大赤字でのスタート・ぱど倉橋泰氏インタビュー3
『いつも土壇場、つねに修羅場、まさに正念場』
ぱど倉橋泰氏インタビュー・【第3回】大赤字でのスタート
◆取材:加藤俊 /文:渡辺友樹
本連載は、新生ぱどの紹介を皮切りに創業者の倉橋泰会長が「ぱど」に捧げてきた激動の半生をオーラル・ヒストリーとして記録したものである。
▶第1回はこちら 『ぱど倉橋泰氏インタビュー・紙媒体の未来 「紙でSEOをやる」とは?』
▶第2回はこちら『製造業から生まれたフリーペーパー ぱど創業秘話』
出資者探し
―出資者探しも苦労が多そうですね。
ええ。出資者を探してこいと言われてもそんなツテないですからね。かといって引くに引けないから、親父の知り合いで誰かいないかとか、荏原の子会社の社長で仲良くしていた人に紹介してもらったりとかして、2〜30社は回りました。1時間お時間下さいと。機関銃のように喋って、とにかく金出してくれと。いろんなとこ行きましたよ。
そんな中で、凸版印刷さんが金を出してくれた。それまで荏原とあまり取引がなかったから、荏原の仕事が欲しいっていうのと、ぱどがうまくいけばものすごく印刷物が出ることを期待して頂いた。
それから一部上場でDTPの機械の会社、これも何百台と出る可能性があるので出資しましょうと言ってくれた。それから某商社と、コンピューターの会社、それにゴルフ場を経営している会社とか、こういったところがお金出してもいいよと言ってくれたんです。
―滑り出しは順調のように思えますが。
ところがすぐにズッこけました。まず某商社が過半数を向こうに持ちたいと言うので、これはだめだと。それからコンピューターの会社は金は出すけど人は出さないって。荏原は堅い会社だからいろんなところから人を集めてガラガラポンしたかったわけです。で、それも蹴って。
ほかのところは荏原と釣り合いが取れへんと。荏原の社長は殿ですから「社格が合わない」と。結局凸版印刷さんしか残らなかったんです。
そのときにぼくにも出資させてくださいって社長に言ったんですね。ハイリスク・ハイリターンにしないといい人が集まらないので。ところが社長は、お前この事業って下手すると3億も5億も赤字が出るじゃないかと。お前らいくら金持っているか知らんけど、これは君たちじゃとても償えない額だから、そんなやつらには事業をやる資格はないんだと。まあ殿様だから、要は使用人が何を言ってるんだと。ダメに決まっているという話でした。
―万事休すですね。
社長からそんなことを言われて、これはしょうがないなと思って副社長の部屋に帰って、「もうやめましょう副社長」って。ここまで頑張りましたけど、だいたい事業は人なんだから、いい人が集められなかったら無理ですよと。
ぼくはスピッツだから言いたいことを言うわけです。新規事業の立ち上げって飛行機の離陸と一緒で、人の3倍も4倍もガッツ出してくれるやつが何人かいないとできませんよと生意気言いましてね。
ユダヤの言葉にもあるでしょ。知恵を出す人、金を出す人、汗を出す人、みんな違うはずやと。日本の経営がおかしいと。オーナーが自分で社長やっている。本来、オーナーは金を出して、社長は他の人間がやるのがビジネスの世界なんやから。ぼくらは知恵を出しているんだからお金と対等だと思いますよ。今時会社のために働く人なんていませんよ、自分のために働くんだからと最後っ屁のように副社長に生意気言ったんです。
救世主はやっぱり副社長
―犬のスピッツさながら本領発揮で、辞めるつもりで言いたいことを言ったと。
副社長は面白い人でね。いちばん長老で、荏原の生え抜きの方ではなかった。税務署から来た方でした。で、ぼくの話を聞いて「そうだ倉橋君」と。特攻隊に行くときに、大日本帝国万歳と言って突っ込んでいったやつなんかいないんだと。恋人の名前を呼ぶか、おかあちゃんと言って、日本が負けたら鬼畜米英に日本の国が陵辱されるのを防ぐために頑張ったんだと。
それで、ちょっと待てと言って、ジーコジーコと電話を回し始めたんです。第一勧業銀行さんの頭取と、三和銀行さんの頭取と、東芝さんだけ社長がいなかったんで担当役員に電話で「新規事業やろうと思っていんだけど、ちょっと1000万円出してくれや」と。それでお金が瞬く間に集まったんです。
倉橋君ここに3000万円あるからとにかく始めたまえと。うまくいったらこの3000万円お前らに分けてやるから。その代わり社長には内緒だぞと。それで、荏原、凸版印刷さん、第一勧銀さん、三和銀行さん、東芝さんとすごいところに出資してもらう会社ができあがるんです。
―凄い話ですね(笑い)。
ただ、役員会通さないといけないんで、次の役員会でプレゼンテーションしろと言われて。だから、その役員会の前に役員のところをまわりました。そうするとニターっと笑って「お前なんか企んでるな」って。ぼくは名物男だったんで。「反対だけせんといてください。保留でも結構ですから」って知っている役員さんをずーっと回って。
それで、反対ゼロ、賛成少し、保留たくさん。責任取りたくないからみんな保留になるんです。要するに、私は門外漢だからお任せしますっていう態度や。だから結局上場していても決定権者なんて一人しかいないですよ。創業者の息子がオーナーで、社長なの。
そこでやっと、スタートすることになるんですけど、ぼくそのずっと前に独身寮の寮長をやってたんですね。独身寮には全工場のやつらがいたんで、全然セクションが違う弟分みたいのが何人かいて。それで新規事業やるから仕事はできるんだけど変わってるやつとか、何かで干されてるようなやつがおったら紹介してくれと。
偏屈じゃないと新規事業になんて来ないと思ったから。荏原みたいな堅い会社に入るのは堅物ばっかりやと思っているから。
それで何人か紹介してもらって引っ張るんですけど。どうしても上長が離してくれない。それでも辞表書いたら早いやんあんた、上は関係ないやろ、とかって言ってたら、人事部長から呼び出されて大目玉ですよ。なんてことするんだと。
いやでもそうでもせんと集まりませんねんと言うたら、よしじゃあ俺に任せとけって言って、人事部長が各部長を説得してくれたんです。「こんなもん絶対うまくいかない、熱病みたいなもんで半年か一年で帰ってくるから出してやれよ」と。
どうしても出さない部長もいたんだけど、そうやって集めて。ぼくの直属のボスはもう大激怒ですよ。自分のセクションから二人持っていったから。
そうやって集めたんですけど人事部長がみんな出向だと。「ただし倉橋、お前だけはクビだ。お前だけ辞表を書け。背水の陣でやってこい」と。良い部長さんでした(笑い)。
大赤字でのスタート
―社内ベンチャーとして、ついに「ぱど」がスタートしたんですね。
そう、立ち上がったんですけど、1年目は真っ赤っか。印刷会社さんが高いこと言うからいつもケンカしてたんやけど、1回発行するのに1000万円ぐらいかかった。売り上げが300万円だから1週間で赤字が700万円、1日100万円でしょ。
4億の赤字が出たら止めますって書いてあるから、このままいったら1年目で3億6500万円。寿命1年ちょいやなみたいな。
まあ荏原がおおらかな会社だったから赤字でもガンガン言われなかったし、最初はすごい赤字になりますいうのは伝えていたので、それでもここまでだとは思ってなかった。
―目論見が外れた理由は?
日本特有の横並び社会を想定しきれなかった。マーケティングリサーチではなかなかいいね面白いね、使ってみる、とでていたのが、いざ始まったら競合はどうしてはんの? どこが使ってはんの?と。
銀行の融資と一緒。メガバンクさんが融資してはるならしょうがないからやりましょうと。だめなときにも、メガバンクが融資しているのにだめなんだからこれはしょうがないでしょうと。積極的に自分のとこがやるというのは日本の土壌にはあんまりないですよね。
だから広告の担当者としては、去年から引き続いた予算。たとえばテレビに2億円、ラジオに5000万円、チラシに1億円だったら、それをあんまり変えたがらない。変えたときに問題があったら自分の責任だから。だから新しいものって、ご祝儀的に単発では出ても2発目がない。年間予算に食い込めないんです。
―事前の調査の結果とのずれを読めていなかったと。
でもそんなこと素人だから知らないから、こんだけ事前調査がいいんだからスコンスコン出るよねと思っていた。ところが横並びでちゃんと配ってんのとか、そういうのが実証できたら使うよとかね。あらゆるところでリジェクトがかかって。どないしよと思いました。
それで考えて、人材がいなくなったら仕事が回らなくなるから、求人広告は予算関係なく出るなと。だから求人は狙っていこうと思ったのと、あと金額が大きくて定期的に出るのは不動産なんですね。そこを積極的に営業して。
その辺をうまく取り入れて少しずつ上がってきたけど、赤字だらけは変わりませんでした。ぱどは横浜から始めたから、みなとみらいのお店から受注したりしながらだんだん信用を上げていって、100号ぐらいのときかなあ、もうちょっと前かなあ、日刊スポーツの表4に大きく「ぱどが便利だ」というのを記事として取り上げて頂いて。それで風向きが変わったんです。
ポケットから万札が出て広告費払うような小さなお店とかに、日刊スポーツをコピーして持っていくと、「お前んとこ面白そうやな」とすごく反響があって。営業マンの士気も上がって、3割ぐらい売り上げが上がりました。それが始めて2年ぐらい経ったときのこと。
その頃を境にグッと良くなって。単月黒字になるのに2年半ぐらいかかったんです。
―それまで赤字続きの中、どう考えていましたか?
創業して思い通りに広告が入ってこなくて、集めた仲間も不安になりますよね。でね、チラシを何グラムって計って仕分けしたり、毎週土曜日は印刷屋さんまで行って出張校正したりとかそういうことをぼくが自分でやってたら、仲間が「倉橋さんそんなのぼくらがやるから。しなくていいですよ」って。
そう言われると余計つらいんですよ。体動かしてる方が仕事している気になるからね。でもそれもねトンネルを抜け出す策を考えろって言われてるんやな、と思いましたよ。毎週毎週、毎日毎日赤字やから。
それも週刊誌ってやってみて初めてわかったけど、締切が終わってホッとしたらもう次の締切が来る世界。なんだこれっていうほどすごいストレスで。毎晩寝汗ぐっしょりかいていました。
―その状況を打破したのは?
早い時期からフランチャイズになってくれた大阪ガスさんとの会議の帰りによく行ってた京都のお寺があって、ちょっとゆっくり考えようって、そこで一人で座禅を組んだりもしていました。何ができて何がでけへんのかを考えようと。それでわかったことがありました。
その頃ね、新規事業を取り上げる雑誌をやっていた人がいたんですよ。大企業さんを相手に、新分野か新規事業開発のネタを提供する月刊誌だったんですね。いろんな会社にどんなことやってますかってヒアリングしていくんです。で、荏原に来たときに「うちに変なのがひとつあるで」っていうんで、ぱどの取材をしてもらったんです。それで取材されて雑誌に載ったら、すぐにPHPの人が飛んできて、そこも載せてもらったんです。
要は、ネタを探しているんですよ、みんな。そういうとこに載ると違う媒体が来てくれてということがポツポツ始まってたときだった。で、座禅を組んでるときに「あ、そうやな」と。
うちは広告屋なのに、赤字だから自分とこの広告費のコストが出せないと。でも取材されるとタダや。自分たちで「ぱど良いですよ」と言うよりも、よそが「ぱどって面白いですよ、良いですよ」って言ってくれた方が効果がある。じゃあそれに専念しようと。ぼくは歩く広告塔になろうと。
広告塔に専念、異業種交流会で人脈を広げる
―発想の転換ですね。
でも自分で考えた事業だから、何やっても自分の方が知っている分もどかしい。自分が編集のことをやっていると営業のことが気になるし、営業をやってると配布のことが気になるし。しかも、ぱどのスタート時点では、倉橋はクビだと言われたとはいえ、当面は荏原からの出向でした。
だから残業手当を請求せなあかんかったんですよ。で計算したら月200時間超えるんですね。週2日ぐらい泊り込みみたいなものだから。
そのときにもう、何をやってもあかんけど、任せられるものは全部任そうと。60点でいいやないかと。で、自分しかできないことはやっぱりぱどを語ることだから、これに専念しようと吹っ切れたんです。
そこから、今までは2日間会社に泊り込みとか、出張校正以外は一切外に出られないような状態を、ぼくが連れてきたやつに編集長を譲って自分は外に出るようにしました。
社外向けにヘッドレター、社内には「今週の言葉」
それから、色んなところに出歩くようになって「お助けの倉ちゃん」って言われるようになりました。日経産業新聞のベンチャーのページがあったのですが、週に2〜3回を3人の記者で埋めなあかんから、ネタ切れになるんですよ。そうすると電話かかってくるんです。「倉ちゃん、なんか面白いやついなかったっけ」って。
それで紹介してあげて、自分とこもなんかニュースあったら優先的に書いてよって。400ぐらいのメディアに出たかなあ。それでだんだん名前が上がりました。(次号はこちら▶MBO、そして上場・ぱど倉橋泰氏インタビュー4)
倉橋泰(くらはし・ひろし)…1953年大阪府生まれ。京都大学工学部卒業後、1977年株式会社荏原製作所入社。1987年社内ベンチャー事業として株式会社ぱど設立。1992年、MBOにより株式会社ぱど代表取締役社長に就任。2001年、ナスダック・ジャパン(現・新ジャスダック)上場。発行部数1000万部達成。2002年、「ぱど」が発行部数世界一としてギネスブックに認定。2009年より、神奈川県教育委員。2014年より、東京ニュービジネス協議会副会長。同年、株式会社ぱど代表取締役会長に就任。現職。
株式会社ぱど
〒141-0021 東京都品川区上大崎2-13-17 目黒東急ビル2F
TEL:0120(090)810
年商:79億円(2015年3月期)
従業員数:約370名(契約社員含む)