真似のできない卓越した焼入れ技術で最大の付加価値を創出

モノづくりにおいて盛んに叫ばれる高付加価値という言葉。震災後の日本にあって、モノづくりに対する人の思いが再確認されている今、現代の名工を擁する経営者の新たな付加価値創造のための選択に迫る。

大洋金属工業株式会社 代表取締役 東部金属熱処理工業組合 副理事長 原田 政吾 氏

 

商社から技術者に転身

同社を代表する炎焼入れ、高周波焼入れ、イオン窒化処理などの高度な技術は同じ熱処理の中でも特に職人の目や手などの感覚的なタイミングに支えられていると言われており、原田氏自身も特級金属熱処理技能士の資格を有しているが、意外なことに同氏はもともと商社マンの出身であるという。

 

「技術的なことには興味がありましたが、父がブルーカラーだったこともあり、ホワイトカラーへの憧れがあって大学卒業後は商社マンの道に進みました。ですが入社してみると現実は想像していたものとは違い、ノルマ的にも厳しいものがあって、28歳の時、精神的にも参ってしまい2週間ほど入院してしまったのです」

 

当時、大洋金属工業は、原田氏の義父の飯塚氏が資本を出していた会社だった。それが40年前に別の人物が熱処理を始めたいということで新たに創業したのだが、その人物も肝臓がんで亡くなり、今度はその子息が社長を引き継いだのだが、その方も事故で亡くなるという不幸が続いた。

 

「義父は飯塚工機製作所という鉄工所を経営していて、ピーク時には従業員が280人にまでなり、栃木の6000坪をはじめ、工場を5つ所有していました。その頃から義父は常に発想の転換ということと、高付加価値のものをつくるということを念頭に考えていました。しかしオイルショックの影響などで工場をどんどん縮小していき、その後は、将来的に他ではできないような特殊工程をやった方が生き残る術があると考え、資本を出したけれども代表者の居なくなった大洋金属工業の3代目の社長に就任しました。その後1982年に港北区に移転し、1997年、私が4代目として社長に就任しました。その間も20年ほど前に多品種少量を手掛けて業績が低迷した時も、義父は6mもある縦型の高周波焼入れ機の図面を自分で引いて導入したほどです。私も帝王学をいろいろ叩きこまれましたが、そんな中でもよく口にしていたのは、『あまり会社を大きくするな』ということでした」

 

日本の技術を世界に

飯塚氏は終戦直後バナナの叩き売りからのぼりつめて従業員280人の経営者になった人物だ。しかし社員の顔や名前も覚えられない程の規模になってくると、景気の波があった時にモノづくりの会社経営としては難しいものがあるとして、それよりも15人程度の企業ならば「独自の技術があれば、たとえ3期赤字が続いても何とか生き残ることができる」と考えた。

 

「私自身もどちらかというと、石橋を叩いて渡る方で、何か行動する前には情報収集を徹底的にやる性分ですが、義父のアドバイスは常に頭の中にありました。特にこの4、5年間は、我々のような零細企業がこれから生き残っていくためにはどうすればいいのかを考え、ISO9001を2010年に更新しましたが、単に付加価値といっても顧客のニーズがなかったり、よそでマネられる程度のものであれば、たいして意味がない。そこで今後成長が予想されるが中小企業の参入が難しいとされる航空機産業の仕事を受注するために神奈川の企業を中心とした「まんてんプロジェクト」に加盟して、その中で「JASPA」というコンソーシアムに参加するなど、企業同士の連携を深めているところです」

 

同氏は日本金属熱処理工業会の会計理事や東部金属熱処理工業組合の副理事長を務めているが、近頃は顔を合わせると、ここ5年ぐらいで相当数の企業が淘汰されるのではないかという後ろ向きの話になるのだという。

 

確かに一回の食事が数十円で食べられる国の人間がスイッチを押したものと、日本人がスイッチを押して作られたものが、最終的に品質が同じなら、仕事が安いところへ行くのは当たり前だろう。そんなものを追いかけても消耗するだけに違いない。

 

「言っておきたいのですが、原則として熱処理技術は日本のモノづくりの基幹産業としてこれからも、絶対になくなることはありません。ただ量産品に関してはまず間違いなく海外に流れていくだろうと予測していますが、他の後進国がまだまだモノづくりに関して日本を手本としていることは事実。わが社の場合では、熱処理という中心は変えずに後工程の方で付加価値の高いもの見出そうと方針を打ち出しています。時間は掛かるかもしれませんが、日本国内でもあそこしかできないというものができれば、大洋金属工業という名前を世界に発信し、引いては日本のモノづくりにも貢献できると考えています」

 

受け継がれる名工の技術

同社の熱処理技術において飛躍のきっかけとなったのは炎焼入れ(フレーム・ハード)と呼ばれる技術である。炎焼入れとは、まさに日本のモノづくりの原点ともいえる刀鍛冶とルーツを同じくし、材質に応じて一品一品自分で火色や温度、深さを確認して変えていかなくてはならない。そして加熱温度が適正温度にあるかどうかを確認して冷却する。冷却がまずければ割れが出たり、ひずみが大きくなったりする非常に難易度の高い技術で、よりベターなものを追い求めることでしかベストに近づくことはできないという世界だ。

 

そして同社にはその中心的な存在として、2009年に現代の名工にも選出された工場長の上村信水(のぶみ)氏がいる。

 

「わが社では、実際に破断検査をして金属組織や硬さ、深さを確認してこの範囲であれば大丈夫だというやり方を徹底しています。大手の場合ですと、特にラインをもっているところなどは、データをもとにやっているところが多いので、大きな部品で実際に深さが2ミリ以上と言われていたものが、研磨したら硬化層がなかったという問題も頻発してしまうそうです」

 

だからこそ、同社の年間のクレーム件数は同業他社に比べて極端に少ない。

 

「月に一件あるかないかというレベルで、あったとしても、素材に問題があったという場合の方が多くて、そういった意味でも工場長のモノづくりに対する姿勢に牽引されている面は非常に大きいと言えるでしょう」

 

熟練した技術者に支えられている企業にとって最大の懸案が後継者育成の問題だが、同社にとってもそれは同様で、

 

「昨年、同業の70年以上続いていた会社が廃業することになって、そこから一人、一級技能士を採用して工場長の下でつきっきりで学ばせているのですが、大手ですとマニュアルをつくって文書化してということがあるのですが、我々のようなところは目で見てという仕事ですから、一挙手一投足を覚えさせながら、大きな車輪のように特殊なものを焼くときは、ビデオに撮影してバーナーの位置であるとか加熱の火口の微妙な加減、時間であるとか、色を確認をさせるようにしています。一品一様なので、モノが大きいとそれだけ破断検査も難しい。本来は多能工といいますか、幅広い技術に精通した技術者を育てたいところですが、単品ものを手掛けるとなると、結局は現場で工場長が横について、注意をしながら、身体で覚えていくということしかないという結論に至りました。頑張ってくれてはいますが、工場長曰くは『何事も本人のやる気と努力次第』だそうで、まだまだ時間はかかりそうです」

 

世界が日本のモノづくりの技術を真似できないのは、日本のモノづくりの深さは、それをつくる人間の精神の深さに比例しているからだと言われている。時代の変化には逆らえないが、こうした仕事を通じての人としての在り方という文化は是非とも継承してもらいたいものだ。

 

次世代に夢を与えたい

従業員たちが今、何を考え、どうしたいのか。単純なことではあるが、なかなかそれを知る術がないと嘆く経営者が意外に多い。

 

「それぞれが何を考えているのか。何が不満で、何がいいと思っているのかを、やっぱり知りたいじゃないですか。以前はタイムカードの横に意見箱を設置していましたが、ただ置いただけでは、なかなか皆、意見を出してくれませんでした。ですが、ISO取得を機に必ずミーティングを月2回やるようになって、最初は5Sではなく、まず3Sから始めようということになり、整理・整頓・清掃する中で、気が付いたところは全部意見を出し合っていくようにしたところ、会社に対して良いところ、悪いところといった意見も次第に出始めました。それらを一つ一つクリアにして解決していく過程で、やって良かったのは『皆、きちんと見てくれている』と思えたことですね。会社の将来に対してどう思っているのかということも、『オンリーワン技術に乏しい』とか、考えていることは同じなんだなと(笑)。

 

今の若い人たちは実際に仕事に対して夢と希望が持てないでいるという面があるので、航空機関連の仕事でも実際に自分が熱処理した歯車がどこに使われているか知るということだけでも非常に自信につながると思います。

 

そういった理想に少しでも近づけるように、技能士の国家試験は3級から特級まであるのですが、3級から職能給として毎月給与にプラスして、国家資格をできるだけ取らせるようにしています。2級を取得すればだいたい現場で色が見られるようになりますからね。少しずつではありますが、着実に成果は出始めています」

 

モノづくりにおける「やりがい」は、それが人の役に立っていると実感できることで生まれる。今、日本全体で人のために何ができるかが問われている中で、復興への道のりも、そうしたモノづくりたちの矜持によってこそ支えられるべきだろう。

 

原田政吾(はらだ せいご)

1952年、大阪府大阪市東淀川区生まれ。1975年、大阪経済大学経営学部卒業後、大沢商会に勤務。スポーツ用品部の営業を経て、大洋金属工業に入社。1997年、代表取締役に就任。現在に至る。

 

大洋金属工業株式会社

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