渋江精密工業株式会社 – 「東洋のスイス」で64年 親子3代、地方に根ざして受け継いできた事業と 〝古くて新しい技術〟
「東洋のスイス」とも呼ばれる長野県諏訪市。
そこで精密部品の生産を続けて今年で64年目の渋江精密工業株式会社は、同様の部品メーカーが生産を海外に移す中、諏訪で続けることに誇りと自信を持っているという。
その理由を今回は、昨年10月に3代目の社長に就任したばかりの渋江祐貴代表取締役社長と、先代社長の渋江利明取締役会長に伺った。
精密機械製造の町、諏訪
「創業者である私の父が、生まれ故郷の諏訪で精密機械の製造会社を立ち上げたのは、昭和26年のことでした」と、先代社長・現在は会長の渋江利明氏は語り出した。
戦前、技術者を志して諏訪を旅立ち、のちに茨城大学工学部になる多賀工業専門学校を卒業した創業者は、その後石川島造船所(現IHI)でガスタービンの開発に携わる。
終戦後、彼は石川島造船所が戦時中に芝浦製作所と共同出資して設立した石川島芝浦タービン株式会社が昭和25年、新たに長野県辰野町に作った芝浦ミシン株式会社(後、昭和37年にIHIに吸収合併)の工場で勤務するようになる。
「終戦直後は日本各地で労働争議が盛んだった時期です。この諏訪地方でも、待遇改善をめぐって工場労働者が工場主ともめていた。ストライキとデモが続く毎日に、根っからの技術屋、機械を触っていれば寝食すら忘れてしまうという父は、ほとほと嫌気が差してしまった。それで工場の職を辞することにした」
当時の諏訪地方では、明治大正期に栄えた製糸業の衰退に伴い、新たな産業が模索されていた。
元来の気候風土から精密な作業を得意とする人々が多かったこともあり、徐々に機械部品を作る会社が増えてきていた。
代表例が昭和18年に東京から疎開してきていた株式会社第二精工舎(現セイコーエプソン株式会社)だ。腕時計などの精緻な工業製品を作る工場や企業が集まるに連れて、諏訪地方は盛況を呈するようになっていった。
その中で、渋江精密工業株式会社も産声を上げる。
「スタートさせたのはいいが、さて何を作ろう。
当時、諏訪市にあった三協精機製作所(現日本電産サンキョー株式会社)がオルゴールのムーブメント製造で世界のトップシェアを占めていたのですが、その部品の製造から弊社は始まりました」
金属部品の加工には今も昔も旋盤という機械を用いる。
今では大型の旋盤で大量に作り出すことができるが、当時は小型の卓上旋盤で一つ一つ作っていた。
「父のプライドがそうさせたのか、その仕事の丁寧さが評判を呼んで、会社は軌道に乗っていった。その後は日本の経済成長と共に、順調に業績を伸ばしていったのですが、その中で父に先見の明があったのだな、と思うのがスイスのメーカーから購入した当時最新鋭の自動旋盤を導入したことです。昭和43年のことでした」
当時、日本全国の金属加工業者が使用していたのは、スイスのものをコピーして国内で作っていた国産の自動旋盤だった。
それを渋江精密工業株式会社では、わざわざ商社を通してスイスから取り寄せて使った。
「やはり、父の機械への信念がそうさせたのかもしれません。無類の機械好き、根っからの技術屋だった父にとって良いモノを使い、良い製品を生み出すことが何より大事だったのだと思います」
今も渋江精密工業株式会社のアピールポイントは自動旋盤と、そして現在は同じくスイス製のエスコマティックという機械に移り変わっているが、常に最優秀の機器を用いて、精巧・高品質な部品を大量にかつ安定して供給できるということだ。
「そういった機械への信念というものは、創業者の父の姿勢から教えられたと思います」と、その跡を継ぐことになる渋江利明会長は笑った。
技術屋の初代、経営の2代目
順風満帆に進んでいると思われていた会社に暗雲が垂れこめ始めるのは、創業以来密接な関係にある三協精機の業態の変化からだった。
「創業以来のオルゴール部品から始まってテープレコーダーとか8ミリカメラの部品なども引き受けて生産していたのですが、昭和45年のニクソンショックから円高が始まると輸出商品が低迷して、それらからの利益が無くなってしまった。
徐々に注文が無くなり、結局オルゴール部品の生産だけ残ったのですが、それだけではどうにもならない。それでエスコマティックという機械を導入した。これだと自動旋盤よりさらに細かく、しかも大量に部品を作ることができる。これを前面に押し出していこうと考えた」
そんな状況の時に入社してきたのが渋江利明氏だった。
「私は東京電機大学の電子工学科を卒業したのですが、技術屋では全くなかった。卒業後、当時の電電公社の子会社に就職したのですがそれも、その会社は海外にネットワークを売る会社だったので、そこで働いていたら海外に行けるかも、海外で働きたいな、というそんな考えからでした」
そんなサラリーマン生活を送っていた利明氏が、父の命令で強引に諏訪に引き戻されたのは25歳の時だった。
「嫌々東京から帰ってきたのですが、じゃあ今の会社で自分のやるべきことはなんだろう、と考えた時に、父が苦手な部分をフォローすることではないかと考えた。
父は会社が儲かっていようがいまいが気にしない人。ですから自分が経営を見て、そして新しく販路を開くために諏訪を出て東京や名古屋の業者を回って歩こう、と思ったんです」
そうやって新たな得意先を開拓していく中で、セイコーやシチズンとの関係も生まれた。現在では会社で生産する部品の半数以上は時計の部品となっている。
「そもそもエスコマティックはスイスで時計部品加工用に開発されたもの。
こういった弊社だけが持っていて他社にはない大きなメリットをアピールして、各社との関係を築いていきました」
社長職を譲られたのは、利明氏が33歳の時だった。各地を飛び回り会社経営に励む利明氏を見た父に「やってみろ」と言われたのだという。
「とはいえ技術については門外漢だったので、三協精機にいた仲の良い同年齢の技術者を呼んで来て、また自分の弟も引き込み、この2人となら自分でもやっていけそうだ、と判断して社長に就きました」
以来、35年。幾多の苦難を乗り越え見事に社長職を務め上げた利明氏は、次の世代にバトンを手渡すことになる。
「祖父が造ったこの会社に入りたい」
「私は最初からこの会社に入りたい、この会社を継ぎたいと思っていました」と話すのは昨年10月に3代目社長となった渋江祐貴氏。
「私は幼い頃から、創業者の祖父に憧れていました。祖父が創り、そして伯父の2代社長が受け継いだこの会社を、今度は自分が引き継がなければならない、と」
大学は2代社長利明氏と同じ東京電機大学に進学(これは偶然なんです、と祐貴氏)。そこで物質工学を学び、願い通り渋江精密工業株式会社に入社する。
以来今年で12年。技術ひと筋に歩んできた。
「入社後すぐに弊社を襲った大きな荒波がリーマンショックでした。
これによって既存部品を中心に売上げが激減、大打撃を受けた。そこから立ち直るのに悪戦苦闘しました」
その泥沼から立ち上がることができたのも、長年交流を続けていた顧客のおかげだった。
「以前から関係があった株式会社椿本チエインの工場が4年前、大雪のために天井が落ちて、一部操業できなくなってしまった、ということがありました。その時に、それまで内製でまかなっていた部品をこちらに引き受けてもらえないか、ということになった。
それが自動車エンジンのタイミングチェーン。株式会社椿本チエインはタイミングチェーンの世界シェアの33%を持っている。それで売上の中での自動車部品の比率が一気に上がりました。
今ではソレノイドという自動車のライトを駆動させる部品も作っており、売上の中での自動車関連部品の比率は6割を占めます」
改めて、3代社長祐貴氏に今後のことについて伺った。
「私も伯父と近い年齢、34歳で会社を引き継ぎました。いま、ようやくリーマンショックからも立ち直り、良い状態になってきていると思います。
ですから、私の使命はこの会社を存続させ、技術を維持し続けていくことだと考えています。
実は旋盤の技術などは、最先端とは真逆の、うんと古い技術。カム式の自動旋盤やエスコマティックなどは、他社ではもう使っていなかったりする。ですが、だからこそ弊社ではその効率と精度を極め、他社や外国と立ち向かっていきたいと考えています。
実は弟も社内にいて、財務経理を見てもらっています。2代社長と同じように、自分にもパートナーがいる。
兄弟でチカラを合わせて、これからも会社を盛り立てていきたい」
2代社長利明氏が最後に、こう話してくれた。
「3代社長が入社した時、『祖父の創ったこの会社に入りたい』と言ってくれたんです。その言葉が嬉しくて、忘れられない」
諏訪市の製造業者は平成13年には250社・従業員数6500人を数えたが、平成26年には175社・4400人にまで減少している。
そんな中で新たな社長を迎え入れることができた渋江精密工業株式会社の姿は、事業を続ける・技術を受け継ぐとはどういうことか、ということを示してくれているようだった。
●渋江利明
昭和24年生まれ。東京電機大学卒業後、当時の電電公社の子会社に就職。
25歳の時に渋江精密工業株式会社に入社。33歳より代表取締役社長。昨年より取締役会長。
●渋江祐貴
昭和58年生まれ。
東京電機大学卒業後、渋江精密工業株式会社に入社。昨年、34歳で代表取締役社長に就任。
●渋江精密工業株式会社
〒392-0015長野県諏訪市大字中州4600第一精密工業団地
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