株式会社ひびき ‐ 狙うは寿司天麩羅越え。 埼玉からやきとりの社会的地位向上を目指す
狙うは寿司天麩羅越え。
株式会社ひびき 埼玉からやきとりの社会的地位向上を目指す!
◆取材:加藤俊
2005年11月、全国から「わが街こそやきとり一番」と名乗っている6つの都市が集まり、「第1回全国やきとりサミット」が開催され、各都市が連携して、やきとりという食文化を全国に発信することの重要性を確認した。これを受けて、翌年1月1日には「全国やきとり連絡協議会(全や連)」が発足。現在は7つの都市がメンバーとなり、やきとり文化を全国にPRするなど、さまざまな情報発信活動を行っている。
この全や連の中心人物、日疋好春(ひびき・よしはる)氏は、今、飲食業で最も注目される存在だ。
だが、人の人生は、外見からではわからないもの。埼玉の東松山名物の「みそだれやきとり」を加工・販売するひびき(本社・埼玉県川越市)の代表取締役社長で、全国やきとり連絡協議会の代表理事を務めているが、その若旦那然とした風貌からは想像できない、壮絶な人生を送ってきた。
父が7億円の負債を抱える
終戦後間もないころ、日疋氏の祖父が東松山市で養鶏養豚業を始めた。そして1970年代後半、和食職人だった父が、比較的安価な部位である豚のコメカミを使ったやきとりと、特製のピリ辛〝みそだれ〟を考案。手ごろな価格とおいしさで、ひびきの「みそだれやきとり」は地域の人たちに愛される存在となった。
直営店で販売するほか、地域の居酒屋や焼き鳥屋に商品を卸していた。しかし、85年のプラザ合意以降、ブラジルやタイ、中国から冷凍のやきとりがどんどん入ってくるようになり、事業は厳しい状況に陥っていった。
追い打ちをかけるように、89年、やきとりを卸していた店の一つが倒産。父が連帯保証人になっていたため、7億円の負債を抱えることになった。事業は事実上、廃業に追い込まれた。
左手首に保険をかけて借金
「毎日、借金取りが家に来て、嫌がらせをされました」
その当時、日疋氏は18歳、高校3年生だった。高校はなんとか卒業させてもらったものの、父に「毎月、家に100万円を入れてくれ」と頼まれた。7億円もの負債なので、金利だけでも大変な額になる。一家全員が、死に物狂いにならなければならなかった。
だが、高校を卒業したばかりの若者にとって、毎月100万円は途方もない金額だ。勤めで稼げる金額ではない。ただ、時代はバブル経済にさしかかるころ。とにかく、広告業界が景気が良さそうということで、日疋氏は、広告企画業を手掛けることにした。
「実際には、とにかく来た仕事は何でもやりました」 その努力が、大手広告会社から認められ、いろいろな仕事をもらえるようになったという。それで、20歳になったとき、現在の会社を作った。それまでは個人として仕事をしていたが、会社組織にしたほうが信用されると思ったからだ。
「でも、想像していたのとは全く違いました。会社にしたら、見積もりを持ってこい、納品書を持ってこい、請求書を持って行ってから支払いは6カ月後。お金が欲しくて仕事をしているのに、仕事をするための運転資金が必要になりました」
そんなときに、コンビニエンスストアのFCにならないかという提案があった。話を聞くと、国の融資制度を利用できるという。予備審査の結果、金融機関が「だいたい大丈夫」と言ってくれたので、話を進めることにした。しかし、本審査の結果は厳しいものだった。
申し込んだ金額の7〜8割は出ると思っていたが、ゼロだと言われた。法律上は、父の借金は一切関係ないはずが、当時の金融機関はそうは見なかった。だが、話はすでに動き出しており、何が何でもお金は掻き集めなければならなかった。
そんなときに、渡りに船。お金を貸すと言ってきた連中がいた。さんざん嫌がらせを繰り返した借金取りの連中だった。連中にしてみれば、20歳になって公的責任が生まれた日疋氏との関係をより強化しておきたいという思惑があったのだろう。
「既に契約を結んでいましたから、引けませんでした。連中がどんな輩かも痛いほどわかっていましたが、彼らしか貸してくれるところがなかった。担保なんかありません。結局、左手首に傷害保険を掛け、彼らが受取人となることでお金を借りることにしました」
しかし、それだけの覚悟をもって始めたコンビニ事業だが、7年は続いたものの、うまくはいかなかった。ほどなくして撤退、借金だけが残った。
「結局、どっちの方角にマーケットがあるか、トレンドがあるかといった視点で自分の業種や仕事を選ぶことは、自分には合わなかった。事業を撤退した時に、そう思いました。それは、大企業のやることですよ。我々中小企業のマーケットは所詮たいしたものではない。頑張れば、十分おなか一杯食べていけます。だったら、プロダクトアウトでいい。だって、世間が言うところのニッチマーケットを狙うんですから、24時間365日、会社に縛られるワケです。そうしたら、自分の好きなことでなければ事業は続けられません」
そして、この好きな事業というのが、日疋氏にとっては図らずも親の事業だったのだ。負債の原因となったやきとりにはかかわるまいと思っていた日疋氏だが、思いがけないところから縁が復活した。
やきとりとの縁が復活
92年、本川越駅ビルの物産展を企画したとき、出展者にドタキャンされてしまった。穴を埋めるため、迷っている時間はなかった。そこで思いついたのが、父の「みそだれやきとり」だった。
「牛の舌である牛タンが東北最大都市・仙台の名物になれるのなら、父の『みぞだれやきとり』も埼玉の名物になれるのではと思いました。牛タンについて調べたら、最初に誰か一人が牛タンを仙台の名物と言ったことから始まったのがわかりました。それなら私が最初の一人になろうと思ったのです」
物産展では、「本場・東松山名物」と銘打って販売。思いがけない反響を呼んだ。「やきとりがおいしかったので、商店街が場所を貸すから、土・日だけ店を出せば」という話が来て、川越でテント一張りの店を出していた。
そうすると、「なんで土・日だけなんだ。近くに店はないのか」と、お客様が言い出した。また商店街や商工会議所の応援を得て、今度は物置を改装して店を造った。これを契機に、事業をやきとりなどの食品関連に大きくシフトすることになった。
当時のことを想い返して、日疋氏は、「川越の商工会議所に拾っていただいたから、なんとかやって来れた」と言う。
「『自分達のやりたいことを言葉と数字で語れなければ、事業ではない』という教えが、川越商工会議所にはあります。数字は専門家の先生に学べば、語れるようになるものですが、何のためにこの川越の地で商いをするのかという〝言葉〟を語ることが、なかなかできませんでした」
やきとり屋を営むことの意味。なんのために。誰のために。その答えは程なくして見つかる。気づかせてくれたのも、商工会や川越の人たちだった。
「埼玉県は恵まれています。海のモノ以外は、車で一時間も走れば、ほとんどあらゆる生産者に会いに行けます。そのため、誰がどういう汗をかいて生産しているのか、日々努力をされているのかがわかるという絶対的な強みがあるんです」と語る日疋氏
「大阪の人が、たこ焼きにこだわりがあるように、人というのは、ご当地グルメや食べ物などによって、郷土愛を持てるものです。一方で、埼玉県の県民性は、埼玉県出身であることを誇りに思えない人が多い。こういった意識を変えていきたい。ひいては、農業も、工業も、商業も、すべてひとつのクラスターにして、それで、子供たちが自分たちの町を誇ることができるようにしていきたい。
そのために、自分になにができるか。こうした動きの中で、埼玉にはやきとりがあると発信していこうと。うちの会社が必要か必要じゃないかは、その一点で皆様に判断してもらえばいいと思ったんです」
日疋氏の見出した〝言葉〟は、どこまでも明瞭だ。そして、同社が業界に先駆けて、地産池消やトレーサビリティ(生産から消費されるまでの生産履歴過程の追跡)を導入していった背景も、こうした文脈上で読み解ける。
やきとりの社会的地位を上げる
全や連の焼き鳥
日本の食文化を語るとき、外国人の口からは必ず、寿司、天ぷら、やきとりが出てくる。しかし、「やきとりは、寿司や天ぷらとはやや違う」と、日疋氏は言う。
「鶏はもも肉、豚はヒレ肉といった高級部位は黙っていても売れますが、必ず人気のない部位がある。けれども、命は一つなのです。ヒレ肉だけ生産することはできない。ヒレ肉を10本欲しければ、10頭の豚を殺さないといけない。他の部位も使い切ることに、やきとり文化があり、ものを粗末にしない日本の文化を体現している料理なのです」
ただ、残念なことに、やきとりはまだ、寿司や天ぷらと同じような文化とは認められていない。文化として認められるためには、携わる人たちへの教育が重要であり、やきとりは寿司や天ぷらよりも立ち後れているからだと、日疋氏は考えている。
日疋氏は、フランスでフランス料理の学校を見学したり講演したりした経験から、「フランス料理とは何か」「料理人としてのプライドはどう持つのか」などを徹底的にたたき込んでいる学校の存在を目の当たりにし、教育機関の重要性をひしひしと感じたという。
「日本におけるやきとりという産業は、私もその一人ですが、なりたくてなったわけではないひとが少なくない。でも、それでは子供たちが継ごうと思わない。やはり、子供たちの憧れる仕事や産業にしていくことが大切。ある一定の適正利潤をきちんと出して、世の中から認めていただける職業にしていくためには、やはり教育をきちんとしなければいけないと思うのです。そして、やきとりの社会的地位を寿司や天ぷらと同じ高さにまで持って行きたい。それが全や連の事業の柱の一つです」
技術的なことだけではなく、やきとり文化の素晴らしさ、一般常識など、業界人としてだけではなく、人間としても世間に認められる人材を育成するための教育機関を、全や連では設立していくことを検討しているという。最後に日疋氏はこう言った。
「事業という字を辞書で引くと、一番目に、世の中にある問題や課題を解決するための活動と書かれています。そして、二番目に『最近は、民間企業を中心に営利活動のことを事業と言う』とあるんです。つまり、〝最近〟なんですよ。事業が、金儲けの意味合いを強くもちだしたのは。
うちは、最初から(莫大な負債で)死んでいた会社です。それを川越の商工会議所に拾っていただいて、地域の皆様に育てていただいたワケですから、この会社は私の私物ではないし、してはいけない。この先、どれだけ地域に恩返しをしていけるかです」
◆後記◆
こう言っては何だが、見た感じは不愛想でとっつきにくさのある日疋氏。淡々とした語り口からも、経営者然とした理知の深さと共に、ある種の冷たさを感じていた。それでも、話を聞くうちに、劇的なまでに痛々しい数々のエピソードの底で、もがきながらも、腐らず、ひたむきに走り続けたこの人の人間性が垣間見えた。
何より、全ての問題が解決して、過去になっているからこそ語りもしてくれたのだろうが、「正直な商い」や「地域貢献」への執着も、置かれた環境の裏返し故だと見ると、素直に感服する。こんなに持ち上げてばかりいると、読者には「また提灯記事を書きやがって」と思われかねないが、さにあらず。どこをどう切り取っても、〝事業家〟なのだ。
それだけに同社の課題を探りたくなる下卑た記者根性が擡げてくる。例えば、従業員教育。あるいは、料理が不味いなど。教育に関しては、奥の院のところはわからないが、取材中、きちんと挨拶してくる従業員の方がいた。料理に関しては、後日全や連に行ってみた。東松山のニンニクのきいた味噌ダレ焼き鳥(鳥と言いつつ豚だが……)が美味かった。食べ比べに酒もすすんだ。ただ、冷めると味の違いがよくわからない串もあるにはあった。結果、一緒に行った記者仲間とハイボールでベロベロに酔っぱらった。「また来よう!」と言って帰った。満足だった。
そう、悪いところは見つからなかった。まぁ、課題のない会社などないので、ここらへんは、後日深堀してみたいと思う。
最後に、日疋氏の人間性が集約されているエピソードをひとつ。「社長、どこでほっと一息つけたんですか?」と筆者が訊いた時、「顧問弁護士にも同じことを訊かれましたが、ほっとなどできませんよ」と答えた日疋氏が続けて語った話。
家族が抱えた問題がすべて解決したとき、顧問弁護士に「普通は親を捨てて逃げる。君もそうするんだろうなと見ていたが、一回もそういう話が出なかった。何故なのか」と質問され、こう答えたそうだ。
「親とはかなり喧嘩をしましたが、何故だか親を捨てて逃げるという選択肢は思ったことがないんです。それも親の教育のおかげだったのかもしれませんね」
●株式会社ひびき
〒350-1109
埼玉県川越市霞ヶ関北2-3-2
℡049-237-1000
資本金:2億390万円(準備金含む)
売上:11億1341万円(第22期2013年6月)
全や連総本店 東京
〒100-0004
東京都 千代田区 大手町1-7-2
東京サンケイビルB2F
℡03-3231-7705
◆2014年6月号の記事より◆
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