株式会社三峰/代表取締役社長 𠮷田克幸氏

 マレーシアにタイ、中国(上海・東莞)と、アジア各地に拠点を持つ株式会社三峰。多くの日本企業が海外進出で辛酸を舐めている今日、グループ全体でまさに理想的なグローバルネットワークを築き上げている好例といえるだろう。

その組織を牽引するのが、若き𠮷田克幸社長。三峰はなぜアジアで成功しているのか、その背景にはどんな哲学がありどんな〝技〟があるのか、𠮷田社長の思いに貴重な体験談を交えて、詳しく報告しよう。

5年間隔でアジア各地に新工場設立

三峰と𠮷田克幸社長は、共に1971年生まれ。現在満41歳の〝双子の兄弟〟である。創業者は現会長である父君。息子が生まれ、自ら会社を設立したのだから、1971年という年は、人生の中でも最も夢と希望にあふれた輝かしい1年だっただろう。

いまや会社は、マレーシア、タイ、中国(東莞・上海)とアジアに5拠点を持ち、埼玉県の本社と合わせると、グループ全体で1500名の従業員を抱える規模にまで成長した。

 

同社の工場の様子

「弊社は、アルミダイカストやマグネシウム成形から機械加工、検査、仕上げ、さらに簡単なアッセンブリーまで一貫体制で行うことを得意としている企業です。お取引先は家電メーカーさんが多いのですが、最近は自動車関係も増えつつあります。プリンターやカメラ関係、特に高級機種の外装部品などですね。それから耐圧部品、カーコンプレッサ、超薄物の携帯電話関係なども得意分野です。もともと家電からスタートした会社ですので、ハードな超短納期立ち上げにも慣れていますし、機敏に動けるところが特長ですね」

 

最新技術を追い求めるには、設備投資など、非常にお金のかかる部分と、徹底して合理化を図る部分と常に表裏一体で計画的に進める必要がある。そのためにも一貫生産体制を強化している。

 

「本社から海外の拠点に的確な情報を発信していくためには、どうしても本社機能を高い水準に置いておく必要があります。その意味でも最新機器は欠かせません。併せて自動化・合理化もどんどん進めております。例えば外観部品ですね。表面のバフがけなどは、できる限りロボット化を進めております。ロボットによる全自動仕上げです。また、一度セットすれば24時間自動で無人運転ができる金型生産システムの構築や、測定についても省力化を進めており、2次元、2.5次元、3次元測定機など、自動機を導入しております」

 

国内の製造環境をベストに調整することで、海外にチャレンジできる体力をしっかり温存してきた。1992年にまずマレーシア工場を設立し、ここでは主に自動車関連部品の製造を手がける。1997年設立のタイ工場は、4万2千平米の広さを持つグループ最大拠点で、ここでは自動車のコンプレッサーのような耐圧部品を主に製造し、現在は自力で金型も作れる体制になっているという。

さらに上海工場を2002年に設立、ここは技術力が非常に強く、自動車部品や家電に限らず、さまざまな部品を製造している。生産設備は比較的に小型機が多いので、精密モノが得意。そのまた5年後、今度は同じ中国でも、広東省の東莞に進出し、自動車部品を中心に生産活動を行っているという。

 

1992年、1997年、2002年、2007年と、見事に5年間隔での新工場建設なのである。

 

「5年間隔になったのは偶然で、意図したものではありません。私は2002年、上海工場の立ち上げを任されて、現地に赴任しました」。

 

この時、𠮷田社長はちょうど30歳。上海での戦いの日々について述べる前に、その前史も含めて、𠮷田社長の個人ヒストリーを追ってみよう。

 

 

技術は熟知しているが……

同社製品の一部

1971年に生まれた𠮷田克幸社長は、幼い頃から、ラジコンやプラモデルなどを組み立てるのが好きな工作少年だったという。

 

「モノづくりの素養というほどでもありませんが、組み立てたり、いじったりするのは好きでした。私は大学へは進まず、『メカトロニクス』という言葉に惹かれて工学の専門学校に行きました。自分ではロボットや機械工学を学べると思っていたのですが、行ってみたら電子工学がメインであてが外れまして……。

それくらい当時はぼんやりしていたんですね(笑い)。そこを卒業したのがちょうどバブルが弾ける頃で、卒業と同時に三峰に入社しました。ところが入社式の午後、社長(現・𠮷田会長)からさっそく呼び出されて、『おまえ、今から修行してこい』と言われました」

 

入社式だけ出席して自社には通わず、そのまま奉公に出された先は金型メーカー。ここで技術を徹底的に教え込まれることになる。

 

「修行先の会社は、今のようにNC機器を使わない、昔ながらの職人さん集団でした。使うのはフライス盤と旋盤だけ。すべて腕と経験値でつくり上げる金型屋さんです。しかしそこでの経験は、自分にとって大きな財産になりました。さまざまな加工法を学びましたしね。いまでこそ3次元CADは当たり前ですが、その頃はまだなくて、図面を見て、頭の中で3次元形状をイメージしなければならないんです。これもたいへんいい勉強になりました」

 

みっちりここで3年間修行したのち、会社に戻って1年間、生産技術を担当したあと、今度は福島の樹脂成形工場にまた半年ほど行かされたというから、会長の教育は実に手厳しかったようだ。将来、管理職になる人間は現場をよく知らなくてはならない。そのような思いがおそらく現会長にはあったのだろう。そうして鍛えられたおかげで、2002年、30歳の若さで、総責任者として上海に赴く。

 

「上海では、現地政府との交渉から人材確保、設備や備品の調達も、それこそ鉛筆1本から全部やりました。もちろん不安はありましたが、自分は生産工程のすべてを学んで知っているということが大きな自信になっていました」

 

𠮷田社長の肩書きは、総経理兼董事長。「総経理」というのは日本の経理とは異なり、組織全体の責任者、つまり社長という意味であり、「董事長」は会長や理事長に近い存在。それを30歳の若さで兼務していたのだから立派というしかない。だが𠮷田社長には、明らかなウィークポイントもあった。

 

「技術はしっかり学んできましたが、営業がまったく未経験でした。また見積書の書き方や、お客様との接し方すらわからなかった(笑い)。すべては我流、見様見真似で夢中でやりました。マニュアルもなければ教えてくれる人もいない。でもそれがかえって良かったのかもしれません」

 

郷に入れば郷に従いつつも、日本のエンジニアとして矜持を忘れない。その2つを、誇りを持って貫徹したことも大きかったようだ。

 

「中国では、雇用される側は少しでも条件の良いところにすぐに動くのが常識です。お金のことばかりでなく、〝この会社にいては自分のスキルアップができない〟と思われてしまったらダメなんです。だからはっきりと、会社のビジョンは社員に伝えて、要求も明確にする必要があります。

またいっぽうで、これは笑い話なんですが、あちらでは、できるだけ支払いを先延ばしにするのが優れた財務担当者だ、という意識があるんです。妙に会社にお金があるなと思ったら支払いを止めていたことがわかり、『日系企業として信用が一番大事だ。いますぐ全部払え』と命じたことがあります。その結果、なんと会社の銀行残高が、たった640円しか残りませんでした(笑い)」

 

 

大切なのは〝共に会社を支えている同志〟という感覚

話をうかがっていると、いい意味で𠮷田社長には、上下関係の意識が希薄だ。自身の年齢がまだ若いということも、良いほうに作用しているだろう。「日本人だから」「中国人だから」という意識もほとんどない。このあたりは、日本の中小企業経営者には大いに参考になりそうである。

 

「私自身、日本人ですが、上海にいると、つくづく『日本は特殊だな』と思います。日本には思いやりの文化があり、それ自体はすばらしいものでも、あいまいさにつながってしまうことが多いんですね。ストレートな意見が言えなかったり、なんとなくごまかしてしまったり。中国だけでなく、まずどの国でも通用しません。

それと残念ながら、日本からアジア地域にやってくると、どうしても上からモノを言うような空気ができあがってしまいます。そのことで得をする人は誰もいません」

 

三峰では、𠮷田社長が上海に赴任したのと同じように、マレーシアや中国から技術者を招き、語学研修や技術研修を、長年に渡って継続して行っている。そこには業務だけではなく、日本という文化を理解してもらうことや、人間同士の裸のぶつかり合いも含まれている。

 

「いまでも海外に行くと、それぞれの現場に顔なじみがいて、私が行くと、小走りに駆け寄って来てくれます。私も彼らに対してまったく同じ気持ちを持っています。共に会社を支えている同志の感覚。中国で大規模な反日デモの起きた2012年9月18日に出張に行くことになり、友人やお取引関係の方にずいぶん心配されましたが、会社に着いてみるとそんな気配は微塵もなく、みんな笑顔で迎えてくれます。

これからアジアに出ようという方には、もちろん私ごときがアドバイスなどおこがましいですが、『日本人である』という意識はいったん消して、同じアジア人同士、とことん本音で付き合うことが一番だと思います。

労働集約型の安い人件費を確保するために出て行く時代は、あとほんの数年で終わるでしょう。アジアの人たちと、苦労も喜びも利益もすべて分かち合う気持ちでいなければ、うまく行かないと思います」

 

アジアの従業員は、𠮷田社長にとって良き友人でもある。それがきれいごとでも机上の空論でもないことは、これまでの実績がすべて、雄弁に物語っているはずだ。

※この記事は2013年1月号掲載記事を基に再構成しています。 

プロフィール

𠮷田克幸(よしだ・かつゆき)氏…1971年、埼玉県大里郡寄居町生まれ。高校卒業後、日本工学院専門学校に進み、卒業と同時に、1991年、株式会社三峰に入社、その後、金型メーカーや樹脂成形メーカーでの修行時代などを経て、2002年、上海工場設立のため現地入り、上海三峰圧鋳注塑技術有限公司の総経理兼董事長に就任。2007年、日本に戻り、4月に代表取締役社長に就任、現在に至る。

式会社三峰/本社工場

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