すべてのモノには価値がある 不要な人と欲しい人をつなげ 〝ゴミバコのないセカイ〟目指す – リユース業界のトップランナー 株式会社ベクトル
最初は自分の趣味でスタートした店だった。しかし、ある転機が彼を経営者として生まれ変わらせる。
「モノには価値がある。世界からゴミバコをなくしたい」。
リユース業界の雄、株式会社ベクトル代表取締役村川智博氏に伺った。
エア・ジョーダンが欲しくて2畳半の小さな店でスタート
株式会社ベクトルは、現在全国でリサイクルショップや出品センターなど100拠点のリユースマーケットプレイスを展開しているリユース事業の会社だ。
またインターネットを通じて買取・査定・販売を行うサイトも展開している。
「創業して今年で19年。古着やグッズ、宝飾品・ブランド品など凡ゆるモノを取り扱い、売買しています」
そう話すのは同社の創業者で、現在代表取締役を務める村川智博氏。
1997年に、たった1人で開業した時から、常に先頭に立ってきた。
「スタートは2畳半しかない、小さな店でした。知り合いの居酒屋の軒先を借りて。20歳の時です」
村川社長は岡山県岡山市の出身だ。今でこそ、平成の大合併を経て人口70万を超える大都市に成長したが、村川社長が少年期を過ごした90年代初頭は、典型的な地方都市という趣きの静かな町だった。
少年時代の村川社長がハマっていたのがスニーカー集めだった。
「当時、アメリカのプロバスケットボールリーグNBAで大活躍していたマイケル・ジョーダンが私のスターでした。
シカゴ・ブルズの背番号23がとにかく眩しかった。彼が履いていたのがナイキのシューズ『エア・ジョーダン』。これが欲しくてたまらなかった」
この時期、日本でNBAの人気が高まり、エア・ジョーダンが大ヒットしていた。
日本中の少年がスニーカーに熱狂していて、エア・ジョーダンと同じスニーカーのブランド、エア・マックスは一足数万円の物にプレミアがついて数十万円にもなった。持っている人を襲ってそれを奪う「エア・マックス狩り」などがニュースになった時期でもある。
「エア・ジョーダンはシリーズになっていて、しかも限定モデルなどのレアなバージョンも存在する。
元々、小さい頃からコレクター気質で、小学生の時にはビックリマンシール、中学生になってからは切手・古銭などを収集していた。その気質に火が付いた」
「モノの価値」に鋭敏な感覚 順調にコレクションが増大
コンプリート(全種類を収集)したい。全てのエア・ジョーダンを自分の手元に置きたい。
しかし、そのためには元手が要る。
「自分がコレクターだったのは『モノ』に対するこだわりがあったから。
お金はずっと同じ額面なまま変わりませんが、モノの価値は変動する。ビックリマンシールや古銭なども、『買った時はこの値段でも、将来は値段が上がる』と考えていた。
最近実家に帰ったら、新品のままの『ドラクエ』のゲームソフトが出てきたんです。『いつか値段が上がるから、箱ごと綺麗なままでとっておこう』と幼いながらも考えていたんですね」
「モノの価値」に鋭敏な感覚を持っていた村川少年はアルバイトをして稼いた資金でエア・ジョーダンを買い込み、その中で売ってもよい物を個人同士で売買のやりとりができる情報誌に載せた。
「そうすると欲しい人から手紙が来る。一度掲載すると、20から30枚は届きます。その中から提示価格が一番高い人に売るわけですけど、ここで少しテクニックを使う。
『同じくらいの価格を出してきている人がいますから、もう少し上げられませんか?』と聞くと、相手はもっと高く出してくれる。
こうして資金を増やして、更にスニーカーを買う。コレクションの数は格段に増えていきました」
結果、20歳の頃には2000足、部屋一杯のスニーカーコレクションが誕生した。
「自分の寝るスペース以外は全部スニーカー。それほどになっても、もっと欲しかったのですから、コレクターというのは恐ろしいですね(笑)」
趣味の延長で始めた店舗が中高生の支持を受け人気に
知り合った人が所有していた居酒屋の店先を借りて、開店するまでの時間を使って自分のコレクションを売り出した理由も、もっとスニーカーを買いたいからだった。
「けれども、商売のイロハも分からない人間が始めた店ですから。最初は全く売れなかった。そもそも、その店は看板も何も掲げていなくて、それどころか名前すらつけていなかった」
当時、スニーカーだけでなく時計のGショックや古着なども扱うようになっていた村川社長だったが、売買情報誌では売り買いが出来るのに、店舗での商売は全く上手くいかなかった。
「やっと半年経ってから看板が無かったことに気がついて。近所のレンタルビデオ屋でもらったシュワルツェネッガーの立て看板に『エア・ジョーダンなど、売ります、買います』と書いて立てた。そうしたら、近所の高校生が服を買ってくれ、と現れた。それからです。店が軌道に乗り始めたのは」
当時人気があった「裏原宿系」のファッションアイテムなども店に並べた。
「木村拓哉がテレビで着ていた服を大阪とかで仕入れてきて売る。それだけで高い価格を付けても売れました。お客さんは高校生や大学生ばかり。岡山にはそういうお店がなかったからなのかもしれませんが大人気の店になった。
毎週末には大阪などのフリーマーケットを回って流行のモノを仕入れてきていたら、2畳半ではさすがに手狭になってきた」
〝独りよがりの会社〟で失敗もそれを糧にして業界の雄に
こうして近くの倉庫を借りて、それを改造して店舗を増やした。
2004年にそれが6店舗にまで拡大した時、改めて起業、有限会社ベクトルをスタートさせる。
「スニーカーが欲しいだけで始めた商売が、ここまで大きくなった。店舗が増え、自分一人では管理しきれなくなっていたので、人を雇って任せていました。
私自身、あまり人付き合いが得意な方ではなかったものですから、人が増えたのをいいことにオモテに出ずにコレクションを増やすことだけに満足していた」
しかし、それが裏目に出る。仕事を任せていたスタッフが不正をしているのを発見したのだ。
「古着を10枚2万円で買い取ったのに、帳簿上には5枚しか買っていない、と残す。それで浮いた古着を転売して自分の懐に入れているスタッフがいた。私がそれを咎めて、スタッフの上司と共に叱っていたのですが、実はその上司も同じことをしていた」
そんな不正が普通にまかり通っていることに愕然とした村川社長だったが、その原因を考えた時にふと、自分自身の理念の過ちに思いが至った。
「社長が自分のコレクションを充実させたいだけの、私利私欲のための企業なんて誰もついては来るはずがない。全部、独りよがりの会社だった。
それに気づいた時、初めて自分は経営者であるという自覚が生まれた」
それをきっかけにスニーカー集めを止めた村川社長は、改めて「経営」に乗り出す。
既にインターネットの「Yahoo!オークション(現在は「ヤフオク!」にサービス名変更)」「楽天市場」に出店し大きな利益を上げていたが、更にそれらのECモールと実店舗の在庫を一元管理する買取・販売のネットワークシステムの構築、流通インフラの整備など、急速に自社リソースを充実させていった。
「2017年度、自社システム流通額が5期連続成長を達成しました。
あの決意から15年。右往左往してきましたが、やっと経営者としての方向性が見えてきたかな、と思っています」
「モノの価値」を再定義することで使い捨て消費社会を変えていきたい
ゴミバコのないセカイへ—。村川社長は自社の理念についてそう語る。
「日本には借金が約1000兆円ありますが、民間には眠っている資産が500兆円、預貯金も1500兆円あると言われています。それに何より、戦後の経済成長の結果育まれた豊かな生活がありそこに大量のモノが眠っている」
今までの消費社会では、使われなくなったモノは廃棄されるだけだった。
しかし「モノには価値がある」。
そのモノを欲しがっている人がどこかに必ずいる。それをマッチングさせ、モノを循環させることで経済は再び活性化する。
「お金を回すのと同様にモノも回す。スニーカーは以前ブームの時、アメリカから大量に日本に流れ込みました。日本でのブームの後、今は中国で買われている。それも、日本で人気があった時より遥かに高値で。裏原宿系の店も今、8割は中国人観光客です」
経済が動けば、モノも動く。日本人が買わなくなったモノを今は別の人が買っている。
「モノは絶対で、変わらなく存在するし、人も変わらずに存在している。リユースサービスがもっと充実すれば、ただ使い捨てられる消費社会は必ず変えられる。それが『ゴミバコのないセカイ』です。それを実現できる会社にしていきたいですね」
ベクトルの頭文字「V」は、村川社長の愛してやまないナイキのロゴマークから生まれたのだという。そして社名の「ベクトル」は力の矢印、という意味だ。
右肩上がりに跳ね上がる矢印の先に、村川社長が見る、新たなる価値観の社会が待っている。
●村川智博
1976年、岡山県岡山市生まれ。
中学・高校時代から趣味でスニーカーや時計などの収集を始め、全国のコレクターとの売買の中でさまざまなノウハウを蓄積、それをもとに、1997年に個人で古着屋を開業。
さらにネットオークションのスタート時から参入して一気に規模を拡大し、2003年、株式会社ベクトルを設立。
●株式会社ベクトル
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