桐生車輌株式会社 台車の世界に新たな波を巻き起こせ! 

◆取材:綿抜幹夫

 

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桐生車輌株式会社 代表取締役 桐生信也氏

 

傾きかけた身代を見事に立て直した若き4代目

世のエコブームを反映してか、街中で台車を押して走り回る宅配便のドライバーを頻々と見かけるようになった。確かにCO2は出ないだろうが、理由はそればかりではないだろう。都心部では、きっとトラックで動くよりも機動性が高いからに違いない。そんな物流作業に欠くことのできない台車を商って約1世紀。桐生車輌株式会社は4代目社長の手腕で新しい一歩を踏み出そうとしている。若き経営者の意気込みをお聞きした。

 

世間では『3代目は身上潰す』と言うが…

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創業大正8年の老舗、桐生車輌株式会社。台車累計出荷台数は、インターネット上の数字だけを見ても22万2千台を誇り、実際にはそれを上回る。宅配最大手企業が使用する台車は桐生車輌が卸しているし、あの乳酸菌飲料関係の車輌もまた桐生車輌。毎日のように目にする台車の多くが、桐生車輌の手を経て市中で活躍しているというわけだ。

会社は現在4代目社長の桐生信也氏が率いる。創業者の曾孫だ。

 

「この桐生車輌という会社は、もともと曾祖父が群馬から出てきて始めたものです。曾祖父は八丁堀近くで大八車を作っていた会社に入りました。近所の築地市場で使用されていた大八車です。その後、働きが認められて独立。桐生製作所を設立しました」

 初代社長はなかなかのやり手。会社を大きくし、工場も建設した。だが、時代が悪かった。戦争である。

 

「残念ながら戦時中、工場が焼けてしまったそうです。終戦後、家業を再開し、昭和25年くらいに再建。昭和29年には祖父が桐生車輌株式会社にしました」

 祖父である2代目社長の登場で、会社は見事に再建を果たす。初代をしのぐ勢いで事業を大きくしていった。時代もよかった。戦後の復興が家業の拡大を後押しした。

 

「アングル製台車(主に鉄などを折り曲げて作った台車)を作っていて、川口に工場を持っていました。しばらくはこのアングル製台車を作り続けて、やがてプレス製台車(型を使ってプレス加工で作られた台車)に移行しました」

 だが、台車の世界もご多分にもれず技術革新の波が押し寄せてきた。樹脂製台車の登場である。軽くて丈夫、音も静かにできる樹脂製台車が市場を席巻した。

 

「大八車からアングル製台車に至る過程では川口の工場がありましたから、製造技術的にも初代から2代目へと受け継がれていきました。2代目から父である先代、3代目社長の若い頃までは工場での製造を行っていました」

 だが、時はバブル絶頂期。製造のために工場を維持運営するよりも、そこを売って商社機能を多くすることを3代目社長は選択した。

 

「昭和60年代に工場を売却し、本社ビルを建てたのです」ところが、ピンチは突然やってくる。先代社長の病気である。 「先代社長である父は病弱でしたので、営業はできない、生産はできないという状態でした」

 本当は、別の仕事、別の人生を歩みたかった現社長だが、父と会社の窮状を見かねて、この会社に飛び込んでいった。

 

「世間では『3代目は身上潰す』と言いますが、我が社の場合は父の世間知らずや道楽で会社が危うくなったわけではありません。むしろ地道にコツコツやってきたんですよ。ですから商売の上でのバブルなんて経験することもなくがんばってきたんです」

その先代社長も病魔には勝てなかった。平成17年、桐生信也氏は28歳の若さで4代目を継いだ。

 

 

父が遺してくれた財産、それは顧客だった

 請われて継いだ会社だが、本音はいやいやだったと桐生社長は振り返る。

 

「もともとは継ぎたくなかったので、ずっと逃げ回っていたんですよ。正直言えば、つぶれて欲しいとも思っていました。何と言っても大赤字の会社でしたから」

 しかし、借金ばかりが理由ではなかった。

 

「仕入れ販売と言っても、世は大手が直販をする時代ですよ。そうなれば我々の存在価値は一体何なのか。父の代で生産や技術の部分での人脈も途切れてしまっていた状態でしたから、私がそれを再び作り上げなければならなかった」

だが、そんな中にも希望は残っていた。何よりも大切な顧客と言う財産である。

 

「幸い、お客様は残っていました。古くからのお得意様と真面目に向き合い、営業し、技術的な話し合いも行っていくうちに、こういうやり方が正しいんだという方向性が見え始めてきました」

傾きかけた身代は桐生社長の若さとパワーで持ち直していった。

 

「父が一人で頑張っていた頃は売上8千万程度だったのですが、私が手伝い、4代目を継いでからは売上が3倍増に成長しました。もちろん、時期的な要因もあるでしょうが、自分がやってきたこと、目指してきたことが間違っていなかったことの証明だろうと思っています」

 

 

4代目が見据える会社の方向性とは…

 あれほどあった借金も、昨年には赤字解消。事業も成長の軌道に乗り始めている。

 

「我が社のメイン顧客に物流大手の会社があります。そこが我が社の台車を採用してくださっているのは、強度が高いことや使い勝手がいいこと。それがコスト面での不利を補っています。近年は配送の中での台車の需要は高まっています。実際、街中でも台車による配送を見かけることが増えているでしょう。小回りが利くことや、エコの観点からなんですが、だからこそより高い耐久性が求められたり、機能性が求められたりしているのです。どのくらいの重量を載せられるのか、どのくらい軽く押せるかといった部分です」

製品の差別化は難しい問題だろう。しかし、そこはもともと製造も行っていた会社である。

 

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「オプションを豊富に用意することで、他社との差別化を図っています。例えば、バンパー。近頃のオフィスビルやマンションは壁が大変きれいですから、それを台車で傷つけるわけにはいきません。そのための傷予防のバンパーが必要となってくるわけです。シーンに合わせたオプションを多数ご用意して選べるように工夫しているのです。これは先代から引き継いだもので、単にモノを右から左に流すだけじゃない、元は製造もやっていたからこその我が社のアドバンテージです」

普通の商社にはない優位性を活かして、桐生社長はもう一歩先をも見据えている。

 

「我が社は、他社の製品のいい点・悪い点を熟知しています。だからこそ出来る工夫がある。それを施した製品を自分たちの手で売りたいと考えています。やっぱりただの商社で終わるのではなく、一部でもメーカー色を出していきたい。ただ、それを大々的にやろうとすれば、それなりの規模の会社と正面切って戦うことになります。相手には資本力があるがこちらにはない。だからゲリラ的に、ピンポイントでやりたいと考えています」

そして、そうしたメーカー機能を拡充していくための下地もちゃんと用意されている。

「自社の製品を世に送り出す以上は、メンテナンスも重要です。それを請け負うことも考えています。現在、東京の東側一帯にメンテナンスのルート便というのを出していて修理のシステムを構築しています。今はまだ採算が合っていませんが、自社製品の販売が増えれば、このサービスがもっと威力を発揮するはずです」

 

 

社長の夢、会社の夢……

 苦労は多かったが、それは報われつつある。売上は伸び、従業員も増えた。だが、現状に満足していては更なる飛躍は望めない。しっかりと足元を固め、安定した基盤を築いてきた今だからこそできるチャレンジがある。

 

「面白いアイデアがありましてね。『台面の伸縮と電動化により、誰でも楽に押せる台車ができないものか』というものです。これを実用化するために、足立区が行っている『ビジネスチャレンジコース』に応募し採用されました。昨年2月頃から実用化に向けて動き出したところです」

 足立区は、斬新なアイデアで新製品・新技術・新サービスを開発し、新分野を切り開く事業者を応援するニュービジネス支援事業として、『ビジネスチャレンジコース』という制度を設けている。開発にかかる経費の2分の1、最大1千万円の補助が受けられるほか、足立区の広報紙やホームページ上で紹介されるなど、PR効果も期待できる制度だ。

現在、桐生社長は、台面に使われている材質の樹脂をどう補強できるかのテストを粘り強く進めている。そして、この制度から副次的なメリットも享受できたという。

 

「この助成金のおかげで、足立区の経営者に多くの取引先様や仲間が出来ました。彼らと一緒に何かやってみたいと思っています。それぞれの技術を持ち寄れば、何か足立区の新しい一面をお見せすることも出来るはずです」

一方、ごく身近な課題の解決にも心を砕く。

 

「特注製品を請け負うことも多いのですが、もっと簡素化してお客様が簡単に組み立てられるようにしたいですね」

そして、台車屋稼業としての究極の目標は、 「街中で重そうに荷物を抱えている人をよく見かけますが、利便性の高い、普段使いの台車があればきっと解決するはずです。これを作らないのはメーカーを含めて、我々の怠慢ですよ(笑い)」

あれほど継ぎたくなかった台車の仕事だが、今やその未来をも考えるまでにどっぷりとはまっている桐生社長。この老舗が5代目の手に渡る時、果たしてどれほど大きな実績を残しているのか。その手腕に期待せずにはいられない。

 

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●プロフィール

桐生信也(きりゅう・しんや)氏…昭和52年埼玉県川口市生まれ。都立江北高校卒業。卒業後、専門学校に入学するも病気の父親の手伝いのために桐生車輌に入社。ところが、若く経験不足を痛感し、武者修行のため、他社へ就職。2年後、父の病状悪化を受けて再び家業に戻る。平成17年代表取締役に就任。

 

●桐生車輌 株式会社

〒120-0005 東京都足立区綾瀬6-32-16

TEL 03-3628-6926

http://www.kiryu-sharyou.com/