シンボルだからこそ〝本物〟にこだわる―。 全国シェアの3割を占め、90年以上続く老舗企業 伝統の「旗」を受け継ぐ 3代目社長の思い – 株式会社平岩
卒業式や入学式など、学校での行事の際に壇上に飾られる絢爛豪華な学校旗。
その生産の全国シェア3割を占めているのが京都に本社を置く株式会社平岩だ。
「シンボルとして掲げられるものだからこそ『本物』にこだわったものにしたい」。
その思いを同社の3代目、代表取締役社長平岩亘氏に伺った。
戦前に達筆だった祖父が興し父の代には確固たる地位築く
「弊社の創業は昭和2(1927)年ですから、今年で91年目になります。
聞くところによると、私の曽祖父はとても達筆の人で、その腕を買われて京都で染物の下絵を描いていた。それを継いだ祖父が改めて『平岩京染旗店』として会社を興した」
そう自社の創業を物語ってくれたのは、株式会社平岩代表取締役社長平岩亘氏。
祖父・父と続いた社長職を継いで今年で16年になる。
平岩社長の祖父重太郎氏が事業を始めた頃も、今と変わらず京都は染物・織物の町だ。
多くの同業者が軒を連ねる中で重太郎氏が着目したのが、その社名に示されるように「旗」の製造だった。
「当時は旗の需要が高かった。戦前の日本では各地・各団体で士気高揚のために旗が必要とされていました。特に多かったのは学校旗。創業から4年後の昭和6年に満州事変が起こり、日本から大勢の人が開拓団として満州に移住していきました。彼らが満州各地に作った学校から、学校旗の注文がひっきりなしに飛び込んできた」
当時、まだ新興企業だった平岩京染旗店が国内の市場に食い込んでいくのは難しかった。
そのため、重太郎氏は新天地満州からの仕事を多く請け負うことで事業を軌道に載せていく。
「しかし、そんな好景気も終戦・満州からの引き上げによって終わってしまった。
その後、2代目を継いだ父の代からは国内でのシェア獲得のために頑張ってきました」
学校旗だけでなく、消防団旗や優勝旗なども手がけ、株式会社平岩(1988年に株式会社化)は「旗」市場で確固たる地位を築いていった。
親族ばかりの中で〝丁稚奉公〟10年後に経営参画し会社刷新
そんな、祖父が興し父が育ててきた会社の扉を、現社長の亘氏が叩いたのは昭和54(1979)年、亘氏が20歳の時だった。
「家族や親戚も皆社員でしたから必然的にそうならざるを得なかった。
ですから入社というよりは、昔ながらの丁稚奉公、家業を継ぐための修行を始めたという感じです。社員は親族ばかりでしたから、その小間使いのような仕事をする。そんな丁稚生活を10年やりました」
10年間の修行生活を経て、改めて経営に参画するようになった平岩氏には、その間に目の当たりにした経営への不満や意見が溜まりに溜まっていた。
「30歳にもなると、自社の問題点がどうしても気になるようになる。
特に気になったのが、社内に多くの親族が働いていること。折も折、世間はバブルの好景気からゆっくりと衰退に向かっていく時期だった。主な商品である学校旗も、少子化、学校再編が叫ばれる中で今後、需要が減っていくのは目に見えている。
それで父と相談し、社内を刷新するために親族一人一人と話をして辞めていってもらったのです」
専務の職にあった叔父から話を始めて、懇切丁寧に状況を語り、退職を促していった。
「中にはパソコンが使えないという人もいました。そういう人には身を引いてもらった。
時代が大きく変化しているのに、昔ながらの経営方法に固執していては取り残されてしまう。事業を存続させていくためには、必要なことだったと思います」
そして、最終的には自分の父である社長にも引退してもらい、自らがその後を継いだ。
こうして3代目になった平岩社長の下、株式会社平岩はほとんどゼロの状態から再スタートをすることになった。
手縫いにしかない〝迫力〟伝統的な技法へのこだわり
「全国の学校は毎年、約500校ずつ減っています。それに伴って学校旗の生産数も下落しており、現在は最盛期だった平成の大合併時期(2005年〜2007年)の約半数、年間600から700旈(りゅう)ほどです」
そう話す平岩社長が重要視しているのが、受け継がれてきた伝統的な技法だ。
そもそも、学校旗などはミシンなど機械による刺繍のほうが早く、安価に作ることができる。
しかし「ミシンと手縫いでは迫力が全く違う」と平岩社長は言う。
「職人が1針1針縫い上げたものには、重厚感と存在感があります。それが見る者に対する印象を大きく変える。
多くの人に注目され、守られていく旗に必要なそれらの感覚は、手縫いという伝統的な方法によってのみ生み出されるのです」
だから、私たちは伝統的な方法にこだわっていく、と平岩社長は語る。
事実、京都で長年培われた技術に裏打ちされた株式会社平岩の旗は、その高い品質と溢れ出る迫力によって高い支持を得ている。
海外の日本人学校からも注文 いつまでも「本物」提供したい
「2012年、東日本大震災の翌年に、東北地方の消防団から消防団旗の注文が相次ぎました。
震災時の津波によって、旗も何もかも流されてしまった消防団の人々が、震災後の苦難の時だからこそ、新しい旗を立て、そこに人の心を結集させたいと願った。その気持ちの現れだったのだと思います。
人の手から生まれた旗にはそういう力があるのです」
また平岩社長が伝統的な技術と同時に注目しているのが、クライアントとの直接対話だ。
「ネットが発達したことで、中間業者を通さずに直接クライアントから希望を聞き、提案をしていくことができるようになりました。
また現在では、弊社の名を海外でも知っていただいており、海外にある日本人学校などからも注文をいただいています」
こういった各所で使われている旗だからこそ「本物」を提供したい、と平岩社長は語調を強める。
「昔は一般の方でも、手縫いとミシン縫いの違いに気づいてもらえました。
今ではそういうことも少なくなりましたが、人が手をかけ時間をかけて生み出したモノの力を、感じ取ってもらいたい。
多くの人がそれに気づき『本物は違うね』と思ってもらえるような、そういう商品を生み出していきたい、そう願っています」
職人が減り同業者も減少 それでも技術と伝統を遺す
そんな平岩社長の努力が功を奏し、現在、先代社長の時期と比べて売上は1.5倍にも伸びているという。
とはいえ、その前途は順風だけとは言い難い。
「今、技術を持つ職人が減っています。
一昔前なら、京都の周辺で全ての仕事をまかなうことができましたが、今はそれが難しくなり、もっと地方に外注するようになっています。しかも幾つかの仕事はもう、できる者が日本に一人しかいない、という状態に陥っている」
またその結果、旗の製造業者も数を減らし、最盛期には20数社もあった業者が今は株式会社平岩を含めて僅かに2、3社。それだけで全国の学校旗、消防団・警察旗、優勝旗、果ては祭の幕や力士の化粧回しまでも扱う。
「今でも、例えば消防団旗は『正月の出初式の時に披露したい』という注文が多く来ます。新しく煌びやかな団旗を大勢が見守る中で披露することは、晴れの舞台に相応しいことと思っていただいている。
そんな誇らしい技術を失わせてはならない」
もし周囲の同業会社が全ていなくなっても、私たちは残って技術を遺していきたい、と平岩社長は語る。
「弊社はこれからも、多くの人が長年積み上げてきた技術を継承し『旗』の持つ力を広めて行きたいと考えています」
フランス救国の英雄ジャンヌ・ダルクは、兵を鼓舞する時、剣ではなく旗を振るったという逸話がある。
平岩社長もまた、伝統の技から生まれた美しい旗を掲げ、人が忘れかけている気持ちを奮い起こさせてくれている。
●平岩亘
1959年京都府生まれ。
堀川高等学校卒業後、1979年株式会社平岩入社。
2003年代表取締役に就任、現在に至る。
●株式会社平岩
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