わが人生の矜持
出会いと運命、人間関係を大切にすれば、活路は見出せる

 

深絞り加工とプレス加工は日本のモノづくりのお家芸だが、さらにそのデザイン性においても高い評価を獲得し、最近では国内のみならず、ホームページを頼りに海外からも引き合わせがくるようになったと、中座義行氏(ナカザ代表取締役)は目を細める。しかしそれも束の間、創業から40年、人間関係に幾度も救われて度重なる苦境を乗り越えてきたという氏の目には、微かな潤みも。その胸中に去来する思いは……。

株式会社ナカザ 代表取締役 中座義行氏

 

世界を変えた事件に遭遇

2001年9月11日。世界の人々の目は、突然テレビから流れてきた衝撃的な映像に釘付けになる。2機の旅客機が世界貿易センタービルに突っ込んだ、あのアメリカ同時多発テロ事件だ。

「そのときはまさか、これが〝あの事件〟と関係があるとは思いもよりませんでした」

と、中座氏は1枚の写真を見せてくれた。

その意味はこうだ。

〝あの事件〟とは、日本人犠牲者1名を出した、1994年の「フィリピン航空434便爆破事件」のことである。氏は偶然にもこの便に乗り合わせており、爆破後の機内の様子を撮影していた唯一の日本人だった。

「お得意さまをセブ島で接待しての帰りの便でした。乗務員は英語で撮影はダメだと言っていたようですが、私は英語が分らなかったので、インスタントカメラを手に半ば夢中で撮影していたのです」

緊急着陸した那覇空港。氏ら乗客は事情聴取のため缶詰め状態になる。そこで待ち構えていた報道記者に、誰か機内の映像を撮った人はいないかと聞かれ、「写っているかどうか分りませんが…」とカメラを提供したところ、その写真が新聞で大きく取り上げられたという。それが件の写真である。

後に判明したが、この爆破事件も、その7年後に起きた9・11のテロも、実は同じ犯行グループ、アルカイダの仕業だったというわけだ。ちなみにその写真は、爆破された機内の様子が生々しく撮られていたという意味で、報道写真史上、非常に貴重なものとして高い評価を受けたという。

しかしそれに鼻を高くすることはもちろん、氏には感傷にひたっている余裕すらなかった。その頃まさに、経営する会社が瀕死の状態に陥っていたのだから…。

 

上京以来、人には本当に恵まれてきました

「バブル崩壊後の90年代以降は仕事が激減し、一時期、月間1千万円近くあった仕事が30万円にまで減少したこともあったくらいです。とりわけ2000年以降の10年間は、まさに地獄のようでした」

そんな氏をさらに不幸な事件が襲う。会社に泥棒が侵入し5千万円もの被害に合ったのだ。

「盗まれたのは現金と手形でしたが、当時は大手電機メーカーなど大企業との取引がほとんどだったため、手形は誰でもすぐに換金できたのです。警察によると、中国人窃盗団による犯行ではないかという話でしたが、結局、犯人は捕まらずじまいです」

それでも悲嘆に暮れることなく前に進むことができたのは、ひとえに随所随所で温かい手を差し伸べてくれた、

「東京金型睦会会員の方々をはじめ、多くの人たちのお陰…」だと、氏は感慨深げに振り返る。

「思い起こせば東京に出てきて以来、人には本当に恵まれてきました。もともと茨城の農家の長男で、中学卒業後は家の手伝いをしていたんですが、当時付き合っていた女性との交際を反対され、その勢いで、ほとんど着の身着のまま東京に飛び出してきたんですよ」

当然といえば当然だが、僅かばかりの所持金を使い果たした氏は、すぐにその日その日の泊まる宿にも困ることになる。

「ところが、たまたま上野の町を歩いていましたらイトコとばったり出会いましてね。そのイトコがすぐに葛飾にいる叔母に連絡したんです。すると『絶対に連れてきなさい』と言われたというので、家出してきた身でバツが悪かったのですが行くことにしました。で、結局、その叔母の家でやっかいになりながら、とある店でアルバイトをするようになったんです」

農業しか経験したことのない氏にとっては、「いらっしゃいませ」のひとつをきちんと言うのにも苦労したという。

しかし何としても東京できちんとした職に就いて、居場所を作ろうと決意していた氏は、新聞でたまたま「オリエンタル証券」という会社の募集広告を目にし、早速応募する。だが送られてきたのは、無情にも不採用の通知だったという。しかしここからが氏の真骨頂だ。(ならば…)と、社長に直談判すべく証券取引所に何食わぬ顔で入り込み、事務員から社長の自宅の住所を聞き出し、その日のうちに、手土産をもっていきなり社長の自宅を訪ねたのである。

「その時のことは今でもよく憶えています。社長はゴルフで不在。奥さんとお手伝いさんしか居なかったのですが、事情を説明して2~3時間ほど待っていましたら、『主人には必ず連絡させますから』と奥さんが言ってくれたので、連絡先だけ告げて帰ってきたんです」

すると家に到着するなり、社長から「明日の10時に履歴書を持って会社に来なさい」との電話が…。作戦は見事に的中した。

「でも当時はまだ住所も不確かで、きちんとした履歴書も用意していなかったんです。そこで翌朝、取り急ぎ履歴書を買って行ったら、約束の10時を5分ほど過ぎてしまったんですね。開口一番、『バカ野郎!俺たちは1分1秒を争う仕事をしているんだぞ。5分も遅れるとは何ごとだ!』と社長に一喝されました。それでもすぐにひざまずいて、実は…と説明すると、社長は『分った』と言ってくれましてね。『使ってやれ』のひと声で晴れて証券マンになることができたわけです。後に人から、社長が『俺の目に狂いはなかった』と私のことを言っていたと聞いたときは、最高に嬉しかったですね」

 

サラリーマン根性に嫌気がさして〝一念発起〟

証券のことなど何の知識もなかった氏が、社長をして『俺の目に狂いはなかった』と言わしめるほどの才覚を発揮しだしたのは、なんと入社から僅か2年目だ。手始めは、誰もがびっくり仰天の〝大商い〟である。

「相手は質屋さんを営んでいる方で、当時の価格で3億円相当の株式の売買でした。しかし話がまとまって会社に連絡したら、常務に『実際に株券を見たのか』と言われたんですよ。そこで『見ていません』と答えたら『株券を見ないで売るヤツがあるか!』と怒鳴られ、『すぐに行くから待ってろ』と言われたんです」

やがて待ち合わせ場所に訝しそうな顔をしてやってきた常務の態度が一変したのは、先方の社長が3包の風呂敷を解き、3億円相当の株券を目の前に並べたときである。

「現金なものですね。もう、揉み手ですよ(笑)。でも、その時は呆れるというより『凄いな、この人は』と感心していました。自分にはとても真似のできない変わり身だったので、かえって〝商売のコツ〟をひとつ学ばせてもらったような気がしまして」

そんな氏が会社を辞めようと決意したのは、3年目に入ってまもなくの頃だったという。

「ちょうど異動の時期でしてね。私はそれまで160万円の手数料を上げていて、社内でも3、4番目の成績でしたから、一応、昇格の候補には上がっていたようなんです。でもそのときに係長に昇格したのは大学卒の同僚の方でした。そのこと自体がどうのこうのではもちろんありませんが、そのあと皆で喫茶店に行ったときに、さっきまで『中座さん』と私を呼んでいたその同僚氏が、急に『中座君』と呼び始めたんですね。その瞬間、『ああ、私はもうここにいても仕方ない』と思ったのです」

ちなみに当時(1960年代半ば)の氏の給料は1万5、600円。特に不満を感じていたわけではない。学歴社会とそれに追従する〝サラリーマン根性〟に、ホトホト嫌気がさしたということだ。

かといって落胆していたかというと、そうではない。それが証拠に氏は、ここでも自らの意志で人生の舵を大きく切ることになるのだ。

「よし、独立して自分の城を造ろうと決心しました。そこで不動産営業をしながら僅かですが資金を貯めましてね。オリエンタルの頃によく可愛がっていただいたあるプレス会社の社長に相談したんですよ。そしたら『じゃあウチから仕事を出してやるから頑張れ』と言って下さいましてね。それがきっかけでこの会社を立ち上げることができたんです」

今でこそ、その卓越した深絞りの技術で、大手でさえ匙を投げてしまうような難易度の高い技術を誇るまでに成長した同社にも、実はこのような創業の経緯があったのだ。

ともあれ筆者が思うに、これはもはや人徳だろう。その後も氏は、

「これはもうダメだと思った時でも、不思議なことに、思いもかけない出会いがあったりして必ず手を差し伸べてくれるんです。例えば、飛び込みでうちの営業が青木電器さんという会社を訪問したところ、そこの部長がなんと私の古い知人でしてね。その知人が『久しぶりに中座社長や奥さんに会いたい』と言ってくれたそうなんですよ。それでお会いしていろいろ話すうちに、『暇で困ってるよ』なんて言ったところ、『それならウチで扱っている仕事を回しますよ』と、ホンダのSRV車関係の仕事をポンと回してくれたんです。当時は会社も一番苦しい時期でしたから、その心遣いは本当に有難たかったですよ」

 

初の自社製品が大ヒット。新たな時代へ

最後になったが、ここらで現在の同社に話を向けよう。

表看板ともいうべき深絞りの加工技術は、業界でもトップクラスともっぱらの評判である。先年、ヨーロッパの計器類の見本市に出展した際にも、側面がわずかに丸みを帯びた八角柱の計測器ケースが、「世界でも類を見ない、優れた絞り技術」と絶賛されているのだ。また平成22年度には「北区きらりと光るものづくり顕彰」の「きらめきの技人部門」を受賞。最近では板加工のコストが数百円~1500円はかかるとされていた燃料電池向け金属セパレーターの製造を、ダイヤフラム(金属製薄板)の加工法を応用し、従来8工程だったものを3工程に削減。材料費別で数十分の一以下の20円程度(径約120ミリメートルの加工の場合)に抑えたほか、加工時間の大幅短縮にも成功している。

この技術は大手企業20社ほどが挑戦しても成しえなかったという、同社独自の〝匠の技〟をさらに改良発展させたもので、今後はさらに精度を高め、平坦度をマイクロメートル単位に抑えるとともに、大きなサイズでも加工できるよう開発を進めていくという。

他に、これまた偶然の出会いから生まれたという、昨年秋に発売したLED照明の留め金具も大きな話題を集めている。もともとは2種類使っていたスプリングワッシャーを1種類で済ませられないかという発想から企画されたものだが、すでに似たような特許が取得されていることを知り一旦は断念。それがたまたま商談に訪れた人物が、LED照明に利用できないかというので、「ほんの遊び心で…」

初の自社製品として出したところ、中国の看板照明をはじめ各方面で人気沸騰。当初の予想を大きく上回り、これまでに90万個を売上げる大ヒット商品になったという。

ついでのようで恐縮だが、氏は現場作業の改善にも余念がない。先ごろは「無災害記録6450日」を達成、その功績によって中央労働災害防止協会からも表彰されているのだ。

「先月、初めて売上がついに月額1700万円を越えました。低い時は300万円の時代もありましたから、それを思えば今は本当に夢のようです」

今年、72歳になる中座氏。後継者については甥がいるので安心はしていると言うが、最後に、経験が全くない状態から創業し、今日まで現役にこだわり続けてきた一番の理由は何かと尋ねると、頭を掻き掻きこう答えてくれた。

「長男のくせして親の期待を裏切ってきましたからね。葬式だけは、私が社長の肩書きのまま送ってやりたいという思いをずっと持ち続けていたんですよ。それももう10年も前になりますが、立派に執り行うことができました。辛いことも少なくありませんでしたが、叔母、友人、知人、そしてお力添えいただきましたお得意さま、担当者さま、並びに協力会社の社長さまには深く感謝しております。同時に、ある意味で東京に出るきっかけを作ってくれた田舎の女性にも心からお礼を言いたいと思っています」

運命とは、あらかじめ決められたもので、人間の力でそれを変えることは難しいのかもしれない。しかしその時々に努力し、未来を信じ続けることで、少しずつでも良い方向に向かわせることはできるという。氏の歩んできた足跡を辿ると、まさにそう実感せずにはいられない。

最後に氏は、胸を張ってこう言った。

「先ごろガンを患いましてね。社員みんなが一丸となって私を支えてくれたんですよ。そんな素晴らしい社員たちに恵まれことを、私は一生の誇りにしたいと思っています」

初の自社製品が大ヒットしたということで、おそらく同社も新たな時代を迎えることになるのだろう。当分は、目が離せそうにない。

 

フィリピン航空434便爆破事件

1994年12月11日、マニラからセブ島経由で成田に向かっていたフィリピン航空434便の機体が、突如、沖縄県の南大東島附近上空で爆発し、日本人男性1名が死亡、附近に座っていた乗客10名も負傷した。

国際的テロリスト集団「アルカイダ」のメンバーで、世界貿易センター爆破事件の実行犯でもあるラムジ・ユセフによる犯行で(ラムジは途中のセブ島で降機)、もともと燃料タンクに引火させ機体を空中爆発させるはずだったが、事故機は特別仕様で座席の位置がずれていたため、偶然にも最悪の事態は避けることができた。

同事件は、後にボジンカ計画と呼ばれる航空機爆破計画の予行演習として行われ、後にアメリカが事件の詳細を正確に情報分析できていたならば、9・11の同時多発テロを未然に防ぐことができたと指摘されている。

 

 

中座 義行(なかざ よしゆき)

1939年、茨城県桜川市生まれ。中学校卒業後、実家の農家を手伝うも、22歳の時に上京。その後、証券会社に勤務。1966年、ナカザを設立、代表取締役に就任、現在に至る。

 

株式会社ナカザ

〒120-0047 東京都足立区宮城1-23-7

TEL 03-3911-0166