製造業から生まれたフリーペーパー ぱど創業秘話・ぱど倉橋泰氏インタビュー2
『いつも土壇場、つねに修羅場、まさに正念場』
ぱど倉橋泰氏インタビュー・【第2回】製造業から生まれたフリーペーパー ぱど創業秘話
◆取材:加藤俊
本連載は、新生ぱどの紹介を皮切りに創業者の倉橋泰会長が「ぱど」に捧げてきた激動の半生をオーラル・ヒストリーとして記録したものである。▶第一回はこちら
アメリカで受けたカルチャーショック
―ぱどは最初ポンプとか送風機、タービンの製造で有名な荏原製作所の一事業だったと聞いています。押しも押されもせぬ製造業の老舗、ザ・製造業の荏原でフリーペーパーをやるという経緯が全く想像つかないんですが。
そうだよね(笑い)。荏原時代のあるときアメリカに行けと言われて、ロサンゼルスの40数名の事務所に入ったんです。本社はピッツバーグの郊外にあるんですけど、ぼくが入ったロサンゼルスの事務所が西海岸とファーイーストをコントロールしていた。
で、ぼくが行って1ヶ月ぐらいで新しい支社長が来て、あっという間に40数名のうち8名ぐらい首切られたんです。なぜかというと、支社長のボーナスはそこの営業所の利益にリンクするから働きの悪いやつをみんな首切ったんです。たとえばマネージャー一人ひとりに秘書なんか要らんと。また、若いセールスマンで成績が悪いのも要らんと。
日本は終身雇用制ですからね、簡単に首切られるのを目の当たりにして、日本の未来もきっとこんな風になるんだと、かなりショックを受けました。
―終身雇用の日本と違い、結果を出さなければすぐ職を失ってしまうというのはまさにアメリカですね。
ええ。もう一つショックだったのは、あるとき西海岸のエンジニア会社への営業に同行したんです。製図室の横を通って会議室に行くんですけど、ふと横をみると昔はコンピューターで製図するんじゃなくて、ドラフターという製図台を立てたり寝かしたりして製図していたのですが、そのドラフターがほとんど動いていない。人がいる気配もしてなくてどうしたのかなって。打ち合わせが終わって雑談の時に「製図室が静かなのはどうしたの」と聞いたら向こうの責任者が「いやなに、いま景気悪いからレイオフしたんだ」ってさらりと言うわけですよ。
「うちはこの分野で特別な、卓越した技術を持っているから景気が持ち直せば」って。「来年のクリスマスには製図室は満員になってるよ」とか平然と言うんです。それはもうすごいカルチャーショックでしたよ(笑い)。
―日本にはない厳しさを突き付けられたわけですね。
ちょうどグローバルな環境でビジネスをするぞと叫ばれている時代ですから、世界で戦うようになったら年功序列なんて言っていられないと痛感しました。プロ野球と一緒で強いやつを持ってきたやつが、集めたやつが勝ちやんみたいなね。
そうなると、ずっと日本にいて終身雇用の中で生きてきた自分はぬるま湯に浸かっていては、このままじゃ茹で蛙になっちゃうかなと。だから手に職を持ってないとだめじゃないかなと。
そうは言っても、荏原製作所って1プラント10億円とか100億円の世界ですから、そんなのを個人でやるのは無理だし工場なんか持とうと思ったら、なおさらすごい投資が要る。手に職を持つ言うたってなあ…と思いながらも、せっかくアメリカに来たんだから色々見てやろうと思ったんです。
まあ好奇心旺盛でしたからなんでもかんでも見て、5つぐらい日本でやるならこんなビジネス、アメリカに残ったらこんなビジネスできるかな、っていうアイデアをもっていました。それで、すったもんだの挙句に日本に帰ることになったときに、日本に帰ってやるんだったらいちばん有望だなと思っていたのがぱどなんです。
日本に帰国、新規事業部の第一号社員に
―なるほど。でも、荏原でフリーペーパーをやりたいって手を上げて、よく採用されましたね。
ぼくが帰ってくる時がちょうどプラザ合意の後で、円高が一気に進む時でした。荏原製作所は、ぼくがいたセクションは特にそうなんですけど、9割が輸出の仕事ですから円高で立ち行かんわけですよ。ぼくが帰る時に自分のお金を1ドル254円で替えたのが、1年ちょいでもう150円ぐらいまで行った。そういう時に帰ってきたんです。
で、会社としてはこのままでは輸出が立ち行かないから、世界中から何かいいものを探してきてノックダウン*でもいいから大型の工場を動かせということで新規事業を狙っていた。ぼくは技術提携に関するセクションにいたから、ちょうどいいやつが帰ってくるということで、それを探す役割として新規事業部の社員一号にされたんです。そのとき、何をやってもいいと言われて。
というのも、日本に帰るかどうかというとき、アメリカに残れというのと日本に帰れというのと、それからスカウトもされていたんだけど、何をやってもいいと言われたんで荏原製作所に残って、日本に帰ることにしたんです。
*ノックダウン 他社の設計で、製作だけを受ける。いわば下請け。
―その新規事業が「ぱど」だったということですか?
そうです。お前アメリカにいたんだから何かアイデア出せと言われて、ぱどの案を出したんです。でも、まあ当然ですけどお蔵入りになった(笑い)。荏原の望む世界中からものを探して工場動かせという仕事をするかたわら、ぱどのアイデアをちょっとずつブラッシュアップしていきました。本業である機械のこともやりながら、暇なときにぱどのことをやっていると部下たちが面白いからって手伝ってくれる。
ところが、これが部長は気に入らんわけです。東大の機械科出身の人だから、そんなワケのわからんもの理解に苦しむと。機械のことなら、たとえ違う種類の機械でも精度や性能についてわかるでしょうけど、広告や雑誌の話ですからね。
―でも、荏原製作所の技術職だった点は倉橋会長も同じですよね。「ぱど」の事業を思いついた理由は、アメリカに行ったからというだけなのでしょうか?
ぼくは日本にいるときソフトウェアをやっていたんです。コンピューターを使って数値解析するようなこともやっていましたから。印刷の世界の中で、写植して版下作って製版フィルム作って刷版作ってという流れがコンピューター化していくと思っていたんです。刷り分けることにしてもコンピューターで、この記事はこのエリアだけに出る、この記事はまた違うエリアに出る、そういうのが全部コンピューターでできるようになるという確信があった。
この分野は劇的にコストダウンが進んでいくので大きなビジネスチャンスがあると思っていたので。まあ技術屋の発想でやったものですね。
荏原製作所でのあだ名は『スピッツ』
―新規事業部内の若手社員たちは協力的だったんですね。
はい。その事業部を創設する時、担当専務が「全員30歳以下でやれ。荏原の年寄りは頭が固いから」といって進められましたから、若者が多かったのです。しかし前述の部長は全くダメ。頭が固い。創設指示した専務がつくった部名もなんと「※新機事業部」でした。
※新規のキは機械の機
―それは、社内全体の理解を得るのは容易ではなさそうですね。
それはそうですよ。荏原製作所はぼくがいた当時で創業80年ぐらいで、天皇家も株をもっているという格式高い会社でしたから。堅い会社なんです。
新規事業の提案制度も同時にありましたから、部長を飛び越えて応募すると無しのつぶて。若いやつの新しいアイデアに「それはダメだ」なんて言うと頭が固いっていうレッテルを貼られかねないし、「それはいいね」なんて迂闊に言ってしまったら、上から「そうか、キミが後見人になって是非成功させたまえ」なんて言われる可能性があるワケです。そうすると主流から外れてしまう。
だから据え置きにされるんです。やっとのプレゼンやディスカッションの後に、「常務のご意見はやらないってことでいいですね」って言うと、「なにキミ、やらないとは言ってないんだ」と。こういうリスクがあるからこのリスクを検討したらどうだ、とかって全部保留になる。
だからいつまで経っても白黒が付かない。でもぼくはガチャガチャいろんなことやるもんだから部長とケンカばっかりでした。ぼくも「いやぼくは何をやってもいいという条件付きでここに来たんですよ」って引き下がらなかったし。結局ろくなことない、ほかの奴が巻き込まれるからって部長に追い出されるんですよ。で、人事部長に拾ってもらって3ヶ月間人事部付になりました。
ぼくはね、荏原製作所時代は「スピッツ」というあだ名で。キャンキャン吠えて、誰にでも噛み付くからと。その時も人事部長に噛み付いて。いやこういう約束じゃないですかって話をして。
応接室の仮住まいで「ぱど」の事業に着手
―そんな経緯があって帰ってきたのに、約束が違うと。
噛み付いたら、人事部長は「わかった」と。そこで、3ヶ月300万円3人くださいと言ったんです。見本誌を作ってマーケティングリサーチをやりますと。近所の奥さんに集まってもらってこういうものがあったら読むかとか、お店や商店街を回ってこういう媒体は使えるかとか、それをやってだめだったらあかんし、良かったら検討してくださいと。
そうしたら、小さな部屋で一人でやることになった。3人はくれなかった。それでも見本誌を作ってマーケティングリサーチをしたんですけど、この結果が上々だった。7割以上が好反応だったんです。
それで事業計画として出したんですけど、さっき言ったようにすべて保留になっていくわけです。ほんで、もうこんな会社辞めたれと思って辞めようとしているときでした。あまりにも腐っているから社長室長が「倉橋、まあガス抜きに酒でもご馳走したるわ」って言って、それだったらご馳走してもらいますわってことで、玄関で待ち合わせしていたのです。
そうしたら、トコトコトコと副社長が帰って来るわけです。それで社長室長と立ち話始めて。で、副社長がキミは誰だ、何をやってんだという話になって、そのときぼくは不満をぶちまけたんです。「やってられませんよ、新機やれ言うたってぜんぜん決断しないし」って言ったら、副社長が「そうか。分かった」って。来週社長に時間取ってやるから社長にプレゼンテーションしろと言われて。直でプレゼンできることになったんです。
副社長はおもろいおっさんでね。それからずっとメンターになってくれたんです。副社長との出会いがなければ、その時荏原から飛び出して自分で最初からやって、もう潰れていたでしょうね。
社長へのプレゼンテーション
―凄い偶然から掴んだチャンスだったんですね。
そうです。で、社長プレゼンの際に、「なんで荏原製作所がこんなことやるんだ」ということは間違いなく聞かれると思いました。事業自体はずっと考えてきたことだから説明できるけど、なんで荏原製作所でやるのかという点をどう言おうかなと。
それで頭ひねって、荏原って『水と空気の明日を考える荏原製作所』というのがもともとのスローガンだったんです。ところが排煙脱硫装置とかゴミ焼却炉とかのシステムも売れるようになって、単純に水と空気だけではなくなってきた。それで『水と空気と環境を考える荏原製作所』と変わったときだったので、これにしようと。
実際にプレゼンテーションが終わったときに社長が開口一番「なんでうちがやるんだ」と。
―こちらが予想していた通りの質問をしてきたと。
来た来た、と思って「いやね社長、これからはアメニティーの時代ですよ」と。その頃アメニティーなんて日本語になってなかったから「アメニティーってなんや」と。「快適性というか、環境と一体になって…」その頃メセナという言葉もなかったから。「地域と一体になることが企業使命になってきて、アメリカではもうそれをやっています」と生意気言いましてね。
たとえばある石油会社なんかは、モノを運ぶのに騒音が出るとか工場から排ガスが出るとかそういうものがあって、地域住民と仲良くせなあかんと。そのために儲かった中から地域の学校にコンピューターを寄付するとかそういうことをやっていますと。それもただ買って与えるだけじゃなくて、講師を派遣して地域住民との会話の場をいろいろ作っているんですと。それはリクルーティングにもつながることですから。
ぱどの事業は地域社会に溶け込むものだから、今は関係ないかも知れませんけど碁で言う捨て石ですと。必ず繋がってきますからと、もうわけのわからんことをじゃべりまくった。工場と地域住民の間を持つ、一番いいものですよと。
―社長の反応は?
そうすると社長が「ウーン」と考えこんでから、エバラアメリカの社長のノーマン・フランクに電話したんです。フランクは技術提携している会社のバイス・プレジデントだったのを荏原が引き抜いて、エバラアメリカを作った時に社長に据えた人でした。
ぼくは仲良しでした。で「倉橋がこんな事業やりたいって言ってるんだけど、アメリカではこんなのビジネスになってんのか」と聞いているんです。フランクはピッツバーグの本社にいたんで、ロスには日本に行くときに途中で寄るぐらいであんまりよく知らない。だけれども「カリフォルニアのその雑誌は知らないけど、ニューヨークだかボストンだかにフリーペーパーの会社を売って悠々自適のクルーザー生活をしているやつがいるから聞いてやろうか」みたいに答えたんです。
フランクは前からぼくに対して好意的だったから、良く言ってくれたのかも知れませんね。「じゃあ儲かんのか」ってことで社長は電話を切って、儲かるんだったらやってもいい。ただし、この事業はちょっと失敗したら相当な損失を被るじゃないかと。荏原はこの世界では素人だから、この道のプロが金を出すというならやってもいいと。出資者を探して来いという条件付きでのOKになったんです。(次号はこちら▶大赤字でのスタート・ぱど倉橋泰氏インタビュー3)
倉橋泰(くらはし・ひろし)…1953年大阪府生まれ。京都大学工学部卒業後、1977年株式会社荏原製作所入社。1987年社内ベンチャー事業として株式会社ぱど設立。1992年、MBOにより株式会社ぱど代表取締役社長に就任。2001年、ナスダック・ジャパン(現・新ジャスダック)上場。発行部数1000万部達成。2002年、「ぱど」が発行部数世界一としてギネスブックに認定。2009年より、神奈川県教育委員。2014年より、東京ニュービジネス協議会副会長。同年、株式会社ぱど代表取締役会長に就任。現職。
株式会社ぱど
〒141-0021 東京都品川区上大崎2-13-17 目黒東急ビル2F
TEL:0120(090)810
年商:79億円(2015年3月期)
従業員数:約370名(契約社員含む)