榛葉鉄工所 ‐ 100年企業に向けて 愚直に、シンプルに、 然れどアクティブに
─工業の〝工〟の字は、その形からも分かるように、自然科学と人々の暮らしをつなぐ蝶番、つまり技術者の役割を表しているそうですよ─。
モーターサイクル(自動二輪)用マフラーのトップメーカー、榛葉鉄工所の3代目社長の榛葉貴博氏(41歳)の言葉だ。今後どういう指針、方向性を以って社の舵取りをされるおつもりかと問うた記者に対し、即座に返してきた謎かけである。さて、そのココロは…。
モーターサイクル用 マフラーのトップメーカー榛葉鉄工所
匠の技… 標準化できない、が標準!?
斬新で高度なスキルを開発するには、
自分自身が積極的に変わっていくこと
言うまでもなく謎かけの解は〝モノづくりの本分〟を説いたものだが、問題はその意図である。何を以って今さら〝工〟の字を持ち出したか。もしそれが単に作業性や技術力というのであれば、すでに日本のそれは韓国や中国、シンガポールなど東アジア諸国に追い付かれているし、電子、通信など特定の分野では逆に遅れさえとっている。
そこへきてこの超急激な円高、先進国中もっとも高いまま放置されている法人実効税率、一向に進まない自由貿易交渉、さらには大震災によるサプライチェーンの寸断と2重ローン問題、おまけに電力不安である。少なくともここは、建て前やキレイごとで乗り切れる局面ではない。構造的という意味ではあのドルショック、オイルショック、リーマンショックのときよりはるかに深刻だ、という専門家も少なくないのだ。
しかし、
「かといって我々製造業者に、製造以外の何ができます? 金融業者や貿易商社ならここはいろいろと才気に走る場面かも知れませんが、我々にはモノをつくることしか生きる道はないのです。政府の無策を詰ったり、不景気を嘆いたりしても何も始まりません。だとしたらやることはきわめてシンプルです。工業の原点に戻って、暮らしに役立つモノ、人々に喜んでいただけるモノを、試行錯誤を繰り返しながら研究し、開発し、形にして世に送り出していくことです」
と氏は、とくに気負うでもないが、しかしキッパリと言い切った。そういえば〝工〟はたくみ、とも読む。意味はたくむ(工夫を巡らす)こと、考えることだ。
「もう少し具体的にいうと、旧来の慣習ややり方に囚われることなく、常に時代を先取りし、それに応じた斬新で高度なスキルとノウハウを独自に開発し、身に付けるべく、自分自身が積極的に変わっていくことだと考えています」
要するに、愚直に、シンプルに、然れどアクティブに、ということだ。
これが氏の、冒頭の言葉の意図するところである。トップリーダーとしての氏のスタンスであり、氏が示す大きな意味での指針、方向性である。
そして、これから述べるが、創業以来60有余年に亘って脈々と受け継がれてきた、実はこれが、この会社のスピリッツでもある。
頑固一徹、ワンマン経営者の功と罪?
というわけでまずはこの会社、榛葉鉄工所がどのような会社なのかを見ていこう。
略称「SIW」。といってもピンとくる人は少ないかも知れないが、あのKAWASAKI、SUZUKIに代表されるこの国のモーターサイクルの歴史と、半世紀にも亘って軌跡を一にしてきた、オートバイ用マフラー(排気管)のトップメーカーだ。
創業は1947年。氏の祖父、榛葉寿太郎氏が始めた個人経営の町工場、機械切削加工業者である。氏は腕っ扱きの機械工でしかも根っからの職人気質。善くも悪くも頑固一徹の人だったと伝えられている。しかしそれがむしろ信頼と好感を呼んだのだろう。創業から僅か10年余りで川崎航空機工業(当時)単車部門の、さらにその7年後には鈴木自動車工業(同)の、それぞれ協力工場に認定されている。もちろんそれに連れて業績もうなぎ登り。その間、同社はなんと、毎年〝倍々ゲーム〟といっていいほどの驚異的な成長を遂げているのだ。
これは戦後復興、朝鮮戦争特需、神武・岩戸・いざなぎ景気など、高度成長期という時勢の後押しもあったろうが、それだけで済ませられる話ではない。氏に先見の明があったればこそである。それが証拠に、常に先の受注を見込んで次々と工場を増設するほか、当時としては最先端の高価な高圧受電設備や大型プレス機をいち早く導入するなど、〝儲けたカネ〟のほとんどを設備投資に向けているのだ。要するに職人としてだけでなく、経営者としても頗るつきの腕っ扱きだったというわけだ。
ただしこれまた善くも悪くもだが、超のつくワンマン経営者だったようである。
もちろん好況時であればそれで何の問題もない。しかしそれも、利益を上げる→分配する→納税する→という企業活動のベース、という意味においてだ。そのベースが出来上がってしまうと、今度は弊害のほうが俄然多くなる。ことに現在のような不況時はなおさらだ。言うまでもなく、人が育ちにくい、という意味においてである。それもそうだ。前述した貴博氏の言葉を借りれば、〝工〟の意味するところとはまるで正反対の、ただの作業員で十分にやっていけるのだから。
そこで、
「今のうちにこの体質、この空気を根底から変えていかないと、絶対に、我が社の将来はない」という強い思いの下に、徹底した意識改革に乗り出したのは、寿太郎氏の後を襲った2代目社長、榛葉正志氏(現・代表取締役会長=貴博氏の実父)である。
そこに夢や感動はありますか?
やり甲斐はありますか?
しかしそれは、口で言うほど簡単な話ではない。それもその筈で、創業から足掛け35年、一人ひとりの体の芯にまで染み付いた長年の〝クセ〟を、そっくり変えようというのである。そこで氏はどうしたか。こんなことを言うとご本人にとっては不本意かも知れないが、打つ手、打つ手が何もかもセオリー(定説)の裏をいく文字通りの、奇策なのだ。
たとえば、今や同社の代名詞ともなっている、匠の技と脱・標準化路線だ。
「本来の匠の技とは、その技を編み出した本人一代限りのモノ。つまり伝承不可能で真似の出来ない技、標準化できない技のことを言います。その匠の技を、それぞれが持つように強く奨励しています」(正志氏)
(!?)
これが行き渡ると、〝標準化できない〝がこの会社の標準になってしまう。この言葉を聞いて、果たして世のどれだけの経営者が首を縦に振るだろうか。普通なら難しい技術を如何に簡単にするか、如何にマニュアル化し、如何に形式知化するかと、気を揉むものである。もちろんそのほうが能率的で量産し易いし、品質のバラつきをなくすにも確実で効率がいいからだ。
「でもそこに夢や感動はありますか? やり甲斐が生まれますか? 私たちは単なる移動機器のパーツをつくっているんじゃないんです。人が人として豊かな人生を送るための、スポーツや趣味にもつながるモーターサイクルの製造に、それこそ基本設計から完成まで携わる、きわめて有意義な仕事をしているんですよ。つまりユーザーに夢と感動を与える仕事です。それぞれが誰にも真似の出来ない技術と知識を持ち寄り、あらん限りの熱意と知恵を絞りだして、試行錯誤を重ねた末に、初めてその夢と感動が生まれるんです。それがモノづくりの本分であり、やり甲斐であり、誇りというものです」
前言を撤回し、率直にお詫びしたい。これは奇策でも何でもない。人づくり、ユーザー本位という意味で、紛れもなくモノづくりの〝王道〟である。
60有余年、脈々と受け継がれてきた〝榛葉スピリッツ〟
さて読者諸兄、ここで第1章に書いた新社長の言葉を思い出していただきたい。
「工業の〝工〟の字は…」
「人々の暮らしに役立つモノ、喜んでいただけるモノ…」
「旧来の慣習、やり方に囚われることなく、時代を先取りし…」
「我々自身が積極的に変わっていく…」
もうお分かりだろう。これらの言葉、思いがどこから生まれ、どう育まれ、どう発せられたものかが。60有余年に亘って脈々と受け継がれてきた、これが榛葉スピリッツである。
最後のひと言、と促すと氏は笑いながらこう応えた。
「100年企業に向けた強い会社づくりをしたいですね。そのためには、技術はもちろんですが、家業から企業へともう1段、ステップアップしなければいけないと思っていますが」
家業から企業へ。これが何を意味するかは言うまでもあるまい。
余談だがどうしても黙っていられないのでひとつ付け加えておきたい。記者が売上高を訊いたときの氏の答えだ。
「昨年度で約66億円です。今年度はもう少しいけると思っていますが」
──以上。
ちなみに同社の売上高は2005年が約120億円、06年が約155億円、07年が約170億円、あのリーマンショックがあった08年でさえ約120億円である。
これまでの取材経験からすると、普通ならかつてはいくらいくらあったんですけどね…くらいは言いそうなものだが、まったくその気配すらない。
おそらく、いやきっとこれも、榛葉スピリッツの為せる技であろう。 ■
※本記事は2011年10月号掲載記事を基に再構成しています
〈プロフィール〉
榛葉貴博(しんば たかひろ)…1969年、静岡県生まれ。北海道大学から同大学院(精密工学部)に進み、卒業と同時に川崎重工業に入社。造船組み立てや試運転など、約8年間を海の上で過ごす。家業を継ぐという旧習?が嫌で「一生、外で働くつもりでした」というが、結局、紆余曲折を経て入社。以来、社長見習いとして設計、開発、製造、管理など幅広く業務に従事した後、本年6月、代表取締役社長に就任。
株式会社 榛葉鉄工所
〒436−0006 静岡県掛川市本所650
TEL 0537−27−0721
従業員数:200名
URL http://www.shinba.co.jp