「被災地・遠野から世界に向けて発信したい」 僅か4年で企業風土〝 ガラリ一変 〟 – 株式会社YDKコミュニケーションズ
高い志を持ち、何があってもぶれない、諦めない。
自らの目で見、耳で聞き、口で話して、自ら率先し新たなビジネス分野を切り拓く。
そんな熱い思いと実行力に基づいた強いリーダーシップがあれば、人も組織もガラリ一変するというお手本のような事例を、あの3・11の被災地、遠野市(岩手県)で直に見ることができた。
ネットワーク通信機器・放送無線機器等の設計・製造・検査事業で知られるYDKコミュニケーションズと、その先導に努めるカンパニー社長、八巻信男氏である。
キーワードは〝一流を目指す〟─これだ。
転んでもただ起きぬ!?大震災の被害をむしろ奇貨とし、一気に高効率化と生産革新
八巻氏は目を疑った。不覚にも(?)涙が込み上げて止める術がなかったと言う。
3・11の翌朝、休日の土曜日にも拘わらず、というより、おそらく恐怖と不安と寒さで一睡もできずに夜を明かしたであろうにも拘わらず、多くの社員が続々と自主出社し、崩れ落ちた天井や壁、ガラスの破片や機器・工具の散乱した工場の内外を片付け、それぞれの持ち場を隈なく点検し、電気さえ回復すればすぐにでも業務に取り掛かれるよう、ラインやシステムの整理復旧に黙々と取り組んでいる光景を、目の当たりにしたときだ。
「みんなの熱い思いが痛いほど伝わってきましてね。何もかも滅茶苦茶になって、納期のこととか、代替工場のこととか、急いで考えて善後策を講じなければいけないという大変なときだったのに、それらもみんな忘れて、ひとり感動に打ち震えている自分がそこに佇んでいるんですよ(笑い)。
理屈抜きで嬉しかったですね。よし、そういうことならみんなのためにも、この会社をもっと良くするぞ、強くするぞと、一層深く心に焼き付けたものです」(八巻氏、以下同)
被災の痛みをも忘れさせるほどの大きな〝収穫〟が、その光景を見てあらためて確認できたということだ。
周辺を取材してみて分かったが、それも道理で氏は社長就任以来、一貫して社員を如何にモチベート(動機付け)し、如何に〝やる気と熱い思い〟を引き出すかという一点に腐心し、自らの心をインスパイアし(奮い立たせ)てきた節がある。
ともあれその辺りの経緯は後段で詳しく述べることとし、今少し3・11に関わるエピソードを続けたい。
「不幸中の幸いと言いますか、社員にケガ人はありませんでした。それに月曜日の午前中には電気が復旧しましてね。
その午後には一部ですが操業を再開できたんです。取り引き先の人も搬送の車を出すなど、親身になって手伝ってくれましてね。お陰さまで滞りなく予定通り納品することができました。
納期は我々にとって重要な生命線の1つですからね。頑張った社員のみんなも褒めてやりたいし、関係者の皆さんには、今思っても心から感謝するばかりですよ」
しかしその後も震度3からときには4、5の余震が頻発したのはご案内の通りで、もっとも激しく揺れたのは4月7日の深夜のことだった。
気象庁の発表では震度5強。3棟ある工場のうち、2号棟と3号棟で甚大な被害を被ったという。
そこで氏は、
「これを機に工場施設そのものの見直しをしましてね。まずは天井や壁、窓の耐震性を高めるべく再設計し、この際だからということで、かねてから考え温めていたプランを活かすこととし、少し大掛かりな改築をすることにしたんですよ」
3号棟に倉庫を新設し、恒温のクリーンルームをえたほか、社員全員(134名)が一堂に会しうる大会議室兼大食堂もつくった。
秋にはさらに生産ラインを再構築、作業計画の調整システムまで新たに導入したという。見舞われた災害にただ凹むことなく、むしろそれを奇貨とし、高効率化と生産革新を一気に推し進めた格好だ。
転んでもただ起きぬ──。
本来は利に敏い欲張りを皮肉っていう言葉だが、ここではその積極性と強靭な足腰に敬意を表するという意味で、そのまま素直に使わせていただくほかあるまい。
遠野進出から40年、時流に乗ってトントン拍子に業容拡大したものの……
とまれガラリ一変とはこのことだ。
氏が社長に就任した2008年当時、同社は慢性的な〝真っ赤っ赤収支〟に喘いでいたという。
当然、
「昇給もなければ昇格も無し。ボーナスは寸志で餅代程度。もちろん新規の採用もありません。無い無いづくしです。
しかもそれがとくに問題だとは誰も思っていないんですね。
これでは企業とはとても言えないじゃないですか。社長職はお受けしたものの、これはどうしたものかと、心底、悩みましたね」
それが09年以降は一転、あのリーマンショックさえモノともせず、この3年間、見事に黒字決算を果たしているのである。
3年前からは若干名ながらも新規採用をし、一昨年からはボーナスも実施、この不況時にあって年4カ月もの支給をしているのだ。
その秘密は一体どこにあるのか。
凡そのことは前段の話でお分かりのことと思うが、その前にまず、同社がどういう会社なのかを簡潔に述べておきたい。
最先端の機械技術とエレクトロニクスとの融合に拠る、この国の産業基盤であるメカトロニクスを下支えし、推し進めてきたワイ・デー・ケー(YDK、東京都稲城市)の社内カンパニーだ。
社内カンパニーとはいわば疑似分社化された自立的・独立的事業部のことで、開発・製造・販売といったバリューチェーン機能の大部分を有する自己完結型の組織である。
もちろん自らバランスシートも作成し、期毎の損益だけでなく、将来に向けた資産効率や運用等についても、大きな権限を持ち、管理責任を負うのが特徴だ。
ちなみに八巻氏は、このYDKコミュニケーションズのカンパニー社長であると同時に、本体YDKの常務取締役でもある。
YDKの歴史を紐解き、辿ると、1936年に産声を上げた吉田電機製作所(神奈川県川崎市=当時)にまで行き着く。
同製作所が今日の業態に向けての第一歩を踏み出したのは1952年、日本電気の協力工場として再編された、今からちょうど60年前のことだ。
で、その長い歴史のどの時点がコミュニケーションズ(以下、コム)のスタート地点になるかというと、搬送電話装置の組み立て作業を開始した1959年である。
これによって培われた技術が、高度経済成長期を経て、後の光通信、CATV、ハンディー無線機等の一般化と発展に連れて、大きなビジネス分野を切り拓くことになる。
その組み立て作業の主力をそっくり移管(1972年)する形で設立されたのが、YDKイワテ(岩手県遠野市)という完全子会社で、これが事実上のコムの母体といっていいだろう。
今年がちょうど40周年になる。ともあれその事績を時系列で並べると、ざっと次の通りだ。
1976年、カーステレオの生産開始。翌年、CATVの中継器製造開始。さらにその翌年、マイコン応用技術による遠方監視制御装置の設計製作と検査業務を開始。1984年、光通信端局装置の製造開始。
1989年、ハンディー無線機の生産開始と業績は右肩上がりに推移、1990年には、本体の生産技術部を統合する形で一気に業容を拡大することになる。
しかしバブル崩壊後の金融不安や市場シュリンクには、同社も多聞に漏れず抗する術がなかったようで、90年代後半から2000年代初頭にかけては、営業力の強化に向けた部署の統廃合など、ガバメントの見直しやリストラクチャリングを余儀なくされている。
そんなこんなの末に導入(2002年)されたのがカンパニー制で、伝送通信事業部とYDKイワテが統合、誕生したのが現在のコム、というわけだ。
今は無い無いづくしでもビジョンは語れる
さて話を本題、〝ガラリ一変〟の秘密に戻そう。
「言うまでもありませんが、企業の存亡はすべて〝人〟に懸っています。そこに働く人の士気と意識に懸っています。
社長に就任してみてすぐに分かりましたが、その士気と意識が余りにも低いんですね。これはいかんと思いました。
でも考えてみるとそれも無理はないんです。先ほども言いましたが、真っ赤っ赤の無い無いづくしですから。
しかも会社のビジョンが伝わってこない。ということは自分の将来のビジョンも描けない。
一般論ですが、社員の士気や意識を高める方法はいくつかあります。
毎年ドンドン人を採る。厳格な教育制度を取り入れる。信賞必罰を明らかにする。整備投資をしてハコも機械も悉く近代化していく。
そうなると競争原理が働き、社員はうかうかしていられなくなります。逆に頑張れば報われるという希望が湧いてきます。そうなるとシメたものですよ。
事業の方向さえ間違えなければ、会社は見る見る伸びていきます。しかしそれをするにも…」
人もいなければ資金もない。これが現実である。そこで氏はどう考えたか。
「ビジョンを語ることはできる。そのビジョンに向けた道程を示してやることも私にはできる。それが伝われば希望を持たせることができる。まずはそこからだ」
余談だが、氏は日本電気(NEC)出身である。
現役時代は玉川(神奈川)を皮切りに、静岡、山梨、我孫子と生産管理を中心に工場を経験。晩年はアメリカ、アジアと10年のパスポートが3年でスタンプ印が押せなくなるほど価格交渉等で飛び回った。
昨今のNECマンならいざ知らず、かつての日電マンには、あのエジソンを唸らせた男、創業者、岩垂邦彦の崇高な志と義侠心、不屈の起業家魂が色濃く伝わっているという。氏も例外ではない。
「世界に通用する、一流を目指す人、一流を目指す会社になろう」
一流とはこういうことだ、ああいうことだ。その辺りはかつて世界を駆け巡った日電マンならではの豊富な経験がモノをいう。目指すということはこういうことだ、ああいうことだ。それができればこうなる、ああなる──。
無い無いづくしの会社生活に慣れ切った社員には、おそらく即座にはピンとこなかったに違いあるまい。
しかし氏は諦めない。しかもぶれない。
それだけを考え、来る日も、来る日も社員たちと直に触れ合い、話をし、話を聞き、また話をするという使命を自らに課したという。
併せて課長以上の幹部には、日々の作業や段取りの確認をし、生産性を高めるための〝朝会〟を毎日義務付け、月に1回、自ら全社員を集めて、意識の共有を目的とした全社会を開く。
同時にその合間を縫って、新しいビジネス分野を開拓すべく全国を飛び回る。
効果が顕れたのは、
「1年近く経ったころですかね、社員の目の色がはっきり変わってきたのは。
新しい仕事も徐々に増えて、ただ歯車のように作業をこなすのではなく、〝考えた仕事〟をするようになってきたんです」
しかしここで油断するとの木阿弥である。
せっかく上がった僅かな利益を、氏は躊躇することなく先行投資に充てる。
「それぞれのスキルアップに向けた国家資格を取得するよう、奨励策を打ち出し、併せて新卒の社員を採ることにしました」
ちなみに今年も新卒者を4人採用しており、小誌が読者諸氏の手許に届くころには、赤い頬っぺをより赤くして、工場中を懸命に走り回っている筈だ。
競争に勝つ決め手はQCDプラス3S
最後に今後の方向性についても訊いてみた。
言わずもがなだが、通信・放送情報機器関連産業は、貿易立国としてのニッポン経済を支えてきた根幹の産業分野であるとともに、韓国をはじめとしたアジア勢に今、もっとも脅かされている一見危うい分野でもある。
今後それらとどう闘い、どう勝ち抜いていくのか。
「これは我々の業界に限りませんが、日本企業は日本企業の特性を活かした戦略を採るほかないと思っています。一般にQCD(クオリティー=品質、コスト=価格、デリバリー=納期)といわれますが、これは当たり前。
私どもではこれにプラス3Sと言っています。
(顧客)サービス、スピーディー(な対応)、そして顧客のサプライチェーンに組み込まれるだけの信頼を獲得することです」
お家芸のクオリティーが第一にくるのは当然として、価格や納期はもちろん、顧客のニーズをしっかりと把握し、素早く対応することで、確固たる信頼関係を築いていかなければならないということだ。
ちなみに氏は常々、「同じ仕事なら、向こうが30分でやるところを我々は10分でやろう」と、意識して鼓舞するという。
日本のモノづくりが伝統的に育んできた職人魂、起業家精神は一層大切にし、発揮しつつも、肝心のサービスマインドを置いてけぼりにしては、今後のグローバリゼーションに確実に乗り遅れる。
逆にいうと、それさえできればどの国のどの企業にも負けることはない、というのだ。
「大震災に際しては世界の多くの国、地域から、物心両面に亘って絶大なご支援をいただきました。
これからはその恩返しも兼ねて、被災地・遠野市から、我々独自の先進技術情報、斬新なマーケティング情報を、世界に向けて発信していきたいと考えています」
すでに国際的にも注目されており、来月にはオーストラリアから視察団が訪れるという。
先年設えたばかりというクリーンルームとラインを見せてもらった。これが被災にあったばかりの工場とは誰も思うまい。
ヒシヒシと感じられる洗練された空気は、最早紛れもなく一流のそれだ。
これから何をどう発信してくれるのか。筆者としても当分、目が離せそうにない。
●八巻信男(やまき・のぶお)氏
1946年生まれ。法政大学卒業。
在学時から日本電気に所属し、56歳で退職後は、日本電気の分身会社に移籍。
日米の情報・通信機器装置事業を統括し、広く次世代機器、次世代マーケットに向けた企画立案と建策に携わる。
2008年、YDKコミュニケーションズの先代社長から請われて、4代目社長に就任する。
●株式会社ワイ・デー・ケーYDKコミュニケーションズ
〈本社〉
〒028−0541
岩手県遠野市松崎町白岩20−35
TEL:0198(62)6711
〈東京営業部〉
〒206−0811東京都稲城市押立1705番地
TEL:042(377)2814
※本記事は2012年掲載号を基に再構成しています。