obi 12

 

株式会社ペッパーフードサービス 君は正しく笑えるか!!

次世代型ビジネスモデルと海外 戦略でまたまたパワーアップ!?

◆取材:綿抜幹夫

 

14E_human_Pepper01ペッパーランチをはじめ国内外にレストラン284店舗を展開する 株式会社ペッパーフードサービス/代表取締役社長  一瀬邦夫氏

人生いろいろ、会社もいろいろと言ったのは小泉純一郎元首相だが、次から次にいろいろと理不尽な試練、艱難辛苦に見舞われながら、それらを果敢に乗り越えたばかりか、会社を更に一段上のステージに押し上げてきた不屈の経営者を紹介したい。低価格ステーキ店「ペッパーランチ」をはじめ、様々な種類、業態のレストラン284店舗を、国内外に展開しているペッパーフードサービス(東証マザーズ3053/東京墨田区)の創業社長、一瀬邦夫氏(70歳)である。

取材してみてよ~っく分かったが、古武士然としたその風貌とも相俟って、日本型経営の神髄を極めた、まさに「士魂商才の人」と言っていい。詳しくリポートする。

商売人としての〝基本の基〟

14E_human_Pepper02
(左上から時計回りに)ステーキくに 赤坂店/アメリカンキッチン 上尾店/東京634バーグ店/92’s(クニズ)/牛たん仙台なとり/ペッパーランチダイナー UENO3153店

 

ここは氏が、日頃から強く抱いているという、経営者としての思想信条から話を始めたい。

いずれも氏の造語のようだが、「利利関係」と、「正笑の理念」というのがある。まずは前者だが、字づらからするといわゆる「WIN─WINの関係」のように思われる。こっちにとってもあっちにとっても万々歳という、両者引き分けならぬ〝勝ち分け〟の関係を目指す考え方だ。しかし氏の話をよく聞くと、どうもそうではないようなのだ。

 

「考えることは相手の利益です。どうやれば相手が得をするか。相手に喜んでもらえるか。それを追求するだけです。そのこと自体がすでに、自分にとっての利益、我社にとっての利益だというのが、利利関係という私の考え方です。だってそれさえできれば、信用とか、信頼とか、好感とか、商売を成功させる上で欠かすことのできない大切な基盤が築けるじゃないですか」(一瀬氏、以下同)

これが単なるキレイ事でないことは、次の言葉を聞けば分かる。

 

「子供の頃から母親と2人で、6畳ひと間の貧しいアパート暮らしをしてきましたからね。若い頃はずっと、どうすれば自分や自分の家族が幸せになれるか、そればかり考えてきたんです。でも商売を始めて、いろんな人間関係ができるようになると、そんな考え方ではどう頑張っても幸せになんかなれないことに、やがて気が付いたんですね。本当に幸せになりたいと思ったら、何をさて置いてもまずは従業員を、お客さまを、取引先を幸せにするという視点からモノを見なければいけないって。それが回り回って自分や自分の家族にも、いずれ幸せをもたらしてくれるものです。

そう考えれば、自分の利益や目先の幸せに心を奪われることがなくなり、純粋で気持ち良く、のびのびと働けるようになります。そうなれば仕事のスキルもレベルも上がり、信用信頼も一層アップします。これが大切なんです。当然と言えば当然ですが、人間は1人で生きているわけじゃないですからね」

まさしく正論である。商売人としての〝基本の基〟といって過言ではあるまい。

 

今ひとつは「正笑の理念」だ。読んで字の如く、正しく笑うという意味である。

「よっぽどの悪人なら話は別ですが、普通の感覚の人間であれば、世間に嘘を吐いたり、隠し事をして、一見成功したかのように見えても、心から笑えない、喜べないじゃないですか。どこかに必ず後ろめたさが残りますから。そんなのは成功でも何でもない。したがって嘘や隠し事は一切せず、公明正大に商売をし、堂々と成功を収めて、心から正しく笑えというのが正笑の理念です」

これまた明々白々の正論と言っていい。

とまれ賢明な読者諸氏はもうお察しのことと思うが、これらの思想信条は、かの近江商人が唱えた「三方良し」と、酒田商人が示した目先の俗物的利益に囚われない「士魂」を、見事なまでに体現した、「日本型経営の神髄」ともいえる考え方である。

 

 

経営者としての社会的使命と上昇志向

それにしてもなぜ、氏はそのような思想信条を強く抱くようになったか。これは冒頭の、〝いろいろと理不尽な試練、艱難辛苦に見舞われながら〟と書いた件と、実は無関係ではない。ということでここからは、氏の歩んできた43年間の経営者人生を、具に振り返ってみる。

氏が独立し、向島(東京墨田区)に「キッチンくに」を開業したのは、1970年(昭和45年)の冬である。僅か3坪の洋食店だ。きっかけは母親のひと言、「いつまでも人さまに使われていても埒があかない」だった。氏の記憶の中には、いつもこの母親がいる。2人きりの母子家庭で育ったことももちろん影響しているが、併せて氏の人生の節目節目に、母親はその都度必ず勇気付け、目標を指し示してくれたからだ。

 

ちなみに氏は元々コック志向で、最初にナポリという町のレストランに就職したが、母親に「どうせコックをやるなら、日本で5本の指に入る名コックになれ」と諭され、腕を磨くために赤坂の旧山王ホテル(当時の東京では帝国ホテル、第一ホテルに並ぶ名門のホテル)に転職している。要するに母親は、〝人生の師〟と言ってもいい存在だということだ。

とまれ店は、開業当初こそ苦戦したものの、2年もすると急速に売り上げを伸ばし始める。庶民にしてみれば高嶺の花だったビーフステーキが、当時としては破格の廉価で、しかもめっぽう美味しく供されると口コミで広がり、狭いながらも店内はいつも満席になるほどの人気店に伸し上がっている。しかし実はこれが、長く厳しい経営者人生の始まりになろうとは、当時の氏は思ってもいなかったに違いない。

 

「一つは目標を失くしちゃったことですよ。おまけに忙しいばかりで、従業員の出入りが激しいんですね。何だかいつも、得体の知れないジレンマに襲われていた記憶があります」

目標を失くしたというのは、開業から僅か9年で、4階建ての自社ビルを持ったことを指す。

 

「開業当初の目標がそれだったんですよ。その頃すでに結婚していましてね、1階と2階が店舗で、3階と4階に家族が住むというのが、私も含め、ある意味で当時の飲食店店主の夢であり、ステータスだったわけですよ。しかしそれが実現するともうやることがない。あとは忙しい毎日を過ごすだけです」

そんな中で氏はあることを機に、それまでの〝一国一城志向〟から、企業経営者としてどうあるべきかという、社会的使命と上昇志向に目覚めたという。

 

「従業員の出入りが激しい(長く続かない)理由を考えているうちに、ふと閃いたんですね。これじゃあ私だって辞めるよって。だって将来の希望が持てないんだから

要するに単店舗経営の限界である。先輩が辞めてくれるか独立でもしない限り、若い従業員は将来に何の夢も描けないということだ。

「そんなこんなを考えると、それまでの私は自分や自分の家族の幸せしか考えていなかったと思うようになりましてね。そこで多店舗展開をしようと決意したんです。従業員の幸せを考えると、将来いくらでもステップアップできる道を私が切り拓くしかない。それが経営者の責務じゃないかって」

これが先述した、氏の言う「利利関係」の始まりだ。ときに氏が43歳の春である。

 

 

叱れない自分が従業員をダメにした

1987年(昭和62年)開業の両国(東京墨田区)店を皮切りに、「ステーキくに」の多店舗化はほぼ1年に1店舗のペースで順調に進む。その分、それまで希望の糸口さえ見付けられなかった若い従業員が、幹部となり店長に昇進した計算だ。しかし言わずもがなだが、商売というのはそうトントン拍子にいくものではない。案の定、4店舗目を出店した頃から、社の財政が急激に悪化したという。早い話が、出店、増員、昇格昇給のペースに、売上がついていけなかったということだ。

「倒産も覚悟した」

というから、初めての深刻な経営危機と言っていい。そこで氏は、断腸の思いでリストラクチャリング(給与削減や不採算部門の整理縮小など収益改善のための再構築)を決意する。しかし幹部会議を招集し、現状を説明してそのことを告げると、みんなの口から出てきた言葉は、「全員で辞めます」だったという。そこで氏はどう出たか。

 

「生まれて初めて、社員の前で啖呵を切りましたよ。私の言うことが分からなければ辞めてくれてけっこう。とっとと出て行ってくれって。ほとんど開き直りですけどね(笑い)」

前述した通り、同社の多店舗化は従業員を辞めさせたくない、将来に希望を持たせたいという氏の思いからスタートしている。それがまるでアベコベの展開になってしまったわけだ。

 

「もちろん辞めさせたくないという思いが一番ですが、同時に辞められるのが怖いという弱い気持ちがあったのも事実です。何しろ1人採用して、モノになるまでの教育に掛かる費用やエネルギーを考えると、大きな損失ですからね。だから恥ずかしい話ですが、それまでは従業員の機嫌を窺うようなことまでしていたと思いますよ」

このときに痛感したこととして氏は、テレビのインタビュー(チバテレビのモーゼの道標~その時企業は~2012年11月10日OA)で次のように述べている。

結局は叱らない、叱れない自分(社長)が、従業員をダメにしちゃっていたんですよ

ちなみに氏の啖呵を聞いて辞めた従業員は一人もいない。それどころか、以前とは見違えるまでに仕事をするようになった。僅か数カ月で業績はV字回復を果たし、下げられた給与も旧に復されたのは言うまでもない。

 

「従業員が少ないうちは、どちらかというとフレンドリーな社長のほうが会社は機能すると思いますが、ある程度の数になると、やはり強いリーダーシップが不可欠だということなんでしょうね」

ドキッとしたり、ウンウンと頷く読者はけっして少なくあるまい。

 

 

安心と安全に掛かる金はけっして惜しんではならない

さてしかし、〝理不尽な試練と艱難辛苦〟はこれからだ。300店近くも多店舗展開をし、従業員や外注業者の数が爆発的に増えれば、そのリスクはかつてとは比較にならないほど高まり、マグマのように地底深くに蓄積されていくものだ。それを端なくも露呈したのが、あの関西地方で起きた忌まわしい事件と食中毒騒ぎだろう。これについては氏も、

「脇の甘さを反省している」 と述懐しているが、そもそも第三者的に見て、ペッパーフードサービスにさほどの非があるとはどうしても思えない。関西の事件は同社と業務委託契約を結んでいた個人事業主の犯行だし、食中毒は、食肉供給センターの明らかな落ち度だからだ。おそらく同社にとっても寝耳に水の出来事だったに違いない。

 

とまれこれも一瀬氏のリーダーシップの賜物だろう、両度の〝不祥事〟を受けて同社は、適正かつスピーディーに対応している。ただちにすべてのコマーシャル活動を自粛し、ホームページに説明と謝罪文を掲載し、あとはリリースするだけになっていた大手コンビニとのコラボ企画も、即座に無期限中止を決めているのだ。

ちなみに同社は現在、専門家を中心とした強力な危機管理チームを配備、食材については食品安全検査協会の職員と同行して徹底チェックするなど、あらゆる事態を想定し、その防止のために万全の態勢を敷いているという。

 

「私どもにとって、安心と安全は絶対の責務ですよ。そのために掛かる金は、けっして惜しんではならないと考えています」

余談ながら筆者は、企業のコンプライアンスに関わる事件や事故についてこれまで数多く取材してきたが、ほとんどの企業がメディアや一般市民に対してロクな説明もしていないし、その後どういう防止策を講じたかも、極めて不明瞭である。

 

 *

 

さて最後になったが、今後のビジョンについても少々話を聞いたので、簡潔に紹介しておこう。

「やはり海外ですね。現在までにシンガポール、オーストラリア、中国、韓国、ベトナムなど12カ国に合わせて約143店舗を展開していますが、いずれもたいへん好調でしてね、チャンスがあればまだまだ増やしたいと考えています。

それと今ひとつは、新しいタイプの店舗展開です。私どもでは次世代型ステーキ店・ペッパーランチダイナーと呼んでいますが、従来のステーキやハンバーグも然ることながら、美味しいワインを低価格でガブガブ飲んでもらおうという形態の店舗です。すでに西郷さん下(東京上野)店や小岩店などをオープンしておりますが、こちらもたいへん好評をいただいていますよ。幹部社員をはじめ従業員の士気も、今や最高潮と言っていいんじゃないでしょうか。

いずれにしてもここ数年で、みんながエッ!?と驚くような、とんでもなくパワフルな会社になっている筈です。ぜひご期待ください」

 

なるほど。「利利関係」と「正笑の理念」を以てすれば、TPP(環太平洋戦略的経済連携)はむしろ好都合というわけだ。ということで読者諸氏、我々も心の底から正しく笑えるように、ここは日本型経営の原点に帰って、もうひと踏ん張りもふた踏ん張りもしようじゃないですか。

 

obi2_human

●プロフィール/一瀬邦夫(いちのせ・くにお)氏

代表取締役社長。1942年、静岡市生まれ。幼少期から東京の下町(墨田区)に住み、高校(日の出学園高校)を卒業と同時にコックの修行に入る。旧山王ホテルの調理場勤務を経て1970年、「キッチンくに」を開業する。1985年、「有限会社くに」を設立し、代表取締役に就任する。直営店4店舗を展開するとともに、1994年には低価格ステーキ店「ペッパーランチ」のフランチャイズ展開を開始。翌年、社名を現在のペッパーフードサービスとし、株式会社に組織変更をする。2003年の韓国ソウル出店を皮切りに海外にも積極展開。現在は12カ国に店舗を擁する。2006年、東証マザーズに上場。社団法人日本フードサービス協会正会員、同日本フランチャイズチェーン協会理事、西武文理大学特命教授、ハウステンボス㈱料飲部門顧問。

●株式会社ペッパーフードサービス

〒130-0001東京都墨田区吾妻橋3-3-2

TEL 03-3829-3210 東証マザーズ(3053)上場

http://www.pepper-fs.co.jp/