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アサヒビール株式会社 中條高德名誉顧問(英霊にこたえる会会長)「挫折は神佛が与えてくれた恩寵的試練ですよ」

中條さん アサヒビール

アサヒスーパードライを世に送り出したアサヒビール復活の立役者 中條高德氏(なかじょう・たかのり)…1927年(昭和2年)長野県生まれ。陸軍士官学校から(終戦後は)旧制松本高校、更に学制改革で学習院大学に進み、1952年、卒業と同時に朝日麦酒(現アサヒビール)に入社する。東京支店長、取締役大阪支店長、常務取締役営業本部長、代表取締役副社長、アサヒ飲料代表取締役会長などを経て、現在はアサヒビール名誉顧問を務める。英霊にこたえる会会長、国際青年文化協会会長、日本会議代表委員。「立志の経営」(致知出版社)、「小が大に勝つ兵法の実践」(WAC)ほか著書多数。

 

経営立て直しの鍵は立志と気付き

韓信の股くぐり──、という成句がある。

後に漢の天下統一に功績をあげた名将、韓信が町のゴロツキに絡まれたときに、相手の言うままその股をくぐったという故事からきている。天下統一の大志を抱いて国の経営にあたる腹づもりなら、目先の損得や些細な面子に囚われることはないという意味だ。

これは企業経営も同じで、足腰の強い、社会的にも誇れる会社にしたいと思うなら、まずはしっかりと志を立てろということである。とはいえしかし、どう志を立てればいいか。

 

ここに一つのヒントがある。あまりの低迷に一時は〝夕日ビール〟とまで揶揄されたアサヒビールを、〝立志〟と〝気付き〟を以て見事に立て直した名将、中條高德氏(86歳)の伝説的人間ドラマだ。

 

名門のナショナルカンパニーが〝累卵の危うき〟に

アサヒビール

創業百周年(1989年)の記念すべき日までに、特約店をはじめ、ひたむきに応援してきてくださったお得意先の方々に、アサヒと縁を結んでいて良かった、アサヒを応援してきて良かったと、本当に思っていただける会社に生まれ変わろう─。

入社(1952年)以来ずっと、営業の最前線で辛酸を舐め尽くしてきた中條氏が、心ある仲間たちとそう固く誓い合い、会社を立て直そうと志を立てたのは、1980年の春である。今のアサヒビールからは想像もつくまいが、氏の言葉を借りると、当時は、「累卵の危うきに瀕していた」ようだ。一見、整然と並んで立ってはいるが、一朝ことが起きると、重ねた卵がガラガラと崩れて潰れるにも似た、極めて脆弱で心許ない経営状況だったというのだ。

 

「仮に潰れても、我々は自業自得ということで諦めもつきますが、遣る瀬ないのは、それによって窮地に追い込まれたり、廃業を余儀なくされる特約店やお得意先の方々を思ったときですよ。とてもじゃないけど、それだけは耐えられない。したがって何としても立て直さなければいけない。今思えば、まさにその一心でしたね」

 

長く〝名門〟の名を欲しいままにしてきたナショナルカンパニー、アサヒビールの看板を背負った企業戦士たちの、それが使命であり、誇りであるという、高邁にして強烈な意思表示と言っていい。ちなみに当時のアサヒがどれだけ危うい状況だったかを知るのに、格好の資料が筆者の手許にある。占領軍総司令部が打ち出した「経済力過度集中排除法」によって、それまでの「大日本麦酒」から「朝日麦酒」に生まれ変わった(分割された)1949年から、1980年までのビール市場におけるシェアの推移である。

 

ざっと並べるとこうだ。

分割時に36.1%あったものが1955年には31.8%に、それが1960年には28.2%になり、1965年には24.2%、1975年にはなんと13.5%にまで落ち込み、その5年後には、ついに10%を割リ込む事態にまで急落しているのだ。分割時の片割れであるサッポロビールの落ち込みも酷く、相対的にシェアを伸ばしたのがキリンビールで、1980年頃には63%を超える寡占状態を築いている。

分割前(大日本麦酒75%対麒麟麦酒25%)とまったく逆になっただけでなく、後発のサントリービールにも肉薄される始末で、挙げ句は京都のとある医療法人に株を買い占められ、あわや乗っ取られる寸前にまでいっているのだ。氏が累卵の危うきと言った意味も、これでよく分かるだろう。

 

 

涙の特命拝受

しかし志は立てても、それを実現するにはいくつもの課題を乗り越えなければならない。まずは商品力である。更にはその商品力を世の中の人たちに認知され、受け容れてもらえるだけのPR力だ。とりわけ喫緊の課題は商品力だろう。今どきのゲーム業界やケータイ・スマホ業界ならいざ知らず、ビールという限られたカテゴリーの中では、どうあがいても差別化のしようがないのである。

 

なんたってどの会社も同じような原料を使い、同じような技法でつくっていたから、目隠しして銘柄を当てろと言っても、誰もできないのが当時の実情だ。そこで氏は、かつて自らが企画し、一世を風靡した、とあるヒット商品を下地に、それまでの業界の常識では考えられない大胆なコンセプトを打ち出す。つくり手側の論理(プロダクトアウト)を一切排したうえに、徹底して消費者側の論理(マーケティングイン)に沿った商品をつくり出し、そのことに特化して商戦を展開するという、文字通り〝商いの王道〟である。

 

「今の若い人たちには知らない人も多いかと思いますが、下地になったのは、日本の生ビールの先駆けとも言うべき、アサヒスタイニーというズングリムックリした瓶のビールですよ」

 

どのくらいの若い人を指して氏が言うのかは定かでないが、少なくとも筆者の周囲には、アサヒスタイニーを知らない人など一人もいない。東京オリンピックの年(1964年)に発売された、当時としてはとんでもなく斬新なビールで、男女を問わず多くの人が、夏の海岸やプールサイドででラッパ飲みしていたのを今も思い出す。とまれそのアサヒスタイニーの開発に係わる感動秘話を一つ紹介したい。「ビール王」とも「ホテル王」とも称された、分割朝日麦酒の初代社長、故・山本為三郎氏と中條氏との、濃密で相互信頼に満ちた師弟関係から生まれたエピソードである。

 

「当時の山本社長は、はっきり言って超ワンマンですよ。でも人並み外れて器の大きい人でしてね、若いくせに何でもズケズケとモノを言う、どちらかというと異端児に近い私のことも、いつも温かい目で見てくれていたんです。確かあれは、主任以上の中間管理職を前に訓示を述べられていたときですが、それまではいつも通り力のこもった話し方をされていたのに、シェアの話になると、急に言葉に力がなくなったんですよ。やはり忸怩たる思いがあったんでしょうね。その心中を察するとどうにも堪らなくなって、目から涙がポロポロこぼれ出るんです」

 

たまたま前から3列目と近かったことから、氏の涙は山本社長の目に留まったようだ。その日の夕方、氏は社長室に呼ばれ、直々に異例ともいえる特命を拝受することになる。

 

 

シェアが落ち込んだから生まれた? スーパードライ

「シェアを上げるには何をどうすればいいか。秋の支店長会議までに、君はその抜本策をまとめて提出しなさいと、優しい目をして仰るんですよ。当時は私もまだ37歳の主任さんでしたからね、身震いするほどの感動を覚えたものです」

 

とまれ氏は、自社はもちろん競合相手のメーカーにも足を運んで、技術者たちを捕まえては、 「どうすればビールはもっと美味くなるか」と、訊いて回ったという。ということでもうお分かりだろう。それによって導き出された答えが「生」であり、その生から生まれたのが「アサヒスタイニー」であり、やがて「アサヒスーパードライ」に昇華したというわけだ。その後のシェアについては周知の通りで、今さらここでは書くまでもあるまい。まさに奇跡と呼ぶに相応しいが、しかしそれを言うと氏は、意外にも首を横に振ってこう言った。

 

「運が良かったとは思いますが、奇跡となるとどうでしょうかね。今考えると、もしシェアが10%まで落ち込まなければ、逆にスーパードライは生まれていなかったかも知れませんよ。その意味では、どなたかが言っていましたが、挫折は神佛が与えてくれた恩寵的試練なんですよ。〝気付き〟のチャンスなんですよ。たまたま私というか、アサヒビールはそのチャンスを活かして、ビールは生で飲むほうが美味いし、消費者に喜ばれることに気付いたということではないでしょうかね。もっともその前に、特約店やお得意先に喜んでいただける会社に生まれ変わるぞ、という志をみんなで立てたことが、何より大きいと思いますけどね」

 

ちなみに、アサヒスタイニーが出る前までの瓶ビールは、すべて熱処理したビールである。熱処理したほうが〝持ち〟がいいし、そんな専門知識までは消費者も知らないというまったくのプロダクトアウトで、考えるとつくり手側の驕り以外の何者でもない。これは業容・業態に拘らず、どんな企業も陥るある種の落とし穴といえる。ということで経営者諸氏、挫折からの立て直しには、何をさて置いてもまずは〝立志と気付き〟ですぞ。

 

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町工場・中小企業を応援する雑誌BigLife21 2013年8月号の記事より

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