創業50年超、チャレンジする精密板金加工の老舗

いま、モノづくりに携わる多くの企業が苦しんでいる。国内のマーケットは疲弊し、円高、アジア諸国の急成長が追い討ちをかける。

そんな中、新しいビジネス展開の場所をベトナムに求めて見事に成功したのが、玉𠮷製作所だ。

 

なぜベトナムなのか? 本業の板金業と平行して進めるレンタルビジネスとは? そして二代目社長ならではの葛藤とは?

𠮷田弘宣社長に話をうかがった。

 

 

ベトナムには、日本にないものがある。「明日は良くなる」が信じられる環境

𠮷田弘宣社長、43歳。

まさに働き盛りの年齢だが、社長に就任してすでに10年目だというから驚きだ。

100名を超える従業員を率いる若きリーダーは、業界内で「チャレンジの人」として知られる。チャレンジの成果は、2005年5月のベトナム進出だ。

 

「国内需要の伸び悩みもあり、しばらく海外に目を向けて、いろいろ視察やリサーチを行ってきました。

その過程で、同じくアジア進出を考えていた同業者の方から、『ベトナムで工場の敷地を貸してくれるというところがある。𠮷田さんも少し出資しないか。機械の一つ二つ持っていって、やらないか』とお誘いを受けたんです。

いい機会だと思いましたが、いきなり機械を持ち込んで生産を始めるのはリスクが大きすぎます。そこでまずは、3D CADデータセンターを置いてみようと思い、2005年に設立に踏み切りました」

 

その後、ある出会いを通して、さらに工場の設立へと舵を切っていく。

「友人を介して、あるベトナム人の青年と出会いました。彼は東京に技術を学びに来ていて、やや線の細い子でしたが、とても真面目で、その彼の叔父さんにあたる方が、ビグラセラという建設省傘下のセラミックとガラスの機器を作っている会社の社長さんだったんです。お会いしてみると、会社には開発投資部門があって、いま、工業団地を建設中だという。

まだ区画整理もできていないような場所だが、優先価格で、ビグラセラとしても全面協力するから進出してみてはどうかと。こうしてバクニン省に工場を設立したのが、2008年2月のことです」。

 

 

𠮷田さんはもともと、ベトナムに対して好印象を抱いていたという。

「IT業界を中心に、アメリカがグンと経済復興をした時期がありましたね。

その頃、西海岸のサンノゼあたりを視察している時、メキシコ人が経営している大きな板金会社があったんです。そこはヒスパニック系の従業員が約50名、ベトナム人が50名。

 

そのベトナム人の50人の職場に、日本のモノづくりの感覚に近いものを感じたんですね。

道具をうまく使いながら、しかもシステマチックに物事を進めていく。

自分たちの腕でモノをつくっているという自負のようなものが感じられて、〝ベトナムの人たちって、こういう仕事ができるんだ〟と大いに感心しました」

 

 

現在、ベトナムでは30名の従業員が働いている。

ハノイ近郊で板金加工業を営んでいる会社はまだまだ少なく、Trumpf製レーザー加工機はベトナムでは初の導入事例として注目された。

現地スタッフは、いずれも日本工場で3年間、研修を受けた人ばかり。日本工場で学んだ商習慣やマナー、日本のモノづくりに対する姿勢が、ベトナムの地で芽を出しつつあるのだ。

技能検定表彰の数々

 

「皆さんから、すごくチャレンジャーだと言われます。

しかし、日本社会の閉塞感で悶々としていた自分にとっては、ベトナムに身を置くことの開放感のほうがずっと大きいんです。

けっして裕福な暮らしではないのに、行商のおばちゃんたちが街中で楽しそうに笑いながら会話しているのを見ると、〝何だろう、この明るさは?〟と考えます。

 

八方ふさがりの日本と違って、ベトナムでは、ほとんどの人が〝明日はもっと良くなる〟と信じています。

その健康さになつかしさを感じますし、単なる一つのビジネス拠点というだけでなく、もっと生活の深い部分で、ベトナムに根を下ろそうと思い始めています」

 

 

レンタル工場は公共空間 仕事をシェアし、注目度を高める効果

ここで玉𠮷製作所の沿革を確認しておこう。

創業は昭和35年。今年で53年目に入る伝統ある老舗企業である。

静岡県富士宮市に本社と富士宮工場、栃木県大田原市に大田原工場、そしてベトナムのハノイ郊外にベトナム工場と、3つの生産拠点を有している。従業員は内外合わせて100名。

半導体製造装置や医療機器を主とした精密板金部品の加工及び組立を中心に、3次元板金設計、レーザー切断加工、筺体フレーム溶接加工などを事業としている。

 

 

ベトナム進出を軌道に乗せたことが業界で評判を呼び、同業者・関連業者から相談を受ける機会も多くなったと𠮷田さんは語る。

「『オレも連れてってくれ』という同業者さんが増えてきました。私が出て行った時は、中小企業がベトナムに行く時に頼れるような良いコンサルタントもいなかったし、苦労をした経験から、自分が出会ったベトナムの人々をできるかぎり紹介して差し上げたんです。非常に感謝されました」

ベトナム工場社屋

 

成功を鼻にかけず、同業者や関連業者と、利益を分かち合いたい。日本とベトナムの双方にとって良いビジネス環境を作りたい。

𠮷田さんのそんな思いは、「レンタル工場」という新しい事業に発展することになる。Fuji Precision(フジ プレシション)の運営である。

 

「実は工場設立のために工業団地を買った時、確かに安くしてもらったんですが、1ヘクタール(約3000坪)以上でないと、売ってくれなかったんです。

そんな広大な土地に、ウチの小さな工場だけ建てても仕方がないので、先に工場を建て、それを賃貸し、家賃収入を得て、テナントさんが出て行かれる時に、もしかしたらウチの会社が拡大していけるんじゃないか、そんなビジネスモデルが可能なんじゃないか、と考えたんですね。

そこでフジ プレシションという別会社を設立し、他社さんと共有できるスペースの管理と運営をやるようになったんです」

 

敷地内には、およそ300坪の工場が4棟。400坪が2棟。

400坪のほうを玉𠮷製作所の自前の板金工場にあて、他は現在、メッキ、塗装業など、8つのテナントが利用している。

板金業とその関連会社が同じ工業団地内に集合していることにより、互いの会社が得意な分野ごとに受注を分け合い、共存共栄を進めていくことができるのだ。

 

「もともとは一板金事業者だった玉𠮷製作所が、ハノイ市近郊にあるイエン・フォン工業団地内に公共性の高い区画を作り上げたということで、会社のPRにもなるし、実際、多くの方が視察に来られ、注目されるようになりました。

日本の中小企業がリスクの小さい形で参加できて、それがもともとあまり産業のなかったベトナムにもメリットを産むとなれば、これは大きな相乗効果です。

 

このレンタル事業を始めてから、〝日本国内は会社も多いし、上位に食い込むのはたいへんなことだけど、ここなら、地区ナンバーワンの板金屋になれるかもしれない〟、本気でそう思うようになりました」

 

創業者の父との葛藤 長年の蓄積を生かしつつ、自らのやり方で

ベトナムでの事業を順調に軌道に乗せた𠮷田社長だが、かつては、会社の創業者であり、先代社長でもある父君(𠮷田昌弘現会長)との意見の衝突が絶えなかったのだという。

「先代の築き上げた内部留保がけっこうあって、それで私が冒険できた、という側面は大きいですね。そのことには感謝しています。しかし、先代から見ると、とにかく私が未熟に見えて仕方ないのでしょう。私のやることなすこと、気に入らないのです」

 

お父様は、自分のやり方を貫くと同時に、息子にも従わせようとする方だったようだ。それは息子には「強要」と映る。

「玉𠮷製作所は、会社創業日が昭和35年7月3日。だから縁起をかついで、『結婚式は7月3日に挙げろ』と、こう来るわけです(笑い)。

『これからはコンピュータの時代だ』と思ったら私をコンピュータの専門学校に行かせる。先見の明があったことは確かだと思いますが……」

 

先代の話になると、どうも𠮷田社長は歯切れが悪い。

そこには、肉親同士であるがゆえの愛憎、人の上に立つ人間同士の意見の相違など、抜き差しならないシビアな攻防があったことだろう。

 

ある時、2人の諍いはピークを迎える。

「私がとうとう耐え切れなくなって、ある日、会社に出ずに、仕事をボイコットしたことがあったんです。

その時、父本人ではなく、父の友人で、父も私も信頼しているある方から電話があって、『お父さんとは私が話すから、とにかく明日、出社しなさい』と。出社した時は私も覚悟を決めて、『このままあなたが社長を続けて自分が出て行くか、社長を引退して自分にバトンタッチするか、どちらかにしてくれ』と言いました」

 

そして先代が下した決断は……社長交代、バトンタッチだった。

それが2001年のこと。引継ぎが行われた日付は、もちろん7月3日である。

 

こうしたドラマを経て、およそ100名が乗った船の舵取りを任された𠮷田弘宣船長。

最後に、この厳しい時代、モノづくりで勝負するために何が最も必要かという質問をぶつけてみた。

 

「日本企業が海外進出する場合、例えばベトナムと日本と比較して、やはり最初は日本のほうにできることが多くて、教えることに割く時間が圧倒的に多いわけです。

そこで〝我々は日本人だ〟という意識を持つことになりますが、そこには良い面と悪い面があると思います。

良く出ればモノづくりに対する自負になり、悪く出ればエゴや優越感になる。

 

私がベトナムでうまく行っているとすれば、現地のことが好きだからだと思います。

好きだから、現地の人たちとどうやったらうまくできるか、という視点があるし、そこで事業をやらせてもらっているという意識があり、彼らから学ぶことも多い。

 

それから大切なのは、人脈と直感だと思います。

どんな人から情報を得るか、誰とパートナーになるのか、この判断はその後を左右します。

そして、経験値を重ねることも大事ですが、いざという時は、自分の直感で思い切って動いてみるというチャレンジ精神が必要だと思います」

 

事業を行う土地、そこにいる人々を好きになること。仲間を増やし、共に大きく成長していく互助関係を築くこと。自分の直感を信じてみること。

それらの積み重ねが、今日の玉𠮷製作所を支えていることは、間違いなさそうだ。

 

 

 

𠮷田弘宣(よしだ・ひろのぶ)氏…1968年、静岡県富士宮市生まれ。

高校卒業後、コンピュータ専門学校を経て、アメリカ・コロラドに留学、レッドロックス・コミュニティ・カレッジに学ぶ。

帰国後、父の経営する株式会社玉𠮷製作所に入社し、2001年から代表取締役社長。

レンタル工場を運営するフジ プレシション代表取締役社長も兼任している。

 

 

株式会社玉𠮷製作所

本   社/〒418-0006 静岡県富士宮市外神147

TEL:0544-58-1501

大田原工場/〒324-0045 栃木県大田原市実取760

TEL:0287-28-2111

URL:http://www.tamayoshi.co.jp