日本電鍍工業株式会社 ‐ 倒産寸前の会社を救った一人娘 日本最高レベルのめっき技術で、社員がローンを組める会社へ!
日本電鍍工業株式会社 ‐ 倒産寸前の会社を救った一人娘 日本最高レベルのめっき技術で、「社員がローンを組める会社」へ!
◆取材:綿抜幹夫 /撮影:高永三津子
日本電鍍工業株式会社/代表取締役 伊藤麻美氏
日本の製造業が華やかなりし頃。ロジャー・ムーア演じるジェームズ・ボンドも、秘密の仕掛けが満載のセイコー・デジタルをその腕に巻いていた。国産腕時計メーカー各社の指定工場として、高いめっき技術に定評があったのが日本電鍍工業株式会社だ。
創業社長亡き後の放漫経営で倒産しようとしていた同社を救ったのは、アメリカで夢を追っていた一人娘、伊藤麻美氏だった。
■寝耳に水の倒産話
昭和42年(1967年)に生まれ、インターナショナルスクールから上智大学へと進んだ同氏。就職難を知らないバブルの時代だった。今しかできないことをするため、好きだった音楽と宝飾のうち音楽を選び、ラジオやテレビ番組のディスクジョッキーとして8年間を過ごす。その後、生涯続けられる職をと、30歳で宝石の鑑定士や鑑別士の資格を取得するために渡米。現地での就職もほぼ決まっていた矢先、日本からの一本の電話で人生が激変する。
20歳で母を、23歳で父を亡くした同氏。六本木の実家には、父の再婚相手である継母が一人で住んでいたが、この家が、父が創業した日本電鍍工業株式会社の名義だった。同社の経営が立ち行かなくなり、家を売るので、引っ越すために帰ってきてくれという電話だったのだ。
■会社を継ぐ決心
事業家だった父の光雄氏は、起業した会社が軌道に乗ると社長職を人に任せ、次の起業を繰り返した。社長を退いても、最終的な判断は自ら下していたため、各企業とも問題なく経営されていた。
しかし平成3年(1991年)の急逝後、後任社長によって同社は一気に傾く。製造業が海外に出ていき国内が空洞化する中で、旧来の腕時計のめっきに固執した上、必要のない工場を新設。潤っていた時代の蓄えを食い潰したばかりか、銀行との付き合い程度を除いて無借金経営だった同社が10億円からの借り入れを作ってしまう。200名いた社員は48名にまで減った。
成田空港からの車中で、継母からこれら全ての経緯を聞かされた。専門用語はもちろん、経営のことなど何も分からない同氏だったが、まずは監査役、そして取締役に就き、少しずつ状況を把握していく。会社がなくなるのも仕方ないという心境が、関わっていく中で変化する。社員の顔を見るうちに、彼らやその家族の生活を守らなくてはならないという思いが芽生えたのだ。
さらに、同氏に唯一、両親が遺してくれたものが同社。財産も保険も全くなかった。父が優れた経営者だったことを知るにつれ、亡き後の放漫経営で社が倒れようとしている現実が悔しかった。
10億の負債を個人保証したが、失うもののない自分は命さえ残ればいいと、平成12年(2000年)、32歳で代表取締役に就任する。
■時計を追わない
小泉政権下の当時、アメリカ式経営が持て囃されていた。その手法に従えば、真っ先に行うべきはリストラである。しかし、同氏は雇用を死守。一人も切らずに復活することを誓った。
まず取り組んだのは、9割を占めていた「時計」の比率を減らすこと。実は折からのITブームで、携帯電話、パソコン、デジカメなどは国内で作られ、モノが足りなくなるほど売れていた。しかし、そうした製品のめっきは大量生産で、「薄く」めっきすることを求められるなど、同社の技術には合わなかった。
というのも、同社は元来、国産時計メーカー各社の指定工場として鳴らした企業。腕時計は高級品だ。同社の技術も、見た目と機能性のバランスを追求する品質志向だった。職人の手作業による少数生産で、技術的に高度な「厚く」めっきする加工が強みなのだ。
苦しい経営状態の中、既存の設備でできることを模索した同氏。景気に左右されず、需要があるものは何かを考えた結果、「医療」「健康」「美容」に辿り着いた。
当時では珍しい自社サイトを立ち上げ、展示会のメーカーのブースに社長自ら足を運んで営業をかけた。少しずつ注文が入るようになり、ある医療製品を手がけたのが転機だった。技術的に極めて困難で、他社に軒並み断られた末に声がかかった曰くつきの案件。社員たちも「とてもできない」という反応だった。
しかし、「この仕事が社の未来を決める」との同氏の熱意が彼らを動かす。試行錯誤の末に見事加工に成功し、精密な技術は業界を唸らせた。
■国益を守るために
同氏が継いで3年目で黒字に、6年目で正常化した同社。この間の経営の苦労と、社員たちの奮闘は想像に難くない。
金融機関は、思わしくない業績と若い女性社長の足元を見て、どこも門前払い同様の対応だった。しかし、業績回復につれて政府系金融機関が支援し始める。その後、借り換えを実現させた現在のメインバンク、埼玉りそな銀行との出会いは大きかった。当時の同行社長が、数字だけでなく、技術や人柄も含めた全体を査定する「銀行員らしからぬ」人物だったのだ。
7年目にはタイ進出案が持ち上がったが、直感的にとりやめた。規模拡大を目標としない同氏は、国内で雇用を守り、国内で企業を継続させることを重視する。国益に貢献し、日本にしっかり納税する企業へ。雇用を守り、継続していくことがそれに繋がると考え、市場は海外に求めるが、生産は国内で行う姿勢を貫いている。
■100年企業に向けて
昭和33年(1958年)設立の同社。既に58期を越え、同氏の視線は2057年の100年企業到達を向いている。次世代への継承、そのためにも若手の育成だ。20代〜40代前半の社員を積極的に育て、業績が回復してからは新卒や中途採用も行っている。
同社のめっき液はその殆どが自社開発の「秘伝のタレ」だ。優れた技術は平成19年(2007年)には中小企業庁『元気なモノ作り中小企業300社』にも選ばれた。これらの伝承も行いながら、現状に甘んじることなく他社にない新技術を生み出し続けなければいけない。当人にしかできない職人技も武器だが、存続のためには標準化とのバランスが重要だ。
■全社員の夢を叶えたい
現在の社員数は70名。大きくすることではなく、全社員の夢を叶えることが目標だ。
「家が買いたいという社員がいれば、買えるようにしなければならない。娘をバレリーナにしてロシアに留学させたい社員がいれば、それをさせなければならない」と語る同氏の夢は、2020年の東京オリンピックでメダルのめっきを手がけることだ。
既に何人かの社員が家を建て始めた。中堅大手の社員には想像もつかないだろうが、中小企業の社員はローンを組むのも難しい。もちろん、家を建てたらまた次の夢を追って欲しい。次代の社員たちの夢も叶えなければならない。そのためにも、利益をしっかり出し、社員に還元する会社へ。大量生産には目もくれず、1点モノから受注する多品種少量生産路線はぶれない。
◇
毎朝必ず社内を回り、全員に挨拶する同氏。インターナショナルスクールに育ち、ソウルやヒップホップといった音楽に親しみDJに。その後は宝飾関係への転身を目指し渡米した。
日本式とアメリカ式のハイブリッドな性格は、発言機会の重視や身分役職を問わない平等性など、経営術にも表れている。雇用を守り、企業を継続させることで社員の生活を豊かにし、延いては国益に貢献する。同氏という経営者は、時代の先を歩んだ両親が遺した最大の社会貢献だ。
イオンプレーティングによるチタンコーティングは、軽量で金属アレルギーもないため医療器具や半導体関連製品にも最適。
素材である金属によって音色が変わる管楽器。同社では金属特有の硬さと膜厚管理で上質な音色を追求し、現在のような貴金属めっきを可能にした。
錆などの素材の欠点を補い、貴金属の持つ輝きを存分に引き出す装飾品のめっき。
電子部品へのメッキは、その電気特性から99.99%の金(Au)めっきや銀(Ag)めっきが用いられる。
◉プロフィール
伊藤麻美氏(いとう・まみ)…昭和42年(1967年)東京都生まれ。上智大学外国語学部比較文化学科を卒業後、ラジオやテレビ番組のディスクジョッキーとして活躍。その後渡米し、宝石の鑑定士・鑑別士の資格を取得。帰国後の平成12年(2000年)に日本電鍍工業株式会社の代表取締役に就任。現職。
◉日本電鍍工業株式会社
〒331-0823 埼玉県さいたま市北区日進町1-137
TEL 048-665-8135
◆2015年5月号の記事より◆
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