株式会社山本製作所
中小製造業の行く末を決めるのは経営者、未来をつくる道は「モノづくりの埃を守ること」にある
〝超円高時代〟突入!!
「1ドル75円台突入、戦後最高値を更新……」。日本はいま、かつてないほどの超円高時代を迎えている。テレビや新聞では連日、「中小製造業はどうなるのか」などと報道されているが、経営者のリアルな声、「本当の現状」はいかがなものなのか。今回は神奈川・横浜の地で半世紀以上“モノづくり”を営む株式会社山本製作所を訪ね、代表の山本正人氏から同社の実情とともに、同氏の思う中小製造業のあるべき姿とは何かを聞き出した。
超円高時代を迎えて
今月19日、円相場は海外市場でついに1ドル75円台に突入した。75円95銭――。これは、いわずと知れた戦後最高値の更新である。
かねてから「超円高時代」とされているにもかかわらず、日本政府および日本銀行は円高を食い止めることができずにいる。もちろん、両者とも何もしていないわけではない。4日に行われたばかりの為替市場介入、金融緩和措置も再度検討中であり、2011年度の第3次補正予算でも円高対策が視野に入れられている。だが、現在の世界情勢を見れば円高材料がいかに多いかは言わずもがなだ。
9月初旬に発表される米雇用統計、欧州ではギリシャ支援をめぐっての金融安定基金やフランス国債の格下げ観測……。日本がその場しのぎの議論や努力をしても、この円高圧力のバックにあるのは各国の経済・財政問題であり、それが解消されない限り現状は長期化すると想定されている。
「実際のところ、その影響が私たちに直接響いてくるのはもう少し先のこと。いまはできる限りの対策をとるしかできません。とはいえ、いまの円高も戦後最高値、すなわち誰もが経験していないことなのですから、数カ月後、日本の製造業がどうなっているかというのも未知の世界です」
そう語るのは神奈川・横浜市で2代にわたり、機械部品製造をはじめとする“モノづくり”を営む、株式会社山本製作所の代表取締役社長を務める山本正人氏。
失礼な言い方だが、同氏は「中小製造業」のトップでありながら、経済学を専攻して学んできたというモノづくり経営者だ。すなわち現場の知識だけではなく、グローバルに経済を知っている。だからこそ、昨今の急激な円高に対する懸念も人一倍強いのではないだろうか。
そう尋ねると、山本氏は笑って次のように話してくれた。
「実際、企業を経営するうえで役に立つのは現場で培った経験です。いまの危機感も、父の背中を見て育ってきたからこそ、いかに大変なことなのか分かる。これから先は父も経験し得なかったような情勢。だから先は読みにくいですよね」
山本製作所が誕生したのは、1954年の8月。メーカーから独立した山本氏の父、良三郎氏の個人事業としてスタートした。当初は自宅兼工場であったため、その4年後の1958年生まれ、現在53歳の山本氏にとっては「モノづくりは、自分の近くにあって当たり前のものだった」と言う。
創業以来、モノづくり一筋
創業時は個人で工作機械部品の機械加工や組み立てを行い、そこから口コミで業界でも中堅、大手企業から仕事を受注するようになった。それから徐々に軌道に乗り、数年後には法人化、業績とともに社員数も増やしていったという。
それは当然、良三郎氏の技術力や努力が買われてのことだったが「時代の波にうまく乗った、というのもあるでしょう」と山本氏。確かに、そのころの日本は高度経済成長の真っただ中だ。多少の浮き沈みはあれども、「長い目で見れば、右肩上がりそのものだった」に違いない。
しかし、同社が他社と違った点は好景気であれども「気を抜かなかった」ことである。
前述のように、いくら高度経済成長期といっても常に業績が上がり続けていたわけではない。どのような「良い時期」であっても、売上や受発注を見れば小さくとも波があるものだ。山本製作所は、その点を楽観視して見過ごすようなことはせず、一つひとつのものに対して「最良の品質」と誇れるように、切磋琢磨してきた。
「このような状態がいつまでも続くわけがない、と思っていました。そのうちしっぺ返しというか、不況の波が訪れるだろうといった予感はしていたのです」
それはその後、2000年前後に勃発したバブル経済崩壊後の景気の急激な悪化が「影響はありましたが、廃業に至るようなものではなかった」であったとの事実を見れば、山本製作所の予感と対策がいかに的中していたかが分かる。おそらくそれは、山本氏と良三郎氏が真摯に仕事と向き合ってきたからこそ、乗り越えられた壁であろう。
だが、同氏は筆者のその言葉には微笑みを見せず、「しかし、本当に厳しい時代が来ると予感したのはそのあと、2000年以降のことですね。中国をはじめとするアジア諸国に次々とモノづくりが流れ始めていった……。多くの経営者は『一過性のもの』と思っていたようですが、私はどうしようもなく脅威に感じたのです」と厳しい表情で答えた。
業界に先立ち、中国との加工委託貿易を開始
山本氏は1980年に大学を卒業した後、あえて他社で修業することなく、すぐに家業に入った。すなわち高度経済成長の末期からバブル崩壊、リーマンショックと怒涛の時代を“中小製造業界”のなかで生きてきたのだ。
「業界、いや中小製造業の一番良い時代も見てきました。つくればつくるだけ売れる、という日本にとっては夢のような時代。いまの中国と似たものがありますよね」と目を細める。そして、「実は私は数年前から、なんとなく中国がこういった状況になるのではないかと予想していたのです」と続けた。
そこで同氏は、果敢に打って出る。2002年から取り組み始めた中国現地工場との加工委託貿易だ。同社の部長の「知り合った担当の女性が人間的にも優れ、スキルも高い方でしたので、この方とならいいビジネスができると直感し、決断したのです」。業界としては稀に見る早い段階からの海外進出であった。
ただし貿易といっても、ただ単に製品を輸入しているわけではない。簡単にいえば日本から技術者を派遣し、現地採用で作業員を育成。その後、駐在員の管理のもと製品の製造から品質管理までは一括して委託して、完成品を輸入するというしくみをとっている。
「もちろん、言葉や文化が違う国とのやりとりですから苦労も多いですが、国内と中国で生産する製品の『住み分け』を行うことでバランス良く、効率良く生産していければと思っています」
そして、ここで突然舞い込んだのが超円高時代だ。
大手企業の多くは想定する為替レートを80円台に設定していたとされ、「どんなに高くとも最悪78円台を限度としている」とのことから、現在の超円高は計算外にもほどがあるだろう。
おそらく今後は、為替リスクを避けてコスト安を維持するため、多くの企業が国内生産を減らすことが予想される。山本製作所としては、「中国にも生産拠点がある」ことを最大限にアピールするときではないか。
しかしその筆者の問いに対し、山本氏は浮かない表情を見せる。
一人ひとりが真のモノづくりに!
「もともと加工委託貿易は、『中国、アジア諸国に仕事を取られてしまうのを、ただ指をくわえて見ているだけにはなりたくない』との思いから始めたことでしたから、大部分を任せようとの気は現状、ないのです。現在、中国での生産分は全体の2割にも満たない程度。これから先のことは、まだ分かりません」と山本氏。
それは、貿易を重ねる中国の実情を知り尽くしてしまったからこそかもしれない。
急速に経済大国となった中国では、いわゆる「3K」と言われている業種が敬遠されつつある。
若者たちは野心を抱くが故に「せっかく技術者を育てても、すぐに辞めてしまう」ことが多く、「話題となっている技術の流出以前に、そのような状況では複雑な製品は安心して任せられない」というのが本音。
だが、その経験から得たものも大きい。
「数年前から加工委託貿易とともに並行して行っているのが、国内の社員の技術と知識の向上と強化。中国とやりとりをすることで、『こういうものは国内、日本でしかつくることができない』『この技術はまねされることがない』といった実態も分かりました」
その大きなきっかけとなったのが、米大手証券リーマン・ブラザーズ社の経営破たんを発端とした、世界規模での大不況。いわゆるリーマン・ショックであった。
「それまでは『受けたくても、受けられない』と嬉しい悲鳴をあげるほど、依頼が舞い込んできたのです。しかしリーマン・ショック後の1年間は週3日の稼働、ほかの2日は社員研修に充てて過ごすといった日々」
いまだかつてない大ピンチ、である。ところが皮肉にも、それこそ山本製作所が歩むべき道を決める起点となったのだ。
「研修を重ねるなかで、私たち山本製作所のウリを『社員一人ひとりが設計から製造、管理までオールマイティにこなせるモノづくり』としようと決意したのです」
それまでは日々の忙しさに追われていた。
納期とコスト、そのうえで安定した品質を守ることばかりに囚われ、「結果的に、モノづくりとは何かを見失っていた」と山本氏。それが時間に余裕ができたことで、「難しい要求だとは思いますが、社員一人ひとりが創造性をもった、真のモノづくりになってほしい」と思うようになったのだ。
「お客さまによっては、コスト、納期、品質、どれを重要視しているかが異なります。それを見定めて、とにかく満足していただきたい。それが山本製作所のポリシーです」
そして、最後に今後の目標を話してくれた。
「中国、他の諸国ではできないものを国内で私たちがつくり、それが結果として社会に貢献できれば、と思います。そのためにはやはり、技術と品質、管理力の向上。まだまだやるべきことはたくさんありますが、一つずつをクリアし、そして中国の現地工場ともうまく連携をとって成長していくことですね」
日本経済はいま、明日も見えないような状況だ。それでも山本氏のようにしっかりと着実に足を踏み出していけば、この先にどのような暗闇が待ち受けていても必ず抜け出すことができるのだろう。
山本正人(やまもと まさと)
1958年、神奈川県生まれ。1980年、日本大学経済学部卒業後、家業である株式会社山本製作所に入社。2003年5月に2代目代表取締役社長に就任し、現在に至る。
株式会社山本製作所
〒236-0004 神奈川県横浜市金沢区福浦1-15-14
TEL 045-781-1616