二和電気株式会社 – 電源システムづくりで日本のインフラを築く。
二和電気株式会社 – 電源システムづくりで日本のインフラを築く。
◆取材:綿抜幹夫 /文:渡辺友樹
創業68年─今こそ〝変革〟の時!
東日本大震災における原発事故は、電源の供給が途絶えなければ起こらなかった。この事故を教訓に、電気などインフラの重要性が見直されるようになったという。時代の荒波を乗り越えて創業68年を数える電源システムの専門メーカー、二和電気株式会社の水上春樹会長に聞いた。
■山梨県韮崎市から上京
水上春樹会長は、昭和11年(1936年)、山梨県韮崎市出身。今でこそ交通が整備されているが、「山に囲まれて、私の家も五反ほどの田んぼで」と述懐するように、かつては不便な土地だったという。長男だった同氏、長男は家を継ぐのが当たり前の時代だが、父親の考えはそうではなかった。「お前、こんなところでくすぶっていてもというので、東京へ出て行けと言われました」というわけで、上京し明治学院大学に通うことになる。同氏自身はそれまで東京へ出る気はなかったが、どうせ出るなら一国一城の主になってやろうと、いずれは社長になるという野望を秘めての上京だった。
当時としては珍しく東京で大学に通った同氏だが、学者になりたいわけでもなく、就職口を探すことになる。「電気というものは少なくとも自分が生きている間は、いやそれ以降も、まずなくなることはないだろう」との考えから、電気関係の企業に就職する。社長を目指していた同氏は、「小さい会社で色々なことを勉強しよう」と大きな会社を視野に入れず、この就職先もごく小規模な会社だったという。ここで営業職として汗を流す日々を送っていたが、この会社はやがて倒産してしまう。倒産の1年ほど前から、長くないことを感じ取れたというが、そうなる前にと同僚たちが辞めていく中、同氏は「会社というものがどうやって潰れていくのかを勉強した方がいいと思った」という理由で、最後まで残る。32歳という若さだったこともあり、「なあに、これからじゃないか。このまま田舎に帰ってもしょうがない」と、東京で一国一城の主を目指す気持ちは変わっていなかった。
■二和電気株式会社に入社
このとき同氏には、独立するなら運命を共にしたいと慕ってくれる部下が15人ほどいた。彼らを引き連れ、さてどうしようかというときに、業界内で縁のあった二和電気株式会社の水越社長(当時)から呼び出される。「独立するなら資本を出してやる。それともうちに来て一緒にやるか、選んでくれ」との話だった。社長への夢はあったが、32歳をまだ勉強に充てる期間と考えた同氏は、まずは同社の世話になって一生懸命やろうと入社を選択する。昭和42年(1967年)のことだ。
ここで、同氏入社までの同社の歴史に触れておこう。創業者の水越氏が二和電気製作所を創業したのは昭和22年(1947年)。一人では和にならない、二人の人間がいて初めてそこに和が生まれるとの想いから『二和』と名付けたという。当時は電電公社(現NTT)などを顧客とし、建物に電報を投げ込む「エアシューター」のモーター修理などを手がけていた。会社組織としての設立は昭和36年(1961年)のことで、この頃は電源3社の一角を占める電気機器メーカーであるオリジン電気株式会社から仕事を請け、電気製品の組み立てを行っていたという。当時の同社は技術を持たず、製品を組み立てて完成させて納める、いわゆるアッセンブリーが仕事だった。
こうした中、昭和42年(1967年)に同氏が入社したわけだが、このとき共に入社した前職の部下たちの中には技術職の社員もおり、同氏自身には営業職の経験がある。入社から半年ほど過ぎた頃、同氏はこれらを活かして新たな仕事を始めることを提案、同社の現在の姿へと繋がる「技術を持ったモノづくりメーカー」への業態転換を図ることになる。
■業態転換に成功、経営を任される
工場内での作業の様子。 設計室での作業の様子。
しかし、同氏のこの取り組みは、最初の1年目に赤字を出してしまう。社として経験のないことへの挑戦であるから無理もないのだが、税理士から責任を取るように迫られてしまったという同氏、これを受けて「1年後に退職する」旨の退職願を提出する。この「1年後」がポイントで、実は「1年でひっくり返そうと思っていた」という。そして有言実行、1年後に見事赤字を挽回。この一件を経て、前社長水越氏は「お前に全部任す」と、同社の経営のすべてを同氏に任せるようになる。職人だった水越氏は「俺は職人だからお前に教えることがない。自分の好きなようにやれ。俺は何も言わないぞ」と、本当に一切何も言わなくなったという。これを意気に感じた同氏、独学で経営者としての道を歩み始めることとなる。入社から2年後のことだ。
水越氏は根っからの職人堅気で、当座の資金に窮した際には腹巻きから「これで足りるか」とお金を取り出すような人物だったという。同氏が赤字を巻き返し、経営を引き継ぐまでの期間は随分我慢してくれたと振り返り、「私は恵まれていた」と感謝を口にする。
■経営者として
正式な二代目社長就任は入社から15年後の昭和57年(1982年)、47歳のときだが、前述の通り実質的には入社2年後の34歳から社長の立場にあった同氏。経営理念として、顧客の満足、積極的な挑戦、そして社員を大切にすることの三点を定めている。
経営者としての同氏は、アナログからデジタルへと時代が電子化の道を進む中、昭和末期頃には新製品に対して思い切った投資を行った。産学連携も積極的に行い、大学の教授と協力して新製品を開発したという。今でこそ頻繁に聞かれる産学連携だが、当時は大企業でなければ珍しい。投資の成果は現在まで活きており、携帯電話の基地局を手がける仕事にも繋がったという。
バブル崩壊までは、日本全体がモノを作ればどんどん売れていく成長期にあった。同氏も「いい時代だった」と振り返るように、それなりに経営していれば企業は存続できた。しかし、バブル崩壊や、リーマンショックといった大きな危機を経て、同社も御多分に洩れず厳しい時期を経験する。持ち直すきっかけとなったのは東日本大震災だった。東日本大震災では、電源の供給がストップしたために原発事故が発生。以降、電気をはじめとするインフラ整備の重要性が社会的に見直されるようになったのだという。
■危機を乗り越えて
「二和電気になら安心して任せられる、そういう会社にしたい」と水上氏。会長となった現在は社員の指導と教育に専念し、全員一丸となってさらなる飛躍を目指している(写真は工場内での作業の様子)
こうした時期を乗り越えた同社が、現在三カ年計画を立てて目指しているのは、同氏が「二和電気になら安心して任せられる、そういう会社にしたい」と語るように、同業他社と比較して特色のある会社、オンリーワンの存在になることだ。
また、一昨年からは「変革」をテーマに、過去にしがみつくのではなく、一度リセットしようという姿勢を取っている。良い部分を残しつつ、いかに感覚を新しくするかが重要で、この方向へ社全体を導くことが現在の同氏の取り組み課題だ。昨年4月、息子に社長職を譲り会長職へと退いた同氏だが、会長になってからは社員への指導と教育に専念しているという。
これらの挑戦の成果として、昨年にはある製品を自社ブランド品として開発。これまでメインだった2次下請けから、自社ブランドの製造販売へと、業務内容をシフトさせようとしている。目標としては、下請け業務をこれまでの8割から6割ほどに下げ、残り4割を自社ブランド販売にしたいという。また、現在の同社は全ての開発・製造を自社内で完結させるのではなく、他社との連携を重視しており、既に名古屋の企業との連携がスタートしている。自社の持つ技術の幅を広げるのではなく、独自性を特化させていくことで他社との競合を避け、オンリーワンの立場を確立する。自社が持たない技術については、それを有する他社と連携していく、という戦略だ。
同社のような中小企業の強みとして、少人数での手作業であることを活かし、細かい調整が利くことや、対応のスピード感が挙げられる。機械を使って安く大量生産している大手企業に、同じように対抗したのでは到底敵わない。大手企業にはできない細かい対応、大手企業が手をつけないニッチな需要に活路を見出すことが重要なのだ。
■本社ビルも新築予定、三代目の下で更なる飛躍を図る
同社工場の全景。本社ビルを新築する予定もあるという。
文系だった同氏は、昨年社長職を譲った息子に「会社を継ぐなら技術を学べ」と教えたという。自らの社長経験の中で、同社のようなメーカーの社長を務めるには、ある程度は技術の知識を持っていなければいけないと感じたからだという。その上で、「経営は自分の裁量で、良いと思ったことをやればいいと言っています」と語る。実は、現社長は一度同氏の下を離れたことがあり、同社を継ぐ決心を固めて戻ってきたとき、勉強させるためにクライアントの会社に3年間預けた経緯がある。このクライアントは同氏が若いときから付き合いがあり、こうした昔からの人脈はそれぞれが役職者となった現在までお互いに助け合う関係が続いているのだという。人と人との長きにわたる信頼関係は、中小企業の何よりの武器だ。
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三代目社長は現在44歳。「信念があったからやってこられた。いいときばっかりじゃないから。いま考えるといい人生だと思っています」と語る78歳の同氏もまだまだ健在な上、本社ビルを新築する予定もある。働き盛りの三代目をトップに、同社の今後の発展が楽しみだ。
◉二和電気株式会社
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