三宝精機工業株式会社 凄っ!老いて壊れた工作機械がピカピカに蘇生&グレードアップ
磨き抜かれた古典的手工業と最先端の設備機器、作業環境
SD気運高まり、俄然注目!!
リ・ボーン(生まれ変わり)、とでも言えばイメージしていただけようか。
噂を聞き、取材を申し入れて実際に見てみたが、リサイクルなんて在り来たりの言葉じゃとても表せない。長年使って金属疲労を起こした、または支障が生じたありとあらゆる工作機械をオーバーホールし、新品同様に蘇らせるばかりか、構造上可能であれば、その本来のスペックまでグレードアップしてしまう三宝精機工業(神奈川県横浜市)の凄ウデである。その内容と実態、さらにはその秘訣についても、詳しくリポートする。
日の出の勢いも、
次のステップに向けて利益はすべて先行投資
掛け値なし。〝旬の〟企業である。世界的なSD(サスティナブル・ディベロップメント=持続可能開発=)気運の高まりも背景にあってのことだろう。このところ国の内外を問わず、各種機械メーカーとその周辺業者の注目を、一身に集めているのだ。そんなところへきてこの8月、新たなトップリーダーが誕生した。3代目代表取締役社長、金子一彦氏である。というわけで本稿は、その金子氏の内幕話と、記者が独自に取材した関連情報を適宜取り混ぜて書き進めてみたい。まずはこの会社の生い立ちと歩み、そして現況だ。
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創業は1954年。氏の実父、憲男氏(現・取締役会長)の岳父が東京大田区に立ち上げた、各種工作機械の据え付け、取り扱い及びアフターサービス会社、小原寅三商店がその〝幼名〟である。
的確で迅速な対応と、磨き抜かれた技術力には当時から定評があったようで、程なく三菱重工業広島精機製作所の工作機械、アフターサービス会社に指定されている。ちなみにその〝的確で迅速な対応と、磨き抜かれた技術力〟が、実はこの会社の半世紀余りに及ぶ歩みの原動力で、詳しくは後述するが、当時の精神(こころ)と業(わざ)は、現在に至るまで脈々と受け継がれているという。
とまれ横浜に工場を新設し、現社名の三宝精機工業に改称したのは1967年で、同時に、三菱商事と、同社輸入の工作機械据え付け取り扱い指導、及び修理業務委託契約を結んでいる。その5年後には広大かつ近代的な設備を整えた本社工場を現所在地に新設、さらにその翌年には、愛知時計電機製、愛知三菱HL―300旋盤の修理工場にも指定されており、同時に輸入工作機械の総本山、日本工作機械輸入協会からは、会員企業の修理指定工場として正式に業務委嘱を受けているのだ。言うまでもないがその間、業績は一貫して右肩上がりで、それに連れて業容も年毎に拡大、文字通り日の出の勢いである。
しかしだからといって、先行きに何ひとつ懸念がなかったかというと必ずしもそうではない。今も昔も中小企業にはよくあり勝ちなケースだが、売り上げ高の約75%を、結果として三菱商事とその周辺企業が占めていたことだ。未来永劫、高度成長が続いていたならそれも問題はないが、時はすでにあの1970年代後半──である。
「その頃はもう父の代でしたが、父もそれには強く危惧していたようですね。ましてや高度成長が終わり、産業構造が大きく変わり始めた時代ですから。でも根が桁違いにアグレッシブな人なんですよ。ただ危惧するだけでなく、着々と、しかも大胆に矢継ぎ早に手を打っていましたからね、次のステップに向けて」(金子氏、以下同)
来るべきボーダレス時代を見越し、どのメーカーのどの機械にも同様にクオリティの高いサービスが提供できるよう、
「工場設備の一層の拡充と精度アップ、人材の採用と育成鍛錬などに、上がった利益のほぼすべてを注ぎ込んでいました」
新品同様の仕上がりに
「新しいのを買うなんて言ってないぞ!」
その結果、時間は掛かったが〝脱・1社依存〟は着実に進んだようで、
「今では、社内におけるメーカー間の垣根は完全に取り払われています」
具体的にいうと、同社のここ10数年の主な納入先は約170社。納入実績のある機械のメーカー数はスイス、ドイツ、アメリカなど海外10カ国と国内を合わせて、優に200社を超えている。ちなみに売上高に占める1社の割合は、最大でも15%以内だ。ニッチとはいえ、今や明らかに独立し、確立されたひとつの産業分野である。
とまれここからは、同社事業の詳しい内容と、最近の納入事例に話を向けよう。
簡単にいうと、長年使って老いて壊れた工作機械をオーバーホール(解体修理)し、レトロフィット(旧式装置の改良更新)する、いわばマシンクリニックである。
それも小児科(小型)から大人の生活習慣病科(大型)、ガン科(電気・精密)から美容整形外科(特殊機械)、果てはリハビリテーション科(運転調整・試加工)まで、
「ありとあらゆる機械の病気と症状に、的確に対応し、迅速な回復・改善を期す、ゼネラルホスピタル(総合病院)です」
おまけに土日祝日の突発事故にも電話で対応。救急指定病院(工作機械119番。詳細は文末のHP参照)でもある。
オーバーホールの基本的な流れはこうだ。
依頼を受けるとまずは現状分析し、それを基に仕上がりの仕様を双方で打ち合わせ、確認する。その上で機械を預かり、バラし、洗浄し、1つひとつの部品をチェックする。その結果に基き、キサゲと呼ばれる超精密加工技術を使った摺り合わせ、芯出し作業などが行われるほか、必要であれば部品の調達もする。それらを組み付け、精度出しから運転調整、試加工を経て精度検査、さらに双方立会いの下、最終検査をして現場に据え付ける。
レトロフィットとは旧来の汎用機にNC装置を搭載したり、古くなったNC装置をリプレースし、グレードアップすることで、右の流れにハードウェア、ソフトウエアの設計と組み込み作業が加わる、と思っていただければいいだろう。
というわけで読者諸氏、とくとご覧ありたい。上の写真がそのビフォー&アフターである。機械はスイスSTUDER社製の名機、RHU―400(円筒研削盤)だ。
「仕上がりを見たお客さまが勘違いしましてね。いきなりウチの営業に、新しいのを買うなんてひと言も言ってないぞ!って怒鳴ったそうですよ(笑い)」
最初の10年間は仕事をさせてもらえない?
それにしても、何がどうしてここまで〝デキル会社〟になったか。その奥義とも言うべき秘密に迫ってみたい。
ひと言でいうと、磨き抜かれた古典的手工業と最先端の設備機器、徹底して合理化された作業環境の相乗的作用と思われる。背景にあるのは前述した創業当時からのこころ(精神)とわざ(業)だ。それをシンボライズしているのが、古典的手工業に対する同社の取り組みである。
「他社と私どもとで決定的に違うのは、その手工業の熟練度、完成度です」
今どき、いや今どきだからと言うべきか恐ろしく厳格なのだ。1人ひとりの手工業の精度に関する評価が、である。
「多少個人差はありますが、3年や5年で身に付くものではありません。身に付いてないと、仕事らしい仕事は何も任せてもらえません。それが私どもの企業風土なのです」
それを前提に人を採用し、育成していると氏は言う。入社するとまずは誰かれなく〝キサゲ〟と呼ばれる技術の習得にかかることになる。100年以上も昔から伝わる目と手と経験だけが頼りの超精密平面加工技術で、同社では1000分の1ミリの誤差も許さない。このキサゲこそが同社ラインのいわば通信簿で、初心者、ベテランを問わず、仕事の合間を見付けてはその鍛錬に余念がないという。
「こう見ていますと、少なくとも10年ですかね。ちょっと任せてみるかってことになるのは。脂が乗ってくるのは40歳くらいで、円熟した本当にいい仕事ができるようになるのは50歳くらいからですよ」
そのキサゲを実際に見せてもらったが、確かに凄っ。ほとんど神業に近い。しかしそんなに厳しくして、果たして社員は〝居ついてくれる〟のだろうか。
「居つくも居つかないも、それが私どものスタンダードでありクオリティそのものですから仕方ありません。でもよくしたものでしてね、厳しい半面、熟練するにしたがってあとの人に継承していくという、家族的美風も実はあるんですよ。これも企業風土として」
最後に作業環境について少しだけ触れておく。特筆されるのは、同時に10台もの機械が処理できる広大な〝恒温工場〟だ。作業効率も然ることながら、常にクリーンで一定の温度を保つことで、ミクロの精度が要求される精密機械の品質維持にも、きわめて大きな役割を果たしているのだ。
「人は、子供や歳老いた親を病院に預けるとき、担当の医師や看護士はもちろん、その設備や病室を見て安心したり不安になったりするじゃないですか。その意味では工場も同じです。どなたが見ても安心していただけるよう、人(技術水準)はもちろん、設備、作業環境にも、最大限の注意を払い、万全を期したいと思っています」
この〝病院と新院長〟には、当分、注目である。■
金子一彦(かねこ かずひこ)
1961年、神奈川県横浜市生まれ。1984年、東海大学(海洋工学部)卒業、日立ソフトウェアエンジニアリング(現・日立ソリューションズ)入社。約4年間、特許出願管理ソフトの開発に従事。1988年、三宝精機工業入社。マイコンに組み込む制御ソフトの開発部門を開設、担当し、さらに2年後、同部門を分社化(三宝システム)するとともに同社の社長を兼務する。2003年、本体の常務取締役、2007年、同専務取締役を経て三宝システムを吸収合併し、本年8月、代表取締役社長に就任する。趣味はスキーで、正指導員の資格を持つ腕前。
三宝精機工業株式会社
〒244-0813 神奈川県横浜市戸塚区舞岡町405番地
TEL 045-822-3561