株式会社MUGENSHA – インテリアデザインから〝無限〟に広がるビジネスを。
株式会社MUGENSHA – インテリアデザインから〝無限〟に広がるビジネスを。
◆取材:綿抜幹夫 /文:渡辺友樹
IT業界からの転身、「人」の パイプが繋いだ職人人生
東京都荒川区の株式会社MUGENSHAは、専門化が一般的なインテリアデザイン業界にあって、店舗、オフィス、住宅のリフォームなど、幅広く手がけることが特徴だ。インテリアデザインの枠に留まらず、コンサルティングや出店プロデュースまで、「建築はコンテンツのひとつ」と無限のビジネスを展開する上田一成社長に聞いた。
■最初の就職はシステムエンジニア
同氏はもともと、IT関係の専門学校を卒業後、大手電機メーカーの子会社に就職し、システムエンジニアとして働いていた。出向先の企業を転々としては、ひたすらプログラムのバグをチェックして取り除く日々を送っていたという。志していた職業ではあったが、「自分には分野が合わないなと。やりがいを見出せず、これは無理かなと感じていました」と、大きな会社の歯車として働く自分への疑問を募らせた同氏は、2年弱ほどで職を辞することになる。
退職時は職種まで変えるつもりはなく、町の小さな会社でPC関係を担当するような転職先をイメージしていたというが、具体的に転職活動にとりかかろうとする矢先、以前にアルバイトをしていた飲食店の店長から連絡が入る。
「店長はもう飲食店をやめていて、水道工事の会社に勤めていたのですが、人手が足りないからバイトで来てくれないかと頼まれました。新築のビルの現場で半年ぐらいだからということで、行ったんです」と、全く想定していなかった設備屋の仕事を手伝うことになった。システムエンジニアとは正反対と言っていい職業だ。
■配管職人に転身、厳しい親方の下で
転職までの繋ぎのつもりで手伝った配管工の仕事だったが、「これが楽しかった」と語る同氏。給料も、サラリーマンだったそれまでとは違い、1日いくらという職人の世界だ。「やればやっただけもらえる」ことは新鮮だったという。やがてそこの親方から「一人前の職人になってみないか」と誘われた同氏は、二つ返事で正式に職人に転身する。
やりがいを感じる仕事に巡り合った同氏だったが、2年ほど経つころにその会社が倒産してしまう。幸い、工事プラント関係の仕事を通じて知り合った同業の会社から声がかかる。同じ水道の仕事だったが、はじめの会社は衛生設備や給排水など暮らしに直結する設備、二社目はスプリンクラーなどの消火設備を扱っていたという。
ここの親方(社長)が腕利きの職人だった。前職までは温かく育てられ、手取り足取り教えられていたという同氏だが、この親方は典型的な職人肌。「『お前は仕事があまりにも遅い、もっとスピードを上げないと全然使い物にならない』と、とにかく厳しかった」と振り返る。当時20代前半だった同氏は、「いくらやっても追いつかない、向いてないのかな」と悩むようになり、ついに飛び出してしまう。「どんなに頑張っても親方の望むようにはできませんと言ったら、そんなら辞めちまえって言われて。じゃあ辞めますと言って辞めました」という喧嘩別れのような形だった。
親方の下を飛び出したとはいえ、設備の仕事自体には愛着があった同氏。このときも、知り合いの縁を頼って同業の会社に入る。すると、自分はそこにいる同年代の職人たちよりも遥かに仕事ができることに気が付いたという。
「みんなから『お前すごいね』って言われて。そのとき初めて、親方が厳しかったのは仕事ができるように育ててくれていたからだと分かりました。目指していたのが親方だったから、全然追いつけないのは当たり前だったんです」
実は親方は同氏に目をかけており、育てたい気持ちからの厳しさだったと人づてに知ったのは、ずっと後のことだった。
■またもや勤務先が倒産、多額の借金を抱える
自分でも気付かぬうちに職人としての腕を身に付けていた同氏。新たに入った会社では複数の現場を任されるようになり、責任感も芽生えた。
「先輩たちが独立していくのを見ながら、自分もいつか独立する日が来るのかなと思いつつ、でもあまり独立したいという気持ちはなくて。職長や班長として職人を取りまとめながら、自分で現場も叩いていく、そんな立場がいいなと思っていました」
しかし、ここでまたもや、倒産の憂き目に遭う。
「ある日、いつも通り出勤したら、会社がなくなっていたんです。債権者しかいなくて、社長はどこ行ったって聞かれました」
突然の出来事だった。さらに悪いことに、借金も背負ってしまう。経営が厳しいことは同氏も知らされており、およそ300万円という作業車のローンをはじめ、材料や消耗品なども同氏が肩代わりしていたのだ。合わせて5〜600万円という額の借金に、給料の未払いも溜まっていた。「気付いたら借金だらけでした」と語る同氏、26歳のときのことだ。
■自己破産寸前から個人事業主として再起
「ガテン系の求人誌を見たりもしましたが、毎月数十万なんてお金、普通に就職して給料をもらっても、とても稼げない。もう自己破産するしかないと思いました」と語る同氏。両親には、ITの道から逸れたことは伝えていなかったという。追い詰められた同氏を救ったのは、倒産した勤務先に仕事を発注していた元請けの会社だった。
「君のところにお願いしていた現場が途中なのに、会社が潰れて困っていると。うちとしてもこれはまずいってことになってるから、上田君なら社長がいなくても分かるだろうから仕切ってやってくれと連絡がありました」
借金の元である作業車や工具は、自分のローンだったため手元にあった。職人や材料は先方に手配してもらい、途中だった2~3件の現場を無事に終了させることができた。仕事をもらえたことはもちろん、現場を全うできたことにも胸を撫で下ろしていると、そこの会社の課長や部長から今後について尋ねられる。
「このまま独立して自分でやっちゃえよと、仕事はこっちから支給するからと言ってもらえたんです」
■MUGENSHA(夢幻社)設立
施工事例/焼肉ダイニング(洗足)
こんな経緯で、個人事業主として屋号を構え、その会社から仕事を回してもらいつつ、少しずつ他社からの仕事も請けるようになった同氏。同じように一人で動いている職人と組んで仕事をしていくわけだが、立場の弱いそうした職人たちは、賃金の支払いが遅れたり、後回しにされたりという扱いを受けがちだ。手を差し伸べてくれた会社からの支払いは問題なかったが、外の仕事でそうしたケースが多かったことから、その状況を脱するべく、同氏自ら営業を行うようになる。はじめは、ツテのできた管理会社に足を運び、古いパイプを交換する仕事を請け始めた。そのうち、パイプを交換した物件の壁などの内装を、同氏が親しい大工に手配するようになる。
こうして仕事の幅が広がっていったが、個人事業主に対しては発注しにくい企業も多いことから、法人化を決意。同氏のそれまでの歩みのように、「色々なところに無限の可能性がある」という想いから「無限」を社名にすることに決め、既存の法人名を避けて最終的に「夢幻社」と名付け、ロゴは無限を表す「∞」の記号をアレンジした。こうして、平成9年(1997年)、有限会社夢幻社を設立、その後平成12年(2000年)に、現在の株式会社MUGENSHAに組織変更し、現在に至っている。
■間口を広く、何でもやる
同氏の職人としてのキャリアは設備屋と呼ばれる水道関係から始まったが、そこから波及して管理会社にリフォームを依頼され、さらにその管理会社の親会社である不動産会社からマンションのモデルルームの仕事を請けるようになる。すると、デザイナーズマンションを手がけるデザイナーから店舗の内装が舞い込んでくる……というように、手がける仕事の幅広さが同社の特徴だ。
通常、このように手広く扱うのはゼネコンなどの大手に限られ、中小企業では珍しい。小さい会社であればなおさら専門化する傾向にあり、店舗は店舗でも飲食店のみ、物販のみ、と細分化されている業界だ。
「間口を広く取ることが、生き延びていく術だと思っています。オフィスであれ、店舗であれ、住宅のリフォームであれ、様々な仕事ができることが当社の強み」と語る同氏。こんな風に幅広い仕事を扱うようになったのも、価格や品質も含めて信頼を勝ち取り、紹介によって伸びてきたからだ。これまでご紹介したストーリーからも分かるように、同氏自身が、幾度の危機を「人の縁」によってくぐり抜けている。仕事の腕前は言うまでもないが、周囲から信頼され愛される人柄もまた、同氏の大きな武器なのだ。
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今後は、建築を手持ちのコンテンツと捉え、他分野・他業種との連携を積極的に進めたいと語る同氏。目下構想中のコラボのアイデアも、「パパ友」同士の縁から生まれたという。縁や人脈を引き寄せる力は天性のものだ。設立18年、無限の発想から広がる同社の今後が楽しみだ。
施工事例の一部。チェーン展開のCAFE&BAR(左:目黒区)と、高級鉄板料理屋(右2枚:目黒区)。専門化が一般的なインテリアデザイン業界において、こうした店舗だけでなく、オフィスや住宅のリフォームなど幅広く手がけることが同社の特徴だ。
◉株式会社MUGENSHA
〒116-0011東京都荒川区西尾久7-58-14
TEL 03-3800-5170
http://www.mugensha.co.jp/