「二度と会社を潰さない」との思いを胸に20年、見事な再起果たす

父が創業した会社を受け継ぎ、資産総額1500億円、アメリカに5つ星ホテルを所有するまでに成長させた日総ビルディング株式会社大西紀男取締役社長。

しかし、その後のバブル崩壊により銀行管理・会社整理せざるを得なくなる。

それから20年、見事再起した大西社長から、その復活の物語を伺った。

 

前身の会社は戦後間もない横浜で創業

桜田通りに面した好立地にある、ハーフミラーのファサードが特徴的な同社の「日総第22ビル」

「苦労しましたね」。

開口一番、日総ビルディング株式会社取締役社長、大西紀男氏はそう語り出した。

 

日総ビルディング株式会社は、総合不動産ディベロッパーとして不動産の企画・運営・管理を行っている会社だ。

所有する物件はオフィスビルや商業施設、倉庫など都心を中心に30拠点を超えており、過去には集合住宅やホテルなども展開、近年も各所で開発や企画提案を行っている。

 

今は順風満帆に見える同社だが、大西社長のこれまでの経歴は著書『七転八起の人生(PHP・2016年)』の題に示されるように、苦難の連続だった。

 

「中でも最も大きな試練が、バブル崩壊からの90年代でした。日本中、どこも不動産業界や金融業界はその荒波に振り回される。その時の傷は今もそこここに残っている」

 

「失われた30年」になりつつある今。

浮かびかけてはまた沈む日本経済の中で、大西社長はどんな思いで舵を取ってきたのだろうか。

 

「私が生を受けた昭和21(1946)年、父・清輔(せいすけ)が横浜で通関と港湾荷役の仕事をする会社を設立しました。父は若い時は一等航海士として活躍し、戦時中は満鉄の子会社に出向して横浜港の倉庫や港湾管理の仕事をしていた。その時に得た人脈とノウハウを使っての再出発でしたが、これが大当たり。

戦後、進駐軍の物資の集荷基地となっていた横浜の繁栄が追い風となって、会社は一気に拡大した。

更に昭和23(1948)年には横浜駅西口にあった、倒産した製粉会社の2000坪の敷地と600坪の製粉倉庫を買収して倉庫業にも進出、東横倉庫株式会社を設立します」

 

通関と港湾荷役と倉庫。

この3つは太平洋の玄関口、物流の中心地横浜の中核産業だった。

 

 

創業社長の父が遺した3つの遺言

一代で財産を築いた清輔氏だったが、成金趣味の贅沢三昧に走ることはなく家庭では質素を旨としていた。

当時を述懐しても、あまり贅沢をしていたという思い出はない、と大西社長は話す。

 

「母が教育熱心だったので、3歳年上の兄と勉強や習い事をして育ったという覚えがあります。父は『初代は荒くれ者でいいが、二代目は紳士たれ』と話していました。

自分自身は港湾労働者の荒くれ者たちを束ねて、腕っ節を振りかざして仕事をしていたはずですが、跡を継ぐ私たちにはそれは必要ない、寧ろ学問と教養を身に付けろと強く言いつけていた。

それで慶応高校から慶応大学の経済学部へと進みました」

日総ビルディング株式会社 取締役社長 大西紀男氏

 

大学卒業後は三菱信託銀行に就職する。

「その就職の直前に父が急死しました。会社は兄が継いだのですが、自分はまず外の世界を学ぶことを選んだ。

死に際して父が遺したのが『兄弟仲良くすること』『銀行に借金して拡大しないこと』『母を大切にすること』の3つ。

その遺言を胸に、社会人としての一歩を踏み出しました」

 

しかし、と大西社長は後悔の念をにじませる。

父の3つの遺言のうち、守れたのはたった1つだけ。

それが大きな困難を彼に降りかからせることになるのだから。

 

 

慎重派の兄と積極拡大派の弟

5年間の銀行員生活を終え、兄が営む東横倉庫株式会社に入社した大西氏は、銀行出身という経歴と知識を買われて財務・経理担当役員として、兄と二人三脚で会社経営に乗り出す。

 

しかしそのコンビに崩壊が訪れるまで、それほど時間はかからなかった。

 

「兄は生来慎重派、そして大学在学中から父の手伝いとして東横倉庫の仕事に携わっていた。

対して私は積極的で、しかも5年間の銀行員生活を経て、それなりに社会の仕組みや企業の考えに触れてきていた。

事業計画を立て、銀行から融資を得て拡大路線を行くべきだと話す私に対して、兄はまず目の前の資金繰りやテナントの確保などを重視すべきだ、とそれを押し留めた」

その時、兄は「父の遺言を忘れたか」と大西氏を諭したという。

 

しかし、積極拡大を訴える若い大西氏の耳には入らなかった。

 

折も折、東横倉庫株式会社は賃貸ビル業へと脱皮を図っていた。

「兄が経営する東横倉庫が土地を所有していた横浜駅西口の開発が進んでいる時期でした。

横浜高島屋が建ち、相鉄映画劇場やダイヤモンド地下街などが次々に誕生、注目のスポットになっていた。東横倉庫が所有する2000坪の土地(倉庫跡地)に大型商業施設を作り、テナントを入れて賃貸ビル業を営むことは父の代からの夢でした。

その願いは、後にその土地に延床面積1万5000坪の商業施設を建てることで結実しました。それが今の『横浜ビブレ』です」

 

 

遺言守れず兄と別れ新会社へ

その後、1975年に東横倉庫株式会社は東伸総業株式会社に社名変更をし、貸ビル業に転換。同時に東伸総業の100%子会社として倉庫事業を新たに設立した「(新)東横倉庫株式会社」へ分離を行った。

そしてその新会社の社長には大西氏が就任する。

 

「それで、それまでのタガが外れたように積極的に打って出られるようになったのですが、そうしているうちに兄との溝が少しずつ深まっていた。

横浜駅西口前に広がる北幸地区の開発に突き進みたい私と、すでに充分な家賃収入を得ているのだから拡大は控えたほうがいいと言う兄。

結局その溝が埋まることはなく、東横倉庫株式会社を兄の東伸総業株式会社から独立させ、社名も日本総合建物株式会社に変更し、東伸総業より全株式を私が買取、独立会社としてスタートしました。1981年のことです」

 

 

急速に経営拡大し米国にも進出

こうして父の遺言を1つ、破ってしまった大西社長は、只1人で大海原に乗り出していくことになった。

「弊社はそもそも倉庫業も賃貸ビル業も業界で後発です。だから業界の常識や慣習と同じことをしていたら前には出られない、と考えていました」という大西社長はまず、当時の大家と入居者との関係に注目した。

 

「その頃大家と入居者の関係は、大家の方が圧倒的に上だった。しかし、それだと入居者は不便。

だから入居者の希望を重視する、いわばオーダーメイドのプランの提案をはじめました。

例えば、倉庫や事務所がバラバラだと不便だろうから一箇所にまとめる、その代わり入居者の希望を叶えたのだから10年は退去しないでもらいたい、という契約を結ぶ。また、お客様の不満点を聞き出し、清掃や設備の修理なども斡旋する。

こういった提案型営業というのは、当時はまだ誰もやっていなかった。今では当たり前なのですけどね(笑)」

 

こうしたサービスが功を奏し、急速に経営を拡大。

「アート・イン・オフィス」「グリーン・イン・オフィス」などの様々な新機軸のビル建築も進めていった。

 

「アメリカへの進出も果たしました。

1909年に造られた建物を購入、200億円を投じてリニューアルし、ザ・リッツカールトン・サンフランシスコホテルを開業させました。最高の内装と最高のサービスを追求したこのホテルは、開業4年目に全米第4位、5つ星の最高評価を得ることができました」

 

社名変更から10年も経たない1991年。国内でビル2万2000坪、倉庫5000坪、海外にホテル1万2000坪の営業面積を持ち、所有資産は時価評価で1500億円にまで成長、銀行からの借入も800億円を超えていた。

ここでも、父の遺言「銀行に借金をして拡大するな」というのを破っていた。

 

 

バブル崩壊後は銀行管理下に

「徐々に家賃が下がってきたのは平成4(1992)年くらいからです。膨らみすぎたバブルの歯止めをするために国が打ち出した方針が徐々にダメージになってきた。

しかし、当初はそれほど心配してはいなかった。

それまでの経験則から言っても、これほど長期で、しかも大幅にさがるとは思っていなかった。オイルショックの時だって、家賃の下落は1割程度で、しかも3年ほどで持ち直していたからです」

しかしその見込みは外れる。家賃は半額以下まで下がり、そして戻ることはなかった。

 

だが、ここで他のバブルに躍っていた企業とは違う点が大西社長にはあった。

 

「いわゆるバブル企業は、土地を買いビルを建て、そしてすぐ売り払ってしまっていた。だから資産を持っておらず借入を返済することができなくなってしまった。

しかし弊社は建てたビルから賃料や運用で利益を上げていた。それを銀行が評価してくれたんです」

 

オーダーメイドで生み出した数々のビルは、入居者の満足度、外観や設備の充実、セキュリティの高さなど、多くの点で他と異なっていた。

今後も充分な賃料が期待できる、と踏んだ銀行は大西社長を粗略には扱わなかった。

 

「普通なら物件をすぐに手放して返済しろと言ってくるのでしょうが、待ってくれた。

銀行から常務役員を受け入れ、銀行管理の下で再起を図ることになった。金利も長期金利から短期金利に下げてくれて、しかも元本棚上げ、約定弁済はしなくていい、というところまで心を砕いてくれた」

人と人の触れ合い、フェイストゥフェイスを大事にしているという大西社長。従業員との信頼関係も揺るぎないものになっている

 

会社整理で失意の底に 支えてくれたのは家族

これで何とか景気回復まで持ちこたえよう、と銀行と手を取り合ってはみたが、いつまでも景気好転の風は吹かなかった。もう高度経済成長期のような楽観は許されない時代になっていたのだ。

 

1998年、後に金融危機の年と言われるこの年、遂に再建を断念、会社整理をせざるをえなくなった。

「世間では銀行の不良債権問題が叫ばれていた。いかに弊社が優良とはいえ、それを許してくれる世相ではなくなっていた」

 

当時の大西社長の様子を、前掲の自伝より引用したい。

「国も、会社も、外部要因ではなく、内部要因によって滅びるといわれます。

家庭も同じです。

このとき、『私たちの生活をどうしてくれるのよ!』『お父さんは無責任だ!』などと罵(ののし)られ、家族がバラバラになってしまっていたら、私はここまでがんばれたかどうか、自信がありません。幸いにしてわが家の結束は固く、『お父さん、がんばって!』と口をそろえて励ましてくれたため、私はもう一度ネジを巻き直し、再生へ向けて全力投球できたのでした」

 

生き残る方法はないか。苦心の末、見つけ出したのはサブリース運営会社として再出発するという方法だった。

 

普通なら、経営者の一身に責任が集められ引きずり下ろされるところだが、大西社長の真摯(しんし)な人柄と、顧客最優先、そして経営に関してウソを言わないというその信条が周囲の心を動かした。

 

 

優秀なスタッフとともに再起へ

「1998年9月1日、日総ビルディング株式会社として会社を再スタートしました。

従業員は17人。最盛期の4分の1ほどに減らさざるをえませんでしたが、それでも残ってくれたのは最精鋭の人材ばかりでした。

潰れかけた会社からは優秀なスタッフからまず離れていくものですが、弊社は違った。皆が残ってくれた。それが心からありがたかった」

 

以来20年。物件の稼働率が85%を切ると即赤字という瀬戸際から立ち直った日総ビルディング株式会社は、社員40人を数えるまでになった。

 

現在の主たる業務の中で注目されるのがレンタルオフィス事業だ。

「従来のように1フロア1社に借すのではなく、その中を区切って様々な規模の企業に対応できるようにする。

しかし小規模であってもクオリティは下げない。デスクにコピー機、広いラウンジ、そして会議スペース。一通り揃っているので、買い足す必要はなく入居したその日から仕事を始めることができます。原状回復工事も不要ですので、これから成長する企業が使いやすいものになっています。

現にほとんどの入居企業は1〜2年で退出していきます。会社の成長に合わせて使っていただけるのがメリットです」

 

エントランス窓口の受付嬢も派遣ではなく、社員を配置し、他のレンタルオフィスとの違い、特別感を有しているというが、こういった点からも大西社長の変わらぬ顧客への目線が伺える。

同社のレンタルオフィス事業「エキスパートオフィス」のエントランス。受付嬢に派遣ではなく、社員を配置するなど特別感を出している

 

 

今後はよりシビアな舵取りが必要

大西社長は今後の情勢についてこう話す。

「私は人と人の触れ合い、フェイストゥフェイスを大事にしています。それが仕事の原点ですし、それが信頼を生んでくれるのだと思います。今後、人口減少などの要因もあり不動産業界は縮小していくでしょう。しかし、人が生活するかぎり、この仕事が無くなることはありません。時代に合わせて、必要とされるものを提供していくことが肝要だと思います」

「スクラップアンドビルドを経て、日本はまた新しく生まれ変わっていく。今後、資金力のない中小企業はよりシビアな舵取りをしていかなければならない」と話す大西社長。

 

多くの苦難を経て残ったのは人と人との繋がり、そして揺るがぬ信念から生まれた信頼だった。

 

「二度と会社は潰さない」

そう話す大西社長の胸には、幾多の困難を乗り越えてきたからこそ持てた強い気概があった。

 

 

大西紀男(おおにし・のりお)

1946年、横浜市生まれ。

慶応大学経済学部卒業後、三菱信託銀行入社。

1974年に同行を退職後、1975年に東横倉庫株式会社取締役社長に就任。

1982年に日本総合建物株式会社に商号変更。首都圏・アメリカで賃貸ビル事業を拡大するが、バブル崩壊の影響を受け、10年間の銀行管理・会社整理を経、1998年新たに日総ビルディング株式会社を設立、2003年より取締役社長、以後現職。

 

日総ビルディング株式会社

〒100-0011東京都千代田区内幸町1-3-1幸ビルディング9F

Tel:03-3580-7000

URL: https://nisso-bldg.co.jp/