逸早く六価フリーに踏み切り、三価の黒を開発した下町の元気者。

「日本の中心、東京」にこだわり、下町のど真ん中にあって公害防止を担保する。「品質が営業をしてくれる」と言う太田社長は、量産体制を整備しつつも小ロット高品質を第一に考え、世界のモノづくりの分担のあり方を見渡す中で、「これからの日本の企業は小さな大企業を目指すしかない」と、独自の視点で中小企業のポジショニングを展望する。

 

太田鍍金工業株式会社/代表取締役 太田幸一氏

 

世界の流れを見て開発した新技術

太田鍍金工業株式会社は下町のど真ん中にあり、創業以来亜鉛メッキ一筋の会社である。太田社長の父である先代が個人でメッキ工場を始めたのは1961年(昭和36年)だが、亜鉛メッキ専業としたのは、その前に10年間勤めていた八幡鍍金がクロームメッキの会社だったからで、競合関係にならないための配慮だった。当時、クロームメッキは自転車や傘の部品が主で、亜鉛メッキは建築ものが多かったように、ジャンルが違うのである。

 

法人化して現在の社名になったのは1969年(昭和44年)だが、時代の流れによってめっきの需用もクロームメッキは照明器具などが主流になり、同社の行っている亜鉛メッキは、バブルの頃は自動車が90%で建築関係が10%だったのが、今では自動車が50%で、その他は装飾ものと言われるものへと変遷していった。

 

大きな変化があったのは2000年に入ってからである。六価クロムの害は早くから指摘されていたが、ヨーロッパで法律が改正されだすと、太田鍍金工業は逸早く六価フリーに踏切ったのである。

 

この方針の決定は、太田社長が太田鍍金工業に入社して15年目で初めて先代と意見が合った出来事だった。これまでいろいろと提案し、議論し合ったが、なかなか意見の噛み合わないことが多かったという。

 

「六価フリーをやらなければ、もしかしたら太田鍍金工業はダメになる、という僕の熱意が伝わったのだと思う」

 

と、太田社長は振り返る。

 

一晩話しただけで翌日OKになり、直ぐに薬品会社とタイアップしてプロジェクトチームを作る。あとは寝る間も惜しんで新技術の開発に努め、僅か2カ月という異例の速さで完成させた。2003年(平成15年)10月のことである。

 

開発したのは六価を使わない三価の黒だったが、

「これはうちが最初ではないか」

 

と太田社長は言う。というのも、先代社長を説得する材料として、自分だけで考え、自分だけで内緒に実験していたものだったからだ。ともあれこれが予想以上の高い評価を受けることになる。

 

「社会が遷り変わる中で、人々の嗜好も変化していたんですね。バブルの頃は金色や光沢のあるものが好まれましたが、バブルが弾けると落ち着いたマット状の優しいものが好まれ、特にシックな黒の需要が増えていたんです」

 

新技術が完成すると今度は設備も新しくしなければならない。そのための工事を暮と正月休みにかけて集中的に行ったが、業界では、せいぜい10センチ角ぐらいの小さなものしか出来ないだろうと囁かれていたという。しかし、

 

「うちは大きいものが多いので、有効面積1700ミリ掛ける900ミリは欲しいと思いましてね。開発にはたいへん苦労しましたが、何とか立派に、それに対応した設備が用意できた」

 

 

本社は日本に、モノづくりは海外に

円が今のように高くなると、いきおい品質よりも安さが優先する。しかしその価格競争に、太田社長はけっして流されてはならないという。

 

「安価でモノを提供する技術は存在しない」

 

と思うからだ。

 

独自の視点を持つ太田社長は、円高で海外に出る企業が多い中で、

 

「太田鍍金工業は100%海外に出ない」

 

と、きっぱり言う。

 

もちろん全ての企業が海外に行ってはいけないと言うのではない。太田鍍金工業が海外に出ない理由は文化が違うからで、

 

「文化が違えば価値観も違います。農耕民族の日本人は手先が器用で勤勉で律儀ですが、海外に出ればそのことを改めて見直すことになるのではないでしょうか。だったら出る必要はないし、日本にしかできないモノづくりで頑張った方がいいと思っている」

 

と言うのである。

 

また、

 

「これからの日本の企業は〝小さな大企業〟を目指すしかない」

 

とも言う。確かに日本ではこれまでも、小さいながらもオンリーワンの技術を持った〝大企業〟が数多く生まれている。それは、日本の中小企業の企業文化に依るものといえる。つまり、

 

「日本の社長は経営だけではなく、ワーカーとしても働くし、営業もします。従業員も一つのことだけではなく、いくつものことをこなす」

 

これが世界にはない優れた開発に繋がっていると、太田社長は分析するのだ。

 

一方、シンガポールやベトナムなど、東南アジアの一部の国では、中小・零細企業のために、コンピュータなどの設備を整えて誘致する気運が高まっているが、だとすれば日本は、技術を売り物にすればいい。簡単にいうと、

 

「日本では東京に本社があって、地方でモノづくりが行われているように、日本が本社で、海外がモノづくり国になることも…」

 

 

ありうるのではないかと展望するのだ。

 

現に、日本の技術を取り入れようとする気運が最近とみに高まっており、太田社長自身にも、海外からコンサルタントとして1日何十万円かで招きたいという話もあったという。日本のめっき技術はそれほどに優れているということだ。

 

また、めっきには特種な面もある。素材をはじめ、土台になる物は全て顧客からの預かり物で、他の製造業のように自社製品ではないのもその一つだが、今はISO(国際標準化機構規格)でマニュアル作りが求められるので、似たようなものが出来ることもあるのでは、といわれる。

 

しかし、「めっきは料理だ」と言う人もいるように、技術による違いは大きく、同じものはできないのだ。

 

 

下町のど真ん中で

太田鍍金工業は自動車部品の急な発注に対応できる量産体制を整え、さらに、試作品などの少量、短期納入の依頼にも対応できるように、システムを改良した。さらには部品の軽量化の流れが加速するのを見越して、アルミに極薄の鉄めっきを施す独自の技術も開発中である。

 

しかし、太田社長は、本当は〝小ロット、高品質〟を目指しているという。

 

「うちは品質を何より重視していますから」

 

値段が高いか安いかは客先が判断すればよいという方針だ。したがって品質こそが営業マンであり、

 

「自分で営業はしたことがない。営業すれば必ず、知り合いの競合会社とぶつかるから」

 

仕事の取り合いが嫌いなのは、どうやら親譲りのようだ。

 

ところがある時期、その品質が良過ぎて却下されることが何回かあったという。幾つもの部品が合わさって製品になるが、そのうちの一つだけが良過ぎては全体としてバランスが崩れるという理由からだ。早くから六価フリーを取り入れ、品質を確立したのが逆に裏目に出た形である。が、もちろん見る人が見れば分かる。だから、

 

「一時は売り上げも落ちましたが、その後の盛り返しが凄かったんですよ」

 

と、当時を懐かしげに振り返る。また、

 

「仮に会社が大きくなって第二工場を建てるにしても、ここを本拠地として東京でやりたい」

 

と、太田社長は言う。下町のど真ん中にこだわるのは品質にこだわっているからで、当然、公害対策は充分に担保した上でのことである。

 

「日本の中心は東京で、大きい企業も小さい企業も、基本的に本社が東京にあり、そこに会社があるのが誇り」

 

でもあり、今後はさらに、

 

「小ロットで付加価値の高いものを目指す」

 

からである。損益を優先させれば、大企業の大工場が多い地方に行った方が仕事量は確実に増えるだろうし、コストも抑えられる。が、地方で大ロットの仕事をすることは、太田社長にとって、

 

「海外に出るのと同じ」

 

ことなのだ。それだったら、身の丈に合ったスケールで、自分の信念を通した方がいい。中小企業は先を考える余裕がないのが大方の実情だが、

 

「景気が右肩上がりでも、下がりでも、浮き沈みの波はある」

 

と、太田社長は屈託がない。

 

要するに、少々の損得勘定で地方に出てまで、心に沿わない大ロットの仕事を受ける必要などない、ということだ。

 

江戸っ子の、というより東京下町の経営者の心意気ということだろう。太田鍍金工業、当分は目が離せそうにない。■

 

太田幸一(おおた・こういち)

東京都出身。1967年(昭和42年)生まれ、44歳。高校卒後、八幡鍍金の口添えで大阪の三和鍍金に入社。1年半の修行の後、めっきの専門学校に進む。1990年(平成2年)、太田鍍金工業株式会社に入社。2008年(平成20年)、代表取締役に就任。

 

太田鍍金工業株式会社

〒124-0014 東京都葛飾区東四つ木2-10-17

TEL 03-3692-4560