有限会社平野鋳造所 – 冶金学を応用した 新しい技術で 強靱・高剛性を実現
平野本社工場
今現在、常識とする既存の技術に疑問を持つことからスタートし、新しく開発した技術はJIS規格をはるかに超える。
そして、その技術を活かして顧客の「困ったこと」を解決することで信頼を得て、さらに顧客は広がる。
増大、多様化する需要に応えて工場を新設し、増産体制を整えているが、無理をしない「小じっかリした会社」を目指している。歴史観に基づいた、独自の「平野流経営哲学」である。
月産340トンの新本社工場の建設
静岡県掛川市にある平野鋳造所は砂型鋳物の専業メーカーだが、2012年5月を目途に8億5000万円で新本社工場を建設し、月産能力を2倍にする。
しかし、鋳造業界が好調だという話は聞かない。鋳造はあらゆる製造業に欠かせないものだといっても、リーマンショック以降の景気低迷や国内産業の空洞化の上に、中国やアジア諸国との価格競争で、適正価格の維持すら困難になっているのだ。
が、平野社長の説明によると、平野鋳造所の受注量が伸びている原因は独特の特有な品質、ノウハウにあるのだという。
その独自の鋳造技術を持つ平野鋳造所は、戦後の1950年(昭和25年)に現会長の平野健氏が平野技術研究所として設立したことから始まった。
戦前、日立精機の設計技術者だった健氏は装置、機械などの研究開発を始めると、特許や実用新案を20件以上取得し、製茶機械の製造販売を始めるが、1957年に鋳造部品の調達が困難になり、鋳造工場を建てて自家製造を始めたことがきっかけで平野技術研究所から平野鋳造所に変わったのだった。
が、燃焼炉や熱交換機の改善など、研究所としての性格は失わず、1979年に入社した登志彦氏にもDNAとして現在まで受継がれている。
芝浦工業大学を卒業した平野登志彦社長は入社当時の状況を次のように振り返る。
戦後の日本の鋳物は強度がなく、手ハンマーでポンと叩くとすぐに割れるもろいものだったので、信頼は非常に低かった。あまり改良の動きがなかったのは「技術に対する意識において、欧米ではドイツのエンジニアやマイスターのようにイノベイティブで、既存の技術を改善して新しいものを生み出そうとする試みがあるが、日本では技能を深め、完成度を高める」と言う伝統にあると平野社長は洞察する。
また、米では80年ぐらい前にドイツ系アメリカ人のミーハンが強靱鋳鉄のミーハナイトメタルを開発して鋳鉄の信頼度を飛躍的に上げ、その後も球状黒鉛鋳鉄など、数種類の鋳鉄が開発されて、戦時中には欧米と日本の技術力に大きな品質格差が生まれたのだった。例えば冶金学を駆使して造られた欧米の戦車と、日本製では装甲盤の強度に大きな差が現れたのだ。
戦後になって日本の技術革新は試みられたが、欧米を越えるような成果はえられなかった。戦中・戦後、良い材料がなかったこともあったが、鋳鉄の技術は1970年あたりまでに確立されたと誰もが思い込んでいて、その「常識」がネックになっていたのである。
そのため、「今日の技術もそれに多少味付けした程度だから、JIS規格もそれに沿った低いレベルのもので、ユーロ圏の規格もそんな状態」だと平野社長は言う。
だが、平野社長は常に今の技術に疑問を持ち、新しい問題に直面する度にそれを解決してきた。その中で強靱、高剛性を追求して開発したのが肉厚で「鬆」などの欠陥が少なく、密度が均一な鋳鉄だった。
それは鋼に近い材質で、しかも生材で使えるものである。もちろん焼きいれ期待硬度は非常に高い。JISの基準にない良さを持ち、今までの鋳鉄の殻を破るものだが、それが顧客に徐々に認められ、浸透してきたことで生産が追付かなくなり、新工場の建設になったのである。
技術を伝えるとは
平野製品群
平野社長が入社して驚いたのは、「右も左も分からなかった私の質問に誰も答えられなかった」ことだと言う。ただ作業を知っているだけで、鋳物、鋳造の本質を知らなかったのだ。
今でも、社員教育で「百教えて一つぐらいしか残らない」と嘆く。労働集約形で、動けば仕事をしていると思うようになっているのである。そこで、平野社長は全て事務所(机上)でプログラムを作り、現場では作業だけで、職人が考えたり、迷ったりする要素はなくしているので、真面目に働けば製品が出来るようになっている。
それでも作業の本質をなおざりにしている訳ではない。職人としての修行は全くしなかったが、理論的に鋳造技術を研究し、全体を把握していた平野社長は、社員があまりにも指示を聞いてくれないので、黙って3年間作業をやって見せた。そして、ベテラン職人の三倍以上の仕事量を実現させた。
そうなると、最初は耳を貸そうとしなかったベテランの職人も、「どうしてそんなに出来るのか」と聞いてくるようになり、職人の聞く用意が出来たことによって平野鋳造所の売り上げは三倍以上になったという。
自分の仕事に対して「何のために」「何をやっているのか」という認識を共有することが重要で、
「何人かが同じ方向を向いてくれた時に大きな力が出る」のである。言い換えれば、目的意識を共有することで質と量を高め、意欲のある者はさらに伸びるのである。
平野社長はそれを繰り返してきたが、「分からない人にはまずやって見せる。次にやらせてみて、検証し、誉めて育てる。」のだと言う。現場を軸にいつも引き上げる努力を続けているのだ。(山本五十六の語録)
しかし、技術の伝え方、教え方も昔と今では質的に違ってきたと言う。
昔は徒弟制度で、親方の技能を見て、感じて、怒られ、殴られて仕込まれ、職人として個別の技術・技能を身に付けた。が、今は給料を払っているから、働かせるために技能を教え、覚えてもらうのだ。
また、社員教育とは違うが、「現実の仕事の中で、おかしな点や問題点が一杯ある。だから、現場で実験、試験を繰り返してやっていると面白いものが出てくる」と言う。
鋼に匹敵する強靱な鋳鉄もその一つだが、「ここが学者と違うところだ」と言うのは、優秀な彼らは新しいジャンルには挑戦するが、既存のものには興味がなくて手を付けないからで、現場の人間だからこそ出来る実験や開発なのだ。
こうして、「研究所時代」のDNAを受継いで新しいものを開発している平野社長だが、ショックを受けた出来事があった。2006年(平成18年)に耐溶湯浸食壁(鋳造装置の壁面構造)で特許を申請すると、大手が邪魔に入ったのである。「鳥には烏や鳩などあるが、全部鳥だと言う論法」だった。
訴訟になると時間と費用がかかる上、内容を全てオープンにしろと言う。それで負ければ、バカバカしいから止めたのだった。
また、技術を正当に評価しない企業もある。それは大手自動車メーカーで、数億の経費削減が出来たことで担当社員を顕彰したが、開発、提案、製造した平野鋳造所の名前はどこにも出て来ない。
多額の経費の節約が出来た上に最近、事も在ろうにこちらにコストダウンを要求して来たので、その仕事は全て断った。今でも月数千万の経費の節約が出来ているはずだが、それを評価しようとしないのだ。知恵や努力にお金を払わない典型であった。残念でならない。
下請けは殿様商売
平野社長は「企業の環境は二種類ある」と松下幸之助の言葉を引用して、「企業の業績の半分は政治・行政で半分は自助努力による」と言う。が、幸之助は、半分の政治・行政によるものに責任を負わないと言っているのではなく、「10年後の自分の会社が見通せない者は経営者ではない」とも言っているように、それを含めての経営を言っているのだ。
つまり、航海や登山をするのに、自分でコントロール出来ないと言って自然現象を考慮しなければ遭難するのである。
また、平野社長は「下請けは殿様商売」だと面白いことを言うが、それは、客と業者の関係が「これを頼む」「やってやる」だからだそうだ。平野鋳造所はバブル後の平成5年が最低だったが、それを境に主要な顧客のほとんどが入れ替わった。経済環境の枠組みが変わったことで気付かされることが多く、その一つが「やらせて下さい」と言う姿勢が第一だということだった。
平野社長は今までの経験を通して「ユーザーさんが何を欲しているかを見抜くことができる」と言う。そして、顧客の困ったことに、試行錯誤を通して蓄積された技術で対応する。大手企業が全国を回って鋳物で試みて諦めていたものも多く、それを「駄目元でやってみよう」となるのだが、「うちにすれば二番煎じのものが多く、ほとんどが自然体で出来るもの」である。それで信頼を築き、中には、「物作り大賞」を取って、「鋳物が出来ていなければ実現しなかった」と、饅頭持参で感謝されたこともあった。
今、140社の取引先があるが、信頼を得ると、「次から次にお客さんが客を紹介してくれる」のだ。紹介は信頼であり、それだけで仕事は決まったようなものである。
だから、これから中小企業が生き残るためには、殿様商売の下請け根性を改めて、独自の技術、ノウハウを持つことが重要な要素なのだ。
組織は「飯を食わせるため」にある
また、平野社長は「全ての組織は飯を食わせるためにある」と言う。『三国志』「史記」などの歴史小説から学んだことで、人を動かすのは飯を食わせるかどうかにかかっていて、人は感覚的に飯を食わせてくれる人に「この親分は大丈夫だろう」と付いて行くのだと言うのだ。
そう言えば、ケチで日頃から粗食だった徳川家康は、戦場ではもっと粗食だった。「大将だからもう少し旨いものを」と勧めると、「儂はここで指揮を執っているだけで、実際に戦っているのは兵だから、旨いモノがあれば兵に与えよ」と指示したのである。
また、人は高く評価してくれる人に忠勤を励むもので、藤堂高虎が次々と主君を替えたことはよく知られているが、最後は家康に22万石で仕え、外様なのに譜代大名格(別格譜代)として遇されたのだった。
1997年(平成9年)に社長に就任したが、「実際は先代社長が1981年に市会議員になった24歳の時から全ての業務を引き継いでいるので、実質30年になる」と言う平野社長は、歴史観、世界観を基に経営を考えるべきだとし、「小じっかりした会社」を目指している。
小じっかりした会社とは、「少々のことではへこたれない会社」ということで、無防備に拡大せず、こつこつと最低限の範囲で企業活動をするのである。新工場への投資額8億5000万円も最低限の範囲ということになるが、中国などの安い鋳物が市場を浸蝕しても、日本人の感性を駆使した高品質な鋳物では日本の優位性は揺るがないという自信があるのだ。
そんな背景のもとに平野社長は、「需要が減る中で需要を拡大する時代に入った」と時代の流れを読むのである。 ■
●プロフィール… 平野登志彦 (ひらの としひこ)
静岡県出身。1956年(昭和31年)生まれ。55歳。1979年(昭和54年)芝浦工業大学工学部機械工学科卒業。同年、平野鋳造所に勤務。1997年(平成9年)平野鋳造所を法人化し、代表取締役に就任。
有限会社平野鋳造所
〒436-0222 静岡県掛川市下垂木2356-1
TEL 0537-22-5258
従業員数:19名