株式会社金森製作所 -あえて突き付けた〝誇りある三下り半〟
苦しいときほど男を下げるな!!
その昔、武辺(ぶへん)という言葉、概念がこの国には確かにあった。自らの心にある一切の俗様(卑しいさま)を廃し、〝武士の一分〟に命まで賭けた、闘う男たちの頑強な反骨精神である。その武辺にも似たある人物の哲学と、これまでの生き様をここで詳しく紹介したい。
低コスト・高精度を看板に、このデフレ下にあってなお著しい成長を続ける多品種・少ロットの精密板金加工業、金森製作所(東京大田区)の創業社長、金森茂氏(70歳)だ。因みに武辺オンリーの堅物というわけではない。日本の音楽界の一時代を築いたあの寺内タケシ氏も出演する本格ライブハウスを、あろうことか自社工場内に拵えてしまったという、何とも小憎らしい(?)粋人でもあるのだ。とまれまずはとくと、そのあらましからご照覧ありたい。
進むも地獄、退くも地獄!?
「分かりました。もう四の五の言いますまい。そういうことでしたら御社との取り引きは、これまでにしましょう」
東京下丸子に本社を構える、世界的に有名なあの大手精密電気機器メーカーの担当者に突き付けた、これが金森氏からの〝三下り半〟である。〝そういうこと〟とは、言わずもがなだが、納入(下請け)業者イジメだ。そのイジメについては、かつて筆者もかなり深くまで取材をしたのでよく分かっているつもりだが、内実は想像以上と言っていい。東京墨田区のとある下請け製靴業者が、筆者に対し、意味深な笑顔でこう問うたことがある。
「Do You Understand?(アナタは分かっていますか?)」
もちろん下請けイジメについて、である。少し考えてYesと答えたが、彼は相もなく変わらない微笑を浮かべながら、そのまま去って行く。後で聞いて謎は解けたが、Youは安い、遅い、煩(うるさ)いの略だというのだ。
「とにかく徹底的に叩く(値下げを強要する)んだよね。嫌ならドコドコに回すしかないって。それでいて支払いは長期の手形だよ。それも90日ならマシなほうで、下手すると180日だ。この不景気の最中、そんなんで資金繰りなんかできるわけないだろうっちゅーの。おまけに伝票がどうの、色とかサイズの区分がどうのと、品質に関係のないどうでもいいことにめちゃくちゃ煩く注文つけてくるんだよ。俺もそうだけど、職人も事務員もそのうち半分ノイローゼになっちゃってさ……」(大手靴販売会社に納めている製靴業者)
それでも廃業できればまだいいほうで、廃業したら廃業したで今度は、買い掛け金や借入金が重く圧し掛かってくる。進むも地獄、退くも地獄というやつだ。
「その辺りの事情はよく分かります。大手だからといって皆が皆そうだとは限りませんが、酷い担当者が多いのは事実ですね。どこかに思い上がりがあるんですよ。注文を出している立場という意味で。とりわけ下丸子のあの人たちは酷いですね。最低だと思いますよ。感覚が普通の日本人と違うんです。日本人ならとくに武士の出じゃなくても、相身互いとか、互いに尊重し、助け合うといった気持ちがあるじゃないですか。それがまるでないんですね。そもそも公共の精神からしてないんですよ。例えば朝、下丸子の駅からゾロゾロ大勢の社員が歩いて会社に歩いて行くじゃないですか。その通った後がタバコの吸い殻だらけだってたいへんな問題になったんですよ。苦情が相次いだそうですからもしかして今はそんなことはないかも知れませんが、いっときは歩道どころか、民家の庭にまでポンポン投げ捨てていたという話です。信じられます?同じ日本人として」(金森氏、以下同)
先ごろトップに返り咲きされた元財界総理には、是非一度自らの脚で歩き、その辺りの事実を確認していただきたいものだ。とまれ金森氏が三下り半を突き付けたからといって、かの会社の経営には何の影響もない。
「当然ですけど、それでいいんです。何も下丸子をやっつけようと思って弓を引いたわけではありませんからね。私の〝男〟が懸かっているんですよ。皆(社員)の仕事人としてのプライドが懸っているんですよ。その男を下げちゃいけません。苦しいときは尚更です。その意味で私が突き付けたのは、モノづくり屋としての誇りある三下り半ですよ」
冒頭に書いた、これが今様の武辺である。そこに俗様の打算は微塵もない。しかし、しかしである。果してそれで、会社はやっていけるのだろうか。もしやっていけないとなると、それはトップの単なるマスターベーションでしかないと言われても、何ら反論の余地はあるまい。ちなみに下丸子からの売上は毎月、4~500万円ほどあったという。
「けっして強がるわけではありませんが、実はあれからむしろ売上が伸びているんですね。500万円どころではありません。皆のモチベーションが上がったってことではないでしょうか」
今少し、詳しく話を聞こう。
堂々とケンカできる態勢と気構え
「流れの中で瞬間的に30%くらいになることはあっても、基本的に言うと、全売上高に対する1社当たりの売上比率は、10%からせいぜい20%以内に収まるよう営業努力をしてきました。早くから、単価は小さくてもいいから得意先を1社でも多く増やすという方針を、全面的に打ち出してきた効果です。その意味で言うと、下丸子にとっても影響はほとんどなかったと思いますが、ウチにとっても同じで、まったく影響はありませんね」
要するに、気持ちがすでにフィフティー・フィフティーなのである。いわゆる〝寄らば大樹〟という依存心が、氏には端っからないのだ。
「もちろん皆がWIN─WINでいければそれに越したことはありません。しかし事業を続けていくには、それが得意先であれ競合他社であれ、結果的にケンカは避けて通れないでしょう。だったらいつだって、堂々とケンカできる態勢と気構えを持っていることですよ。それが企業家のあるべき姿ってものじゃないでしょうか」
武勇伝と言っては何だが、氏の武辺に係わる逸話を今ひとつ紹介しておきたい。余り大きな声では言えないが、国税が入ったときの氏の〝ケンカ法〟である。
「納税は、国民としても企業家としても当然の義務です。一方でそれ以外にも、地域の発展や子供の教育といった重要な課題が我々にはあるんです。そんな活動の細かいところにまで、嫁(い)かず後家の小姑みたいにわけの分からないイチャモンを付けて、ほじくり回す必要はないでしょう」
簡単にいうとこうだ。冒頭にも書いたが、氏は自社工場内に、著名なプロのミュージシャンも最敬礼するほどの本格ライブハウスを拵えている。その経営母体は、氏が代表理事を努めるNPO法人(スゥイングライブ)だ。そのNPO法人に、国税はどうやら疑惑の目を向けたようなのである。
「最初はウチの計理部長と、契約している公認会計士と、税務署の職員とで書類やなんかの付き合わせをしていたんです。そしたら途中で、書類の不備か何かを見付けたんでしょうね。いきなり会計士を帰らせて、計理部長をああでもない、こうでもないと責め立てるんですよ。しかも会社のことならともかく非営利団体のことです。地域のため、社会のために良かれと思って始めたばかりの活動ですよ。細かい法律のことなんて分かるわけがないじゃないですか。それを……。アッタマにきましてね。その場で電話して、帰った会計士を即刻クビにするとともに、職員を怒鳴り付けたんですよ。あの会計士と契約しているのは金森製作所だ!お前に何の権限があってその会計士に命令を下すんだ!って」
これには後日談がある。再度話を聞きに伺いたいと言ってきたのに対し、氏は逆に税務署に乗り込んで、担当者の上司も交えて談判に及んだというのだ。結果は、
「もちろん一切お構いなしですよ。当たり前ですけどね」
現代版の、早い話が後藤又兵衛基次である。
逃避行が火を着けた持ち前の反骨心と自立心
それにしても、この見ていて痛快極まりない反骨精神は一体どこからきているのか。話は前後するが、ここらでその辺りの背景についても、少しく触れておこう。
氏は1942年、北海道旭川市に生まれ育っている。それからすると今年は古希を迎えた計算だが、お世辞抜きでとてもそんなお歳には見えない。それもその筈で、前段までの話からおよその想像はつくかも知れないが、生まれながらの〝ヤンチャ坊主〟である。
「家のせいにしちゃいけませんが、ホントに貧しくて、知らないうちに悪いことを覚えてしまったんですね。気が付いたら鑑別所上がりの不良少年ってことで、同世代の連中から兄貴分扱いですよ。何だか知らないけどチヤホヤされましてね」
そこでこれじゃいけないと思い、単身東京に出てきたのが、まだ18歳になったばかりのちょうど今(秋)頃だったという。
「いずれ必ず返すから、東京までの列車代を姉に集めてくれとお願いしたんですよ。そしたら何とかして5000円ばかり都合してくれましてね。それをズボンのポケットに突っ込んで、逃げるように旭川を後にしたんです」
いわゆる〝青雲の志〟とはほど遠い、文字通りの逃避行である。しかしこの逃避行が氏の持ち前の反骨精神と、自立心に火を着けるから人生は分からないものだ。
「東京に来てからは無我夢中でしたね。パチンコ店とか新聞店とか、とにかく住み込みで働ける職場を転々として、その日その日を必死に生きてきました。でもそれが良かったんですね。遊ぶ暇がなかったからそれなりに貯金ができたんですよ」
そこでその貯金を元手に、大型運転免許を取って始めたのが、個人の運送会社だという。
「今思うと、子供ながら起業家魂があったんですね。確かまだ、ハタチになるかならないかの頃ですよ」
果せるかな、その志を笑い飛ばすかのようにしかし、運送会社は1年も経ずして倒産する。手づるもなければ営業力もない。当然と言えば当然の帰趨だろう。ただし、それくらいでは凹まないのが、生まれ持った氏の頑強な反骨精神と自立心である。おまけに学習能力が高いときてるから、立ち直るのが早くて次は間違いも少ない。結論から言うと、それから約10年後(1973年)に氏は、現在の金森製作所を設立し、それなりの紆余曲折はあったようだが、今ではモノづくりの町、大田区を代表する屈指の優良工場として、その名を馳せているといって過言ではない。ただのヤンチャ坊主ではなかった、ということだ。
メジャーデビューするミュージシャンを輩出したい
最後に、氏の横顔にも少しく触れていただこう。
冒頭でも述べたが、小憎らしいほどの〝粋人〟である。
「自分でもギターを弾きますが、音楽が大好きでしてね。とくにベンチャーズ世代と言いますか、60年代、70年代の音楽は私の心をウキウキさせてくれます。そんな趣味が高じてライブハウスまでつくってしまったんですが、これが思わぬ人気を呼びましてね。今では開催するたびに70人ほど、多いときは100人ものお客さんが集まってくれるんですよ」
因みに演奏者は冒頭に述べた寺内タケシ氏から、街のいわゆる〝オヤジバンド〟まで幅広い層に亘っており、いずれ劣らぬ多士済々ともっぱらの評判である。
「ここからメジャーデビューするミュージシャンを輩出すること。それが今の私の夢ですね。毎月1回か2回は必ずやっていますから、もしこのステージに立ちたい、演奏したいと思われるプレーヤーがいらっしゃったら、お気軽にお電話いただくなり、お立ち寄りいただければと思っています」
関心のある向きは、是非ともホームページ(別掲)をご覧ありたい。
金森茂(かなもり・しげる)
金森製作所代表取締役、内閣府認証特定非営利活動(NPO)法人スゥイングライブ代表
1942年、北海道旭川市生まれ。18歳で単身上京。20歳で運送会社を始めるもほどなく倒産する。その後、町工場に勤めるなどして雌伏10年。31歳で金森製作所を設立する。
株式会社 金森製作所
〒143-0013 東京都大田区大森南2-8-16
TEL 03(3741)3231
内閣府認証特定非営利活動(NPO)法人 スゥイングライブ
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