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日本中の小学生を虜にした甲虫王者ムシキングの震源地は酒田に!

エス・エー・エス株式会社に聞く、中小ゲームメーカーが生き残るためにすべきこと

◆取材:綿抜幹夫/文:小川心一

 

カブト虫

もはや子供のみならず、大人の娯楽としてもすっかり定着したビデオゲーム。古くは『スペースインベーダー』や『ファミリーコンピュータ』のブームがあり、現在ではスマートフォンに主戦場を移して進化を続けている。山形の地にも、そのゲームの世界で一大旋風を巻き起こしてきた会社があるのだ。果たしてそこは梁山泊か……。

 

ゲーム夜明け前はハード屋稼業

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エス・エー・エス株式会社は東京都台東区にあるシステム開発を手掛ける会社。そしてその子会社である酒田エス・エー・エス株式会社は、その名の通り山形県酒田市を拠点としている。こちらでは主にアミューズメント系のソフト開発を中心に行っているそうだ。

エス・エー・エス株式会社 (2)

両社の社長を務める渡部宏一氏は、もともとハードウェアの技術者として設計・開発業務に従事し28歳の時に独立して会社をたちあげたという。

時は高度成長の真っ只中。船出にはふさわしいタイミングだったのだろう。

「どうしても自分の力を試してみたくて。思い立ったらやらずにはいられない性分なんでしょうね。不安がないと言えばうそになりますが、案外楽観視していました。というのも工業高校時代の同級生が皆、京浜地区の大手メーカーで働いていたので、その人脈を頼れば何とかなると」

 

そして本当に何とかなってしまった。いや今日まで続く会社の礎を作ったのだから、正しい判断、タイミングのいい決断だったのは間違いないだろう。

「特注の測定器なんかを作って納めていましてね。幸い一度つながりができれば、またご指名で仕事をいただくことができたんですよ」

 

基盤

 

それは現在のようなパーソナルコンピュータのない時代。電子回路の設計などで大変重宝がられて会社は少しずつ大きくなっていった。

 

「今ではソフト開発が多いですが、昔はハード開発が中心でした。もっともその頃はソフトとハードは別会社でやっていたのですが、これからはハードとソフトが一体になってモノづくりをする時代だと一緒になったのが、現在のエス・エー・エスというわけです。ソフトのシステムテクノロジー株式会社とハードのシグマ電子株式会社の両社のアルファベット頭文字をとって、SアンドSが社名の由来です

 

もともと二つの会社とも東京にあったのだが、ソフト会社の社長が酒田市の出身だった。

「時はバブル経済の前、中小企業のソフト会社が東京でもまだ多くはなかったコンピュータ開発の人材を採用するのは難しかったんです。それなら酒田で人材を育てようと思い採用したら優秀な人が集まってくれました。それならいっそ酒田に拠点を置こうと昭和60年に会社を作りました」

 

今に続くゲーム開発は酒田から始まった。大都市圏では雨後の筍のように乱立したゲームソフト会社だが、東北のそれも山形ともなればたぶんまだ珍しかったのだろう。地元のゲーム好きには垂涎の会社となったに違いない。そんな夢の会社に、梅木元博取締役部長は入社して、今日まで開発一筋だ。

 

エス・エー・エス株式会社 (1)

「会社としては600もの案件を開発して来たと思います。難しそうな案件でもお客さんにはすぐに出来ないとは言わずに、まずチャレンジしてみるのが社風でしたね」

 

バブル崩壊後は、どんな大企業も外注を控えて内製化に力を入れた。出費を抑え、社員を遊ばせないための当然の措置だ。エス・エー・エスは電話やファックスなど通信機器の開発をやってきたが、ばったり仕事がなくなってしまった。そこで産業用ソフトに代わってゲームソフト開発を本格的に始めたのがきっかけだった。

ファミコン

時はファミコンの全盛期。今と違ってミリオンセラーも数多く輩出された、まさにゲーム黄金時代と言っても過言ではない。ちなみに、酒田エス・エー・エスができた昭和60年は、世界的大ヒットとなり、今日にいたるも続編が作られているあの『スーパーマリオブラザーズ』が発売された年でもあった。

 

「ゲームメーカーからの受諾案件としてゲームソフトを取り扱ってきました。大がかりな業務用ソフトなどは現地に赴いて開発やテストを行わないといけませんが、ゲームソフトなら社内で開発から納品まで可能で設備投資もさほどかかりません。だからこそ大消費地との距離があってもハンデにならなかった。むしろ、固定費を軽減できる分、地方のほうが有利だったかもしれませんね」

事実、ゲームメーカーは全国各地に点在していた。どこも地方のハンデとは無縁だった。

 

数々のヒットゲームを担当する開発会社に!

ゲームをする子供

親会社エス・エー・エスの設立当初は、まだファミコンの発売前。いわばゲーム紀元前という時期だった。それが昭和58年を境に劇的な変化を遂げている。

 

「やっぱりファミコンの大ヒットがこの業界には革命的でしたね。わが社もゲームソフトを始めて約30年。ファミコンソフトから始めたわけですが、今や会社の大きな柱になっています」

 

制作を開始した当初は、まだソフト開発と言っても、一般にはなかなか理解されない時代だったが、東京から遠い酒田の地でも、全国に発売されるコンテンツを制作できることには非常にワクワクしたそうだ。その後も大手メーカーの開発を担当し、200以上のコンテンツ開発に関わってきた。その中には社会現象にまでなったおばけソフト『甲虫王者ムシキング』や『オシャレ魔女ラブandベリー』も含まれている。

 

今から約10年前の小学生で『ムシキング』や『ラブベリ』を知らない子はいなかった。ゲームのみならず、様々なジャンルで展開されたこの2大タイトルはエス・エー・エスとしてもエポックとなったに違いない。

だが、どんな時代にも進化や変化の波は必ずやって来る。ゲーム業界もまた転換期を迎えているのだ。

 

「これまで、いいお客様といい仕事が出来たことは、あるいは幸運だったのかもしれません。しかしこれからが、さらに会社を飛躍させられるかの試金石です。ゲーム機のハードウェアはますます高スペック化してソフトのグラフィック品質の要求も上がり、リアルな物理演算も処理が出来るようになりました。ゲームによっては映画制作するようなスタッフで開発する場合もあり、ハリウッド化しているとも言えるかもしれません。大メーカーでは大作を制作して世界に向けて販売していくことが大きな戦略でもあります。

でもこれは冒険が難しく勢いヒット作の続編が幅を利かせるともいえます。今や世界で売れるゲームを開発するために、大きな投資でリスクをとってまで積極的なのは、大手の海外メーカーなのかもしれません」

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そして、日本市場でもスマートフォンの普及があらゆる娯楽のパイを食い荒らしている。自動車やタバコ離れもスマホが遠因という考え方もなされる昨今、最大の被害者はゲーム機ハードメーカーとも言われている。

 

「ですが、日本には数々のソフト開発で得た積み重ねのノウハウや、世界に誇れる発想力がある。そこでうちのような中小の開発会社が生き残るためには、どうすればいいのか。まず中小の会社でも大手に負けない長所は必ず持っているはずです。一社では無理でも各社の強みを持ち寄り連合すれば、まだまだ世界で競争力のある製品を生み出すことが出来るのではないかと。大手が手を出せないようなポジショニングで素早く勝負する。今もそういうところにチャンスがあるはずなんです。

今や物を作る技術ならどこの国でも持っています。肝心なのは、これを開発したら人々に喜んでもらえるという信念を持って怖がらずに行動すること。海外の安い人件費や巨大な労働力といったものと正面切って対決する必要はないんです。むしろそれを受け入れて利用する側に回るべきかと。うちでもすでにアジアやヨーロッパの会社の協力を得ながら新ビジネスを模索しています」

 

実際、エス・エー・エスではプログラム開発だけの仕事ではなく、プランナーやデザイナーを揃え、ゲームを自社で企画して納品ができる体制を整え、SASブランドの開発も可能なほどに力を付けている。すでに自社で企画して開発したタイトルがヒットしているのだ。

 

「これからも会社のコアコンピタンスである技術力をさらに高めて、お客様に喜んでいただける開発ができる企業であり続けたい。受諾中心の体制から、新しい製品の提案ができる企業へ変貌中です。おかげさまで、発信型の会社という認知をメーカーさんからも受けつつありますね」

 

混沌としているゲーム業界だが、この世界、宝の山は必ずどこかに隠れている。最近で言えば、ガンホーの躍進などはその典型だろう。では、エス・エー・エスは何を目指して進んで行くのだろうか。

 

「我が社はゲームに限定してモノづくりをしているわけではありません。広くエンターテインメントの仕事をしているという気概で製品作りに取り組んでいます。歴史学者ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』で遊戯が人間活動の本質だというように、人々に楽しみを提供するという考え方はこれからも変わらない。

時代の流れや変化には柔軟に対応して地に足を付けながらモノづくりを続けていきたい。さらに産業用ソフトにもゲーム開発で培ったわかりやすいユーザーインターフェースや操作画面を応用できる新たな可能性もあるのではないかと。また酒田ならではの事業として、地元の産業と密接に結び付いた企業とコラボをしながら新しいビジネスも模索したい。

他にも『教育分野』や『癒し』、あるいは『リハビリ』のように世の中に役立つ製品づくりにも興味があります。行く道は無限に広がっています」

 

ここに34年もの長きに渡ってエス・エー・エスの存続ができた理由の一端を垣間見た気がする。

変化するニーズに的確に対応し、どんなお客様のオーダーに対しても応えていけるだけの技術力や企画力を日々磨いてきた企業姿勢は、この『水もの』の世界を必ずや泳ぎ切っていくことだろう。そしてまた、時代のメガヒットを生み出すに違いない。

 

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プロフィール

渡部宏一(わたべ・こういち)氏…昭和17年神奈川県生まれ。県立神奈川工業高校電子工業科卒業、大手メーカーに就職。2年後に退職、その後東京都都立大学に入学するも2年で中退。再び就職したが、28歳の時に独立起業する。昭和46年シグマ電子株式会社設立。昭和57年株式会社システムテクノロジーを母体としてエス・エー・エス株式会社に改組。

 

梅木元博(うめき・もとひろ)氏…酒田エス・エー・エス株式会社に入社後、開発畑一筋で多くの開発に従事しながらソフト開発部隊をまとめている。現在取締役部長。

 

エス・エー・エス株式会社

東京都台東区台東1-1-14 ANTEX24ビル 2F

℡:(03) 3836-0655

http://www.sas-tokyo.co.jp/index.html

酒田エス・エー・エス株式会社

山形県酒田市あきほ町654番地1号

℡:0234-23-1750

http://www.sas-sakata.co.jp/index.html

 

2014年4月号の記事より
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