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地獄からの生還

その果てに得た人生観!海産工房本間水産株式会社

◆取材:加藤 俊 / 文:渡辺 友樹

 

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海産工房本間水産株式会社 代表取締役 本間 直弘氏

「地獄から這い上がってきた」こう述懐する経営者は少なくない。この男もそうだった。筋子の加工品、サーモンフレーク、各種コラーゲンの加工など、水産加工分野で大きな業績を上げている山形県鶴岡市加茂の海産工房本間水産株式会社。水産業では知らぬ人はないと言われる先代の跡を引き継いだ二代目・本間直弘氏である。

「あの頃は世間知らずのお坊っちゃんだった」との言葉通り、闇雲に規模を拡大した結果、想像を絶する低迷期を招くことに。当時は「夜逃げを考えた」とまで漏らすピンチに沈みかけた同社だったが、嵐を乗り越え浮上し、今日の発展へと至る帆を張ることができた。この再浮上の針路へと導く光となった人生観とは⁉そして今なお見果てぬ壮大な夢とは⁉

 

偉大だった先代。創業者の孫四郎氏について

山形 港

同社の歴史は、創業者の先代本間孫四郎氏を避けては語れない。北洋サケ・マス流し網漁業においては1952年から3年連続一位の漁獲高をあげ、マスの流し網漁法でも新技術を開発。それを公開したことにより、当時生活難に直面していた多くの漁民を救ったという。

その活躍は山形県水産業に留まらず日本海全域に及び、千葉県銚子港では機船底定置網を開発したほか、小笠原近海や相模湾では深海未利用資源や深海漁場を研究・開発するなど、我が国全体の水産業の発展に大きく寄与している。その功績が認められ、山形県水産試験場には胸像が置かれているほどだ。

まさに「山形水産業のドン」とでも呼ぶべき人物だったそうで、そのドンの下、同社は飛ぶ鳥を落とす勢いで業績を拡大させていった。

 

しかし父である孫四郎氏亡き後、直弘氏が後継者となると、数年で状況は一変。同社は深刻な経営危機を迎えてしまう。

「自分のすることはすべてうまくいくと信じて事業の手を広げたのですが、結果として一生かかっても返せない額の借金を抱えてしまいました。すべて自分の手柄、自分が偉いと思い上がっていたんです」(本間直弘氏 以下同)

 

 

運命を変えた食品加工への転換

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その負債は、「逃げてくれた方がありがたい」とすら言われる額だったという。「夜逃げを考えましたよ」氏はそう述懐する。

「資金繰りに窮して、従業員の給料を支払えない。もう終わりだ。何度もそう思った瞬間がありました。でも不思議なもので、毎回、何とか窮地を脱することができたんです。この人はあの孫四郎氏の跡継ぎだ。ここで助ければ、必ずや将来復活できるはず。だから助けよう。こういうご恩を受けて、支払いを乗り切ったことも少なからずありました」

こうした経験が、やがて氏の考え方を改めさせることに繋がった。「自分があるのは、すべて父をはじめご先祖様のお蔭」という世の理を深く感じるようになったのだという。そして「落ちるところまで落ちた。これからはダメもとでやってやろう」と心を入れ替えたのだそうだ。

 

ここから復活劇がはじまった。驕りや過信を捨てた氏だったが、これだけは誰よりも勝ると信じられる能力がなおひとつあった。父譲りの「魚を見る眼」、──これである。その眼をもとに新鮮な魚を選別し、品質を保ったまま閉じ込め加工する技術には自信があった。

 

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「私は父に本当に感謝しているんです。この眼があるから救われたといっても過言ではない。周りがみんな本間水産の魚の鮮度の良さを不思議がるんですが、私から言わせれば当たり前ですよ。最初からコレだという魚を選んでいるワケですから(笑い)」

 

それで業績は上向きだしたが、それだけで「逃げてくれたほうがありがたい」ほどの借金が返せるワケではない。氏は次なる決断をする。一大決心、水産以外の食品加工の世界へ進出していったのだ。結果として、これが同社にとって起死回生の舵取りとなった。

 

現在、楽天市場などのインターネット市場で売れに売れている同社製品は、だだちゃ豆加工食品を筆頭に数多くあり、またコンビニエンスストアなどで我々に普段から馴染みのある商品に、実は同社の技術が使われている例もあるという。

海産工房本間水産株式会社 本間 (7)海の赤いルビー。同社の人気商品。米どころ庄内の銘酒の粕で漬け込み、最高級の秋鮭の卵のとろけるような旨み、漂う芳醇な酒粕の香りは至高の一品。粒の一つ一つが大きく、赤くつややかなルビーのように見えるのが、商品名の由来。お土産としてもらったものを自宅で食べたが、呑兵衛の筆者にはたまらない味だった。▸注文はこちら

こうした転機を経て、現在では借金はほぼ完済している。

 

「人間80年生きたとしても、たったそれだけです。ひとりでは何もできない。ご先祖様や周りの皆様があって、はじめて今日の自分が築かれるもの。そう、何事も父やご先祖様のお陰。天が助けてくれたんです。私にとって天というのは、ご先祖様だけではなく、これまで関わってきた相手、すべての人たちの総体のこと。天に向かって唾してしまえば、それがそのまま自分の顔に返ってきてしまう。そうではなく、約束ごとを守って誠実に接していけば、窮地に至っても救いの手が差し伸べられるのです」

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氏の達した胸中。自らが招いた荒波に沈みゆく氏を救い上げたのは、他ならぬご先祖様、孫四郎氏だったという悟り。人間ひとりでは何もできない、先祖や他者によって生かされているとの気づきが呼び込んだ生還劇だったのである。

 

 

本間氏の夢。日本海は小さな池だ!

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最後に夢を訊くと氏は、日本海を巡る隣国間のいざこざに言及した。

 

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「取り合って争っていても仕方がない。日本海は小さな池だと思いましょうよ。争いなんかしないで、それこそ中国やロシア、韓国、北朝鮮など日本海を囲む国々の子どもたちを庄内に招いて、積極的に交流を持ちたいですね。この地域にある加茂水産高校で学ばせるのも良いのではないでしょうか」

 

地元である加茂地域では、他地域の例に漏れず、若者の県外流出や早期離職といった問題を抱えており、水産業について学ぶ加茂水産高校でも、こうした問題や水産業における後継者不足が深刻だ。日本海は小さな池だと語る氏の言葉は、こうした地元地域の問題解決に向けての一手であり、また近隣諸国における将来的な食糧問題の解決にも繋がると希望は膨らむ。

争っているときではない、むしろ子どもたちを招いて一緒に学ばせようというスケールの大きさに、同社や氏が再起を遂げた真髄を見た気がした。それは孫四郎氏はじめ先祖代々受け継がれてきた「血」なのではないだろうか。更に言うならば、このスケールの大きさが「海の男の血」であるのかも知れない。

 

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海産工房本間水産株式会社 本間 (3)

本間 直弘氏……1946年2月28日年山形県生まれ。日本大学卒業。父である初代社長・本間孫四郎氏の逝去を受け、本間水産株式会社の四代目社長となる。2006年に社名を海産工房本間水産株式会社に改名。2011年に鶴岡市商工会議所主催の品評会に於いて同社の筋子加工物が大賞を受賞。だだちゃ豆の加工、コラーゲン加工、水素水など数十種類の商品の取扱・研究を行い現在に至る。

 

海産工房本間水産株式会社

山形県鶴岡市加茂190-1

TEL 0235-33-3344

FAX 0235-33-1435

http://www.kkhs.net/

 

2014年2.3月合併号の記事より
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