪もない1億国民である。

 

狡い連中のどこがどう狡いのか。嫌な奴らのどこがどう嫌味なのか。そのことを検証するまえに、まずはそもそも原発とは何か、何故この国の至るところにあって、今これだけの物議を醸しているのかを、改めて見てみよう。

 

日本の原子力利用の扉を開いた大本の人物は、大勲位、中曽根康弘氏(元総理大臣)である。

氏がいわゆる青年将校と呼ばれた改進党時代(1954年)に、故・稲葉修元法相や斎藤憲三元衆議院議員(TDK創業者)らと語らい、それまで推進しようと運動しながら軍事転用を恐れて二の足を踏んでいた学者らを尻目に、原子力研究開発予算案を国会に敢然と提出したことに始まる。

アイゼンハワー大統領(米国・当時)の「Atoms for Peace=原子力の平和利用宣言」を受けた、科学技術立国ニッポンをアピールするための〝決起〟だったようだが、役者が役者だけに、「そもそもからしてキナ臭い=物騒だ」という声が未だにあるのも、そのためだという指摘がある。

余談ながら、このことについてご本人の話を聴くべく当編集部は、中曽根事務所に取材を申し入れたが、「今は(世論が感情的に過ぎて)そのときではない」ことと、高齢(93歳)を理由に、丁重に断られたことを付け加えておこう。

 

とまれ爾来、国は、原発を〝国策〟として官民一体でグイグイと推進。あの大正力(松太郎氏)を初代原子力委員長に招いて(ということは大マスコミも巻き込んで)、一気に実用化、産業化への道を切り拓く。

茨城県東海村につくられた「東海発電所」を皮切りに、高度経済成長に連れて続々と建設、気が付けばアメリカ、フランスに継ぐ世界第3位の原発大国(55基)として今日に至っている、というわけだ。

 

問題は山積

現在いわれている原発のさまざまな問題の一端は、まずはその建設の道程にある。

 

原発建設は常にこの国の過疎化の問題と密接にリンクしており、そこに巨大なマネーが介在してきたという事実だ。

ご案内の通り、土地さえあればどこでもOKというわけにはいかない。さまざまな規制、安全基準をクリアするとともに、当該地はもちろん、その周辺の住民や自治体の同意を必要とする。そこで建設を企図する側は、過疎化が極端に進み、財政に苦しんでいる地方の町や村に目を付ける。これを〝渡りに船〟とばかりに歓迎する自治体もないではないが、いずれにしても弱みに付け込んできた、という感は拭えまい。

これが地方の景気浮揚や雇用促進、財政の助けになってきたのも確かだが、一方で、骨肉を相食むかのような地域住民の争いを巻き起こしてきているのも事実だ。

閉鎖的とはいえ、善良なる地域社会の因襲と地元建設業者の利権が複雑に絡み合い、誹謗中傷で終わればまだしも、強請(ゆすり)や恐喝、傷害からときには殺人事件にまで発展している。これが冒頭に書いた、〝エゴ〟の始まりである。

 

しかしそれよりもっと大きな、そして決定的な問題点は、言うまでもないがその並はずれた危険性である。

一旦、重大事故が発生すると、可能性としては周辺環境はおろか日本全国、更には地球規模にまで影響を及ぼす恐れがある。そこで、これまでに国内で露見した原発の事故や不祥事を、簡単におさらいしてみよう。

 

まずは1995年、実験用原子炉「もんじゅ」(福井県敦賀市・高速増殖炉)で冷却用のナトリウムが漏れ出し、火災を引き起している。幸い重大な事故にはならなかったが、対応の遅れと、動燃(動力炉・核燃料開発事業団=当時)によるビデオ隠しや、ウソを強要されたと疑われる担当者の自殺などが問題となり、大きな騒ぎを呼んでいる。

その2年後には東海村の再処理アスファルト固化処理施設で火災・爆発事故が起きており、まだ記憶に新しいが、更にその2年後には同じ東海村のプルトニウム加工施設で臨界事故が起き、作業員3人が死亡している。

 

以降、しばらくの間は事故こそなかったものの、02年、07年と全国の原発で立て続けに100件前後のトラブル隠しが発覚、全停止・総点検を余儀なくされているのだ。そんな中で起こったのが、新潟県中越地震による柏崎刈羽原発の火災事故と、昨年の3・11、東日本大震災による福島原発事故というわけである。両度の事故の原因や推移、現状などについては、ここでくどくど述べる必要はあるまい。

 

大規模かつ安定した電力供給への期待

ではそんなに怖いリスクを負ってまで何故、原発を必要としているのか。もちろん、それだけのメリットがあるからである。

そして今1つは、そんなに怖いとはいっても、その怖さのほとんどは、前述したような〝人為的なミスや放漫〟からきている怖さであって、適正に建設し適正に運営すれば原発そのものの危険性はきわめて小さい、というのが大方の専門家の見方なのだ。

 

とまれメリットは、ざっくりいって次の5点だとされる。

 

まずは大規模、かつ安定的に発電できるという強みだ。

中東の産油国と違い、ウラン供給国はほとんどが政情の安定した国であり、流通経路や価格もほぼ確立していることから、ガスや石油に比べて、相対的に安定した電力供給が期待できるという。

この国の産業の将来を考えると、このことは掛け替えのないメリットと言っていいだろう。

 

次は直接的には環境を汚すことがないという点だ。

発電過程において、地球温暖化の原因とされる二酸化炭素はもちろん、酸性雨や光化学スモッグを起こすとされる窒素酸化物や硫黄酸化物も排出しない。

 

3番目は、発電コストに占める燃料費の割合が、他の発電方法に比べてはるかに低く抑えられるという点である。

資源エネルギー庁の試算によると、各エネルギーにおける1kWh当たりの発電コストは、太陽光が49円、風力が10〜14円、水力が8〜13円、火力が7〜8円、地熱が8〜22円で、原子力は5〜6円としている。

もっともこれには地元対策費や原子炉の廃炉費、事故の際の賠償金など、バックエンドコストが含まれていないことから、異論を唱える専門家も少なくはない。

 

4番目は、前述したように科学技術立国として世界に強くアピールできるという点だ。

もちろん海外への売り込みも可能で、莫大な利益を生む〝商材〟になりうる。

 

そして最後が、前述の地域の問題と二律背反といえなくもないが、電源立地地域対策交付金などの、いわゆる電源三法交付金や固定資産税、法人税などの税収が自治体として期待できるという点である。

 

いずれにしてももし今後も推進するのなら、これまで言ってきた二重、三重ではなく、五重、六重のセーフティネットをかける必要があることは、言うまでもあるまい。

 

核兵器保有の足掛かり!?

それにしても余りに酷い。東電や関係当局と一般国民との認識、というか感覚のズレである。当時の野田佳彦元首相の記者会見を見て、ぶったまげた読者は少なくあるまい。

現在の状況を見て、頭がどういう構造になっていると「福島の原発事故そのものは収束した」などと宣言できるのだろう。

〝冷温停止状態〟に至ったというのがその根拠だそうだが、冷温停止状態というのは、原子炉の安定的な冷却と放射性物質の放出抑制という2つの条件を満たすこと、とこれまでに言ってきたのは当局自身である。

 

ところが大マスコミは余り大きく報じていないが、宣言の僅か12日前、12月4日には、処理済み汚染水の濃縮装置から実に260億ベクレルの放射性ストロンチウムを含む水が、海に漏出していたという事実が判明しているのだ。ここまですっ惚けられては、狡いというより悪質というほかない。

案の定、南相馬市(福島県)の桜井勝延市長は、「放射能漏れがコントロールできていない今の状況では、とても完全収束とは言えない」と直ちに不快感を露わにし、ニューヨークタイムズに至っては、「世論を鎮めるためのプロパガンダ」と酷評する始末なのだ。

菅、野田と連続して、この国はこの最悪の事態に、よくぞまあ立派なリーダーを戴いたものである。

 

 

もう沢山だ!  はた迷惑なエゴとエゴの不毛の論議

最後に原発反対派の話にも少し触れておこう。

去る2011年11月25日、東京麹町で行われた大間原発計画に関する記者会見での、ジャーナリスト鎌田慧(さとし)氏の発言だ。氏は筋金入りの反原発運動家であるとともに、新田次郎文学賞や毎日出版文化賞を受賞している多くのファンを持つノンフィクション作家でもある。

その氏が、記者の「このままでは2012年5月にはすべての原発が止まります。それによって多くの製造業、とくに中小零細企業は操業がかなり制限されると予測されます。このことについてはどう思われますか」という質問に対する答えである。

 

「そういう方面から見る問題ではありません。人間は誰でも、本人が理想とする幸せを追求する権利があるんですよ。その立場から考える問題ですから」

言わんとするところは憲法第13条、国民の権利である。さらに一拍置いて、

「今、世論調査をすると、8〜9割は反対ですよ。それでも止めないのは、いずれ核兵器を持ちたい。その足掛かりを手放したくないんですよ、政府は」

 

嫌な奴なんていうと怒られるかも知れないが、論点のすり替えの上手さは当局に優るとも劣るまい。要するにエゴとエゴのぶつかり合い、不毛の論議である。

 

ちなみにこの日の会見の主役は、大間原発建設予定地に10数坪の地所を持ち、今なお買収に応じることなく1人頑張っている熊谷あさ子さんだ。その熊谷さんが印象に残る言葉を残してくれた。本稿の括りに紹介しておこう。

「海はワタシらの職場ですから。その海を守りたいだけですよ。電気はもうだいぶ前から引いていません。今は太陽光パネルで過ごしています」

 

さて、読者諸氏はこれらのことから、何をどう思われるでしょうか。

 

※本記事は2012年3月号掲載記事をもとに構成しています。