有限会社相馬ブレード -【緊急取材】今、問われている〝人間力〟とは何か
会社から人へ──。 驚異のスピード再建!! 検証3・11後の変革
いつ果てるとも知れないデフレ不況と超円高。海外製品の洪水。加えて増税、公共料金の値上げ……。
今、この国の中小企業はかつてない苦境に喘いでいる。これを乗り切るにはもはや〝人間力〟しかないという。しかしその人間力とは一体何を指すのか。政府(人間力戦略研究会・内閣府)の講釈によると、「社会を構成し運営するとともに、自立した一人の人間として力強く生きて行くための総合的な力」だそうだが、イマイチよく分からない。
そこで分かり易い事例を一つ紹介したい。あの3・11の猛威に晒されながらも、すでに8割方復旧、更に復興に向けて、従業員を震災前よりむしろ増やしたという相馬ブレード(福島県相馬郡)とそのリーダー、藤田修氏が歩んできたこの1年半の〝検証〟である。
あの悪夢から僅か2カ月で操業再開
その日の午後、20数人の相馬ブレード(当時の工場所在地は浜通り北端の北畑地区で海岸から50mほど入った平地)の従業員たちは、普段と何ら変わらず、金属の粉塵から目を守るゴーグルとマスクを着け、緊張した面持ちで、黙々と航空機のエンジンや自動車のターボチャージャーの部品の研磨に勤しんでいたという。ちなみに1000分の1㎜のバリも残さないというその精度の高さは、国内の業者としては1、2位を争う超ハイエンドな技術力と言っていい。
とそこへいきなり、
「ドーン!という縦揺れがきたかと思うと、すぐに建物自体がグラグラと揺れてひしゃげそうになるなど、天地がひっくり返らんばかりの横揺れが続きましてね。これはいけない、大津波がくるぞと思って、すぐに避難命令を出したんです」(藤田氏、以下同)
15mを超える巨大津波が襲ってきたのは、その約1時間後だ。
「見る見ると言いますか、文字通りアッと言う間のできごとでした」
工場は言うまでもなく、家や道路、町全体が荒れ狂う海の藻屑と化したあの悪夢の、これが始まりである。テレビや新聞が繰り返し報じているので、ここでその光景をクドクドと述べる必要はあるまい。とまれ流されたのは、町だけにとどまらない。予め決めておいた避難場所に、一人の従業員がとうとう姿を現さなかったというのだ。
「聞くとご家族を案じて、工場の裏にあった自宅に走って戻ったそうです。それで最後は逃げ遅れたんでしょうね。4人の方たちが……」
終始にこやかに取材に応じていた藤田氏だが、さすがにこのときばかりは、声を詰まらせ目を赤くした。心中、察して余りあろう。その日から1週間、氏はほとんどまんじりともせず、夜を朝に繋ぎ、朝を昼に継いで考えに考えたという。
「そのときの私の頭の中を支配していたのは、ひと言でいえば無力感、挫折感だけでしたね。オレは今まで何をやってきたんだろうって。誰よりもとまでは言いませんが、それまでも必死に頑張ってきたつもりなのに、大自然の脅威を目の当たりにするとこのザマですよ。何もかも訳が分からなくなった、というのが本当のところですね」
しかし考えに考え抜いた揚げ句、その無力感、挫折感を氏はバネにし、それまでにも増して強い会社にすべく、再起を図ることになる。
きっかけは、
「津波で製品が流されて、納品できなかった取り引き先にお詫びに回ったときです。何とか1日も早く工場を再開して、製品を入れて欲しいと強く要望され、励まされたんですよ。そしたらこっちは打ち拉がれている暇なんかないじゃないですか。さっそくそのことを(従業員の)みんなに話したら、私以上に打ち拉がれている筈の彼らがむしろ、私の尻を叩き、元気付けてくれるんですね。社長、やりましょうって。そうなったらこっちも侠気(おとこぎ)ですよ。よし、どうせ再起するなら2カ月でやってやろう。心にそう決めて、みんなに宣言しました」
これが昨年の3月18日、千年に一度という悪夢から、僅か1週間後のことである。
唐突で恐縮だが、ここでこの稿の主題を先に述べておきたい。単に取り引き先や従業員から励まされて再起した、と言うのでは読者の退屈を誘うだけだと考えるからだ。事実関係からいうと同社は、氏の宣言通り震災から2カ月後(正確には2カ月と1日後の5月12日)に見事、操業を再開している。
その後は順調に推移し、前記したが今では、仕事量も震災前の約8割にまで戻っているという。要するにこの稿の主題は、まさにその2カ月間と、先に述べた震災直後の1週間に集約されていると言っていい。
従業員の失業給付申請するも僅か3日で取り下げ
ひと言でいうと変革である。それも劇的な変革である。その原動力は、取り引き先の熱い要望でも、従業員のやる気、励ましでもない。それらがきっかけになったのは紛れもない事実だが、決め手になったのはズバリ、リーダーである藤田氏自身の変革、意識改革だ。
「会社って何のためにあるんだろう。今思いますと、そんな素朴なテーマからもう一度、それも深く考えさせられたたいへん貴重な時間でしたね。会社を守る、会社が利益を上げる、会社が繁栄する。そうすると必然的に従業員は豊かになり、幸せになり、地域社会の発展にも貢献できるし、延いては国の役に立つこともできる。ずっとそう思ってきたんですが、それが実は、逆だったということに気が付いたんですよ。会社を守るのも、会社を儲けさせるのも、よくよく考えると人の幸せのため、地域や国の発展のためであって、そのこと自体が目的ではないんですね。敢えて言えば会社とはそのための〝道具〟に過ぎません。しかし道具がないと困るのも事実です。ですからみんなは、会社を何とか再建しようと言ってくれました。地域(相馬郡新地町)も、国(中小企業基盤整備機構)も、そのために協力してくれました。つまり会社があって人や地域、国があるのではなく、人があって、地域があって、国があっての会社なんですよ」
かつてのどこぞの政党のスローガンではないが、要するに〝会社から人〟へのコペルニクス的大転回──、これである。ちなみにそれを象徴するエピソードが二つほどある。いずれもその2カ月の間にあった実話だ。
会社を再建する手始めとして、氏はまず、従業員全員を一時解雇の形にする。2カ月後の操業再開まで(再雇用するまで)の急場凌ぎとして、彼らに雇用保険の失業給付を受けさせるためだ。現にハローワークに出向き、そのための手続きまで済ませている。しかしその3日後、これを取り下げに氏は再度、ハローワークに足を向けているのだ。
「分かり切った話ですが、会社ってやはり公(おおやけ)のものですよね。その意味では私自身も、公の長と言っていいでしょう。その長が、たとえ未曾有の災害があったとはいえ、他にまったく手当のしようがないというのならともかく、自分の会社を再建するのに公の金をアテにしていい理由(わけ)がありません。まずは私財を吐き出してでも資金をつくり、それでも足りなければ融資の方法を探るなど、やるべきことをまずはやってからだ。そう思い直したんですよ」
この凛とした姿勢に、経営者としての気概と能力を見て取ったのだろう。即座に動いてくれたのが町(新地町)の役場だったという。
「うるさいことは何一つ言わず、アナタの思うように使ってくださいと、すぐに土地借用を決めてくれましてね。あれには本当に助かりました」
要するに氏と同社は、工場も機械も工具も製品も全部海に流されながら、結果的に1人の失業者も出すことなく、自力で操業再開に漕ぎ着けたというわけだ。
更にこれは関係者から聞いた話だが、自ら手配し、自ら運び込んだ全国からの救援物資も、自分への配分はすべて固辞したという。
「いやあ、その話ですか。あれは私が手配したということではなく、全国のライオンズクラブの尽力で運び込まれた物資でしてね。たまたまその当時は私が地元の会長をしていただけのことです。もちろんライオンズのメンバーがいただいていけないという規則はありませんが、現に私より困っている方が多くいらっしゃいましたからね。その方たちに少しでも多く配分したいと思ったんです。当然のことじゃあないでしょうか」
蛇足ながらあの悪夢から、どれほどの苦労と悲しみを乗り越えて、ここまで立ち直ってきたかを具(つぶさ)に取材し、観察した筆者としては、これらの逸話を、よくある〝美談〟の一つとして片付けることなど、到底できそうにない。
人間、至る所青山あり
各方面から取材してみて分かったが、〝その〟兆しというか萌芽は震災前、いやもっというとリーマンショックの前からあったようだ。〝その〟というのは、言うまでもなく変革の、という意味だ。
「時々の浮き沈みはありますけど、創業から20年間、それなりに業績は右肩上がりで推移してきました。しかしこのままでいい理由はない。会社そのものを改革しなければ、おそらくこの会社はいずれダメになる。といって何をどう改革すればいいのか……。この5年から6年くらいは、ずっとそんなことばかり考えていました」
言うなればあの悪夢が襲ってきたのは、順風満帆に見えて、実は一方で経営者としての苦悶と責任に苛まれていた、きわめて微妙な時期でもあったというわけだ。
「この東北には、私以上に悲惨な思いをされた方がたくさんいらっしゃいます。その人たちのことを思うと、こんなことを言ったら不謹慎に聞こえるかも知れませんが、失われた20年といわれるそれまでの過去をきちんと総括し、もう一度イチから出直せ、もっと強くなってこいと、神さまが与えてくれた試練であり、もっと言うとチャンスでもあるのではないか。震災直後の1週間で考え抜いた、これが私の結論です」
さて、ここまで読み進まれた読者諸氏には、冒頭に書いた、政府の講釈を思い出していただきたい。人間力とは何か。少なくともその欠片(かけら)、一端くらいは、垣間ながら見ることができたのではなかろうか。
最後に同社の近況についても少し触れておきたい。
従業員数は35人。震災前に比べて10人も増えている。
「もちろん企業の責務として、地域の雇用を守るという意味もありますが、併せて1日も早い復興のため、という意味もあります。旧(むかし)に復すという復旧だけではいけません。明治時代の殖産興業ではありませんが、この東北に新たな活力と、新たな強い産業を生み出す、文字通り今は、総力を挙げて復興するときなんです」
ちなみに氏は、未だ避難所生活を続けている。再開した工場も、中小企業基盤整備機構が建設した、駒ヶ嶺の仮設工場団地といういわば〝仮の宿〟だ。しかし、人間(じんかん)至る所青山(せいざん)あり──とはこういうことを言うのだろう。ここでの再建に氏は4000万円もの費用を投じるなど、着実に根を張り、今やすっかり地に足が着いたかのように見える。
「ここを拠点にし、これから長くても2年以内には、これまで以上の、と言うよりこれまでにない新しい相馬ブレードをつくり上げて、みなさんにお見せすることができると確信しています。その根拠ですか?こう言ってはなんですが、ウチには余所さまにはない〝ジンザイ〟が豊富にあります。ジンザイのザイは材とも、罪とも、財と書きますが、うちのそれは一人残らず〝人財〟と言って差し支えありません。それも磨き抜かれた人財ばかりですからね。だってウチの商売が研磨業ですから、磨くのはお手の物ですよ(笑い)」
これもまた、人間力に違いない。
藤田修(ふじた・おさむ)
1947年生まれ、奈良県大和郡山市出身。近畿大学付属高校から近畿大学を出て、10年余りサラリーマン生活を送る。その後、さまざまな商売を経験する中、IHIがつくる航空機エンジンのタービン翼やその他部品に関する仕事に携わるようになり、これが縁で1992年、45歳で相馬ブレードを設立し、代表取締役社長に就任する。「しっかり復興して新しい会社が出来上がったら、1日も早く後継者にバトンタッチしたい。神さまがどれだけの時間を用意してくれるか分からないが、足が動き、口が利けて、目が見える間は、第二の人生を存分に楽しみたい」という。
有限会社 相馬ブレード
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