株式会社丸栄機械製作所 -創業80年 円筒研削盤のパイオニア
それぞれの顧客にオンリーワンの機械を提供
新潟県長岡市の地で、創業以来80年以上、コツコツとモノづくりを支えてきた丸栄機械製作所。戦争も高度成長期もバブル崩壊も不況もすべて経験してきた老舗企業だ。その丸栄機械製作所がいま、研削盤の大量受注で多忙を極めているという。タイで発生した大規模な洪水が原因だが、そこでの復興を担っているのが、まさに同社の誇る高いオンリーワン技術なのである。3代目社長の岡部恒夫氏に話をうかがった。
タイの洪水で被災した企業の再稼働に向けて息の抜けない日々
タイの洪水で被災した企業を、日本のモノづくりの技術が救っている──。
2011年7月のモンスーン期に発生し、3カ月以上も続いた大規模な洪水は、チャオプラヤー川の流域を皮切りに、メコン川沿岸にも拡大した。世界銀行の推計によれば、自然災害としては日本の東日本大震災、阪神・淡路大震災、そしてアメリカのハリケーン・カトリーナ被害に次ぐ4位の規模で、被害総額は約4千億円にものぼるという。この洪水で、タイの主だった工業団地にことごとく浸水、多くの機械が使えなくなり、致命的な打撃を受ける結果となった。
「私どもが機械を納入していた企業も被災して、設備を更新することになり、大規模な受注がありました。現地の工場を早く元のような生産体制に戻せるよう、現在こちらも急ピッチで取り組んでいるところです」
岡部恒夫社長は、言葉を選びながらこう語る。そこには当然、被災地に対する配慮の気持ちがあり、慎重に粛々と受注をこなしていきたい思いもあるだろう。なにしろ他社がうらやむ更新需要である。
「2004年に、円筒研削盤メーカーである株式会社宮本製作所の技術を継承し、宮内工場を操業開始しました。弊社がずっと手がけてきたのは小型の円筒研削盤ですが、宮本製作所のものはもっと大型なんです。この大型の円筒研削盤をタイに納めていました。弊社の取り扱う製品ラインナップに拡がりができたことも大きいですが、今回、図らずもその大型円筒研削盤が被災し、更新のための新しい大量受注をいただくことになり、気を引き締めているところです」
受注があったのは、OA機器用ゴムローラーを加工するための研削盤。もともとの納入実績があり、高い信頼を得ていたからこそ、同社の機械が再び求められることになったのである。
「被災された企業様はたいへんな苦労をされています。そこは十分、気をつけなければなりませんが、我々の仕事は、一日も早いユーザー様の復旧に貢献することだと思っています。今年2月に受注をいただき、7月、9月、10月と3回に分けて納品することになります。10月までは、まったく息の抜けない根を詰めた仕事が続きます」
これを「特需」のひと言で片付けるわけにはいかない。現に岡部社長は、この現実を厳粛に受け止めているようで、むしろこの話題を避けたがっているようにすら感じられるのだ。ともあれ今回の受注の背景には、業績が悪化し、立ち行かなくなっていた宮本製作所の技術を継承した事実の重みが横たわっている。それが可能だったのも、丸栄機械製作所が80年の長い歴史を生き延びてきたその技術力と体力があってのことだ。
戦前から続く日本のモノづくりの力が、いま、こうした形で東南アジアに生かされている。そのことだけは間違いない。
会社の歴史80年 円筒研削盤で半世紀
丸栄機械製作所の歴史は昭和6年(1931年)にまで遡る。岡部恒夫社長の祖父にあたる岡部福蔵氏が、当時流行していたスウェーデン式スキー金具の製造から業を興したのが始まりだ。日本にスキーが入ってきたのは明治44年(1911年)とされており、最初の伝承の地は新潟県の高田(現在の上越市)。折しも丸栄機械製作所創業の年は鉄道の上越線が開通した年でもあり、日本における最初のスキー王国・新潟らしい起業といえるだろう。
やがて自家製の六尺旋盤の製造を開始するも、まもなく長岡空襲によって工場が消失。戦後は疎開先で新工場を建設し、昭和39年、東京オリンピックの年にその後の会社の基盤となる円筒研削盤の販売を開始する。時あたかも、高度成長の真っ只中である。
「円筒研削盤を始めた頃もまだ初代社長は健在で、f父が2代目になるのはここから7年後のことです。高度成長の良き時代のことは、もちろん私は話の上でしか知りません。しかしこの頃の方向転換が現在までのベースを作っていることは確かです。もちろん、そこからさらに平成のバブル崩壊を経て、時代は大きく変わってしまった。私などは良かった時代がないと言いたいくらいです(笑い)。現在はむしろ課題が山積していまして、まず、45名いる社員の平均年齢が50歳を超えてしまいましたから、ここのバランスをもう少し取りたい。管理、総務、技術など、会社全体の仕組みについて、見直す時期にきているのかもしれません」
2011年度の総売り上げは5億5千万。この数字も岡部社長は「まだまだ」と考えている。
「もっと高い数字を安定的に出していかないと、これからの時代を生き延びるには苦しいと感じています。私の父でもある会長にはまだ現役でがんばってもらっていて、特に新製品開発の際に会長の意見はなくてはならないものです。会長は一から研削盤を学んで今日まで会社を発展させて来た人ですから、経験も豊富だし、言葉に説得力があります。しかし、会長も75歳、私が45歳。そろそろ私自身がもっと主導していかなければいけない時期に来ていると思っています」
会長には会社のトップらしいカリスマ性があり、自分にはそれがない。岡部社長はそう考えているようだ。しかし、時代が変わればリーダーの行動のあり方も変わっていいはずだ。
「会長が自らグイグイ人を引っ張っていくタイプだとすれば、私は適材適所で人をうまく生かす、能力を引き出すタイプかもしれません。丸栄機械製作所に来る前は京セラにいまして、現場の生産性をいかに向上させていくか、という仕事をしていました。その経験をもっと生かして、現場の環境づくりにも自分なりのやり方で取り組んで行きたいと思っています」
ユーザーの顔が見える 小回りの利くサービス体制の強化
岡部社長は、他社にはない、丸栄機械製作所の大きな特長はどこにあると自負しているのだろうか。
「弊社の製品は、お客様と相談して仕様を決めて作るという意味で、100%受注生産です。標準機をベースにして、それぞれのお客様の細かい要望を取り入れて作っていきますので、すべての機械はお納めする会社だけのオンリーワンの一台ということになります。お客様のほうで迷いがあるようでしたら、お客様がどんな金属部品を作るのか、どんな工具や治具を作りたいのか、丁寧にヒアリングしてこちらからご提案していきます。相談相手としてどんなお客様にも小回りの利いたサービスをご提供できるところが、ウチの強みでしょうか」
丸栄機械製作所の円筒研削機が生み出す製品には、OA機器部品やAV機器部品、磁性体部品、半導体部品、結晶体、水晶発振部品、自動車部品などがあり、納入先はアメリカ、ロシア、中国、インド、フランス、イギリスなど十数カ国にも及ぶ。先に紹介した宮本製作所の吸収に伴い、本社工場に次いで宮内工場がスタート、現在はむしろこちらが主流となりつつある。
モノづくりの日本企業の多くが、生産拠点を東アジアに移し、失敗して帰ってくるのを尻目に、国内で堅実に地歩を築いてきた丸栄機械製作所。しかし岡部社長は、時代はますます厳しくなると予想しており、社内改革は必須だという。
「昔から小型の機械の会社として業界では名が通っていますし、小回りの効く提案型企業という基本理念は変わりません。しかしそこで安心していたらすぐに足許を掬われるでしょう。これからは今まで以上に特長を持った製品を出していかなければなりませんし、同じ小型の研削機の中でもバリエーションが求められると思います。NCの機械と手動機械の扱いの比率、専用機的な仕事と汎用機的な仕事のバランスも取れていたほうがいいですね。これらすべてをやった上で、なおかつ全体の品質もレベルアップさせていく。正直、そこまでやらないと厳しいと考えています」
80年の歴史を生き抜いてきた丸栄機械製作所であっても、現在のこの不況はもしかしたら、かつてない大きな壁となって立ちはだかって見える時が来るかもしれない。しかしその壁を乗り越えた時、そこには輝かしい創業100周年の新世紀が待っているはずだ。
岡部恒夫(おかべ・つねお)
1967年新潟県長岡市生まれ。武蔵工業大学(現東京都市大学)経営工学科では修士課程まで進む。卒業後、京セラに7年間勤務し。製造現場の生産性改善などの仕事を手がける。1998年、32歳で丸栄機械製作所に入り、2007年に第3代社長に就任、現在に至る。
株式会社丸栄機械製作所
【本社・工場】
〒940─2022 新潟県長岡市鉄工町2─3─54
TEL 0258(27)2774
【宮内工場】
〒940─1163 新潟県長岡市平島1─96
TEL 0258(22)1480