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近藤宣之氏(株式会社日本レーザー)インタビュー【第2回】『中小企業によくある理不尽な圧力・親会社からの独立物語』

◆取材・文:渡辺友樹 オビ インタビュー

日本レーザー株式会社 近藤宣之氏 (3)

「日本でいちばん大切にしたい会社」大賞・中小企業庁長官賞、「勇気ある経営」大賞受賞の日本レーザー近藤宣之氏・特別インタビュー!

前号より始まった日本レーザー、近藤宣之氏の特別インタビュー第2弾。日本レーザーは、親会社の日本電子から、経営者と従業員が参加する会社買収MEBO(Management Employee Buyout、)で独立する。そこに至る過程には、大手の下請けや子会社をしている中小企業によくある理不尽な圧力があった……。 

正しかった損 2:親会社の取締役を辞任 

▶第1回グローバル時代の経営者の条件とは
(前号のあらすじ)経営者が下した選択が、正しいか否かは時間を経なければ分からない。その場では自分に損な意思決定の方が、結果的には正しい判断である場合が得てして多いもの。その損か得かということについて、近藤氏が体験談としてよくお話しする三つのエピソードの二つめ…

日本レーザー株式会社 (4)

近藤:二つめは、就任して1年経ったときです。それまでずっと赤字だったのに、私が来たら1年で黒字になった。すると、近藤さん運がいいよね、就任1年目で黒字になって、何年かしたら本社に戻るんだろうねと言う社員の声が耳に入ってきた。

こう言われるのも仕方ないんです。というのは、僕は50歳になったところで来ましたから、数年で戻っても50代前半ですよ。社員からしたら、近藤のキャリアアップのためにぎゅうぎゅう締め付けられて、数年で戻って行って本社の社長になるんだろうと。僕からしてみれば、路頭に迷うところを本社の資金を持って再建にきたわけですから、厳しくやりましたよ。毎朝社員に、今日はお前何をするんだと聞いて、行動を管理。また出金伝票は全てチェックしました。それまではみんなのほほんとやっていて、実際には中堅社員が頑張っていた。

だから僕に反発した役員や中堅社員が、自分が社長になる目はないなと、フランスやドイツ、イスラエルといった海外のパートナーと組んで出て行って、それで商権も失った。残った社員からはさっきみたいなうわさ話をされている。これは僕が本社役員兼務でやっているから、そういう目でみられるし、社員のモチベーションもロイヤリティも上がらないんだと思ったんです。

 

でどうしたかというと、1995年6月の総会を以て日本電子の取締役を退任したんです。というのも、まだ若いから本社の常務になれるわけじゃないし、そんなうわさ話をされているようでは、本気で再建に取り組まないと難しいと思ったんです。いざというときに戻る場所があっては、社員はついてこない。だから背水の陣を敷いて、日本レーザーの社長に専念しようと。

まあ、そうは言っても、辞めた後も戻れないわけではないだろうと。いずれにせよ、誰も再建できないところを再建すれば実績にもなる。再建できなければ、近藤あいつは何だということになる。子会社を再建できないやつが本社の経営者になれるワケがないですからね(笑い)。

 

その時点では未来のことよりも、「今・ここ・自分」でどうするかという判断でした。4月の新年度訓示で、社員たちに6月の総会で辞め、日本レーザーの社長にと専念すると伝えたわけです。同時に、辞めていく人はしょうがないけれども、人は絶対に切らない。ついてくる限り雇用は守るし、必ず再建できると、訴えました。

これは損な判断ですよね。本社の取締役を辞めなくてもいいわけですよ。取締役にしがみつくこともできた。そういう意味では損な判断をした。

 

ところが、そういう損な判断をしたら運が良くなってきたんです。円安だったのに、急に円高が進んだ1995年4月に79円75銭の「超円高」。これは輸入商社にとっては追い風で、2,3割良くなりましたよ。日米の協調介入で、11月前に100円に戻ったんですが、それでもかなりの円高です。加えて2億円の自社ブランドシステムが売り上げられ、2年目に大幅な利益により、累積赤字を一掃して復配が可能になったのです。

要は、親会社におけるキャリアアップを放棄して、中小企業である日本レーザーの社長に専念するという選択は、表向き自分にとっては損な選択だったけれども、それをしたことで運が良くなったということです。いま振り返ってみたら正しいことというのは、そのときの自分にとって損なことだったと。でも当時はそうは思っていない。再建して日本電子に戻ろうと本気で思っていた。再建すれば戻れると(笑い)。

 

日本レーザー株式会社 (6)

塩入:近藤さんが日本電子の役員をお辞めになって退路を断ったとき、社員の方々の反応はどうだったのでしょうか?

 

近藤:それはすごかったですよ。みんなびっくりしちゃった。飲み屋での愚痴が近藤さんに聞かれていたのかと。それからみんな一生懸命になっちゃった。みんなのモチベーションが上がった。社長の意思決定が社内を変えていったんです。まさに企業は経営者によって作られるということですよ。そういう意味では1年目に自腹で株を買ったとき以上にインパクトがありました。

そもそも僕が社長として来たときに、ロートルが来ると思っていたら一番若いやつが来たというので、その時点でみんなびっくりした。でその若いやつがガンガンやって、そして利益が出てきた。そうしたらさっきのような愚痴がでてきた。すると今度はここに骨を埋めるつもりだと言ったんだから、それはインパクトがありましたね。

 

塩入:社員の方々との交流というのは、それ以前から行われていたのですよね?

 

近藤:それは当然ですよ。一緒に飲んだりね。日本電子でも28歳から11年間、労働組合執行委員長をやっていましたからね。コミュニケーションを深め、モチベーションを高め、リーダーシップを確立するのは、組織活性化の条件です。

 

筒井:表面的なエピソードは美談になりやすいですが、私はその前の種まきの部分こそが近藤さんの真骨頂だと思うんですよ。

 

近藤:そうですね。そういう細かい積み上げなんですよね。

 

正しかった損 3:MEBOによる独立 

近藤:三つめのエピソードは、2007年にMEBO(マネジメント・アンド・エンプロイー・バイアウト、経営陣と従業員が一体となって行うM&A)で独立をしたときの話です。

 

これには経緯があるのです。僕が来て、会社の業績が良くなって黒字経営が定着。すると、本社が配当を増やせと言ってきた。3割から5割へ増配と親会社は大儲けですよ。場合によっては10億20億というお金を失って破綻処理をしなければならなかったところが、逆に、配当金だけでも1億円近く回収できたのですから。一方、生え抜きの幹部の昇進や役員登用には非常に厚い壁があった。ビジネスに関しても、為替予約でも常務会承認事項だと待たされて、それでうまくいかない。僕がいる限り赤字にはならないけど、独立への伏線は出て来ましたね

 

そういう状況があって、今度は2003年度に、過去最高の1億4千万円近い利益を出して、同時にこれも過去最高の5割を配当した。そのときに社員が、これだけ頑張って利益も出したんだから、再建する間10年間行っていなかった社員旅行を復活して欲しいと。中小企業だから本来は毎年社員旅行があって、大企業と違って会社がお金を負担するもの。それでは、どこに行きたいか聞くと、沖縄に行きたいと言うので、よし行くかと。親会社の関係会社担当役員常務も、これだけ利益出して、10年間我慢してやってきたんだからそれはいいじゃないかと言ってくれた。

それで堂々と行ったわけです。ところが、帰ってくるとその常務が真っ青になっている。社長がカンカンだと言うんです。沖縄への社員旅行など親会社だったらありえない、お前が許可したのかと常務も怒られて、とにかく怒り狂って収まらないから本社の社長に対して始末書を書いてくれと。販売の子会社だから国内の営業担当常務の下に入っていたのでその常務からも、さらに私を送り出した人事担当の専務もと、みんなが僕のところに来て、社長が収まらないから始末書を書いてくれと言う。

四面楚歌で書かざるを得ない。何と書いたかと言うとね、親会社は福利厚生の面ではるかに恵まれているんだと。たとえば工場に行けば800人も入るような大食堂があって、タダみたいにメシが食える。それから営業所勤務は工場の食堂が使えない分だけ第二手当といって昼食の弁当手当が付いている。うちにはそんなものありませんからね。それから工場には診療所があって、そこに行くと個人負担3割がゼロで良くて、その分人事部の予算が出る。一銭もかからない。ちょっと調子が悪ければ診療所に行けば良い。そんなことウチじゃできません。そういう格段の差があるから、せめて社員旅行ぐらいは全額会社負担でやるんだと。沖縄旅行は確かにお金がかかりましたが、我慢してきた10年分だと思えば安いもんだと。けれども、担当役員の許可を得てやったこととはいえ、社長のお怒りを買ったことは誠に申し訳ないからお詫びいたします、と。(笑い)。

全社会議を開いて、沖縄に行って楽しかったけど、本社は怒ってると。始末書を書かされたと。社長としての評価も下がっていると。それは私の個人的なことだからいいけど、みなさんのためにも、こういうことになって残念だとこういう話をした。そうすると社員の中にも、独立しようという気運が出てくる。

 

社員旅行の一件は決定的でしたが、ほかにも色々とあった。僕が来る前の1989年に、日本レーザーが1200万円、日本電子が1800万円を出資して、資本金3000万円の日本電子ライオソニック株式会社というレーザー顕微鏡の会社を作ったんです。なぜ作ったかというと、国内に自分たちのメーカーを作って、そこから調達すれば、海外からの輸入だけじゃなくなるから、仕入先が安定するだろうと。ところが、できあがったレーザー顕微鏡が成功したら、結局全て日本電子ブランドということで、日本電子の営業で売るということになってしまった。うちは一銭も売れない。出資したのにバカみたいな話ですよ。

で、そのうちに調子が悪くなって、赤字になって、最終的には2003年にこの会社を畳まなければならなくなった。1200万円も出したのに取締役会に出させてくれない。ウチは金だけ出して、日本電子だけで経営して、赤字にして、畳むことになった。じゃあ分かりましたと、出資した1200万円を返してくれと言ったら、一部の人はそれは返さないと筋が通らないと言ってくれた。ところが株主代表訴訟をチラつかされたのか、本社の連中が返さないと言ってきた。破綻した会社の株を、株主に出資金だけ返すと、利益供与とみなされると。日本電子が日本レーザーに対してそんなことをするのは、日本電子にとっての損害行為であって、株主から訴えられたときに説明がつかないと。

でもね、何十億という大きな会社がね、しかもその子会社にね、1200万円出資させて経営に参加させず、自分たちだけで経営して破綻させたんだから、株主代表訴訟なんて恐れることないって言ったんです。でも結局ダメで、返してはくれなかった。

 

筒井:でも、そういう理不尽なことって、大手の下請けや子会社をしている中小企業には沢山あるじゃないですか。

 

近藤:あるんです。その理不尽なことが起こったときに、独立する中小企業と、泣き寝入りする中小企業がある。我々はそこで独立することにしたんですよ。社員も賛成してついてきてくれた。独立するときに、社員全員が株主になれる仕組みをつくり、パート社員も嘱託雇用契約社員になれば出資できるようにしました。もともとモチベーションが高かったのですが、加えて子会社のままでは将来がないという気持ちから、全員が出資したと思います。(次号に続く)

(次号)さて、じゃあどうやって独立するかということになった。まずはIPO(株式の新規公開)をかければ、親会社も子会社もなくなるから自由になるのではないかと考えた。しかし、IPOをすれば、人を見た経営は難しくなり、どうしてもお金(市場)を見た経営にならざるを得ないと思ってやめました。……

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近藤宣之氏(こんどう・のぶゆき)…1944年東京生まれ。1968年、慶応義塾大学工学部電気工学科を卒業後、日本電子株式会社に入社。電子顕微鏡部門応用研究室に勤務。全国金属労働組合同盟、日本電子労働組合執行委員長に就任。1983年まで同職を務めた後、総合企画室次長、アメリカ法人支配人、取締役営業副担当などを経て、1994年、株式会社日本レーザー代表取締役社長に就任、現在に至る。2007年に役員・社員の持株会などから構成されるJLCホールディングスを設立し、MEBOを実施。日本電子からの独立を果たす。同社は第1回「日本でいちばん大切にしたい会社」大賞・中小企業庁長官賞を受賞(2011年5月)。また東京商工会議所第10回「勇気ある経営」大賞・大賞を受賞している(2012年10月)。

2013年3月:経済産業省「ダイバーシティ経営企業100選」全国43社に入選、受賞。

2013年4月:経済産業省「おもてなし経営企業選」全国50社に入選、受賞。

2014年1月:平成25年度東京都ワークライフバランス企業認定(多様な勤務形態導入部門)。

2014年3月:経済産業省「がんばる中小企業300社」に入選、受賞。

 

株式会社日本レーザー

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日本レーザー|レーザと光の専門商社。光源、計測機器から加工装置まで

創光技術事務所インタビュアー

筒井潔(つつい・きよし)…経営&公共政策コンサルタント。慶應義塾大学理工学部電気工学科博士課程修了。外資系企業、ベンチャー企業、知財関連企業勤務を経て、合同会社創光技術事務所所長。

塩入千春(しおいり ちはる)…創光技術事務所シニア・アナリスト。理学博士。京都大学理学部卒。京都大学理学研究科修士課程修了。総合研究大学院大学博士課程修了。理化学研究所研究員等を歴任。

合同会社創光技術事務所

〒150-0046 東京都渋谷区松濤1-28-8 ロハス松濤2F

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2015年1月号の記事より
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