旭鍍金株式会社/代表取締役社長 藤川勝彦氏

〝分〟弁えて〝役目〟キッチリ 国内屈指の表面処理技術いよいよ中国でも

この人の話を聞いていると、どうしても〝武士道〟を思わざるを得ない。すべてはお家(旭鍍金株式会社)のためであり、お家は創業家を中心としたある意味の〝武士団〟であり、自らは、その武士団を次の創業家系社長にバトンタッチするまでの繋ぎ役、単なるリリーフ社長だと言って憚らないのだ。

それでいて年々極小化する家電部品や電子機器にも対応した様々な最先端の表面処理技術を武器に、年商約20億円を叩き出し、しかも自己資本比率が実に80%強という超優良企業である。

 

何かとアメリカナイズされた経営理論ばかりが先行し、ややもすれば本分を疎かにしがちな昨今の中小モノづくり界にあっては、極めて稀有な事例といえるだろう。じっくりと紹介したい。

 

中国はもちろん他社にもないズラリ品揃え

まずは最新のニュースからお伝えしよう。

国内屈指とされる同社の表面処理技術がいよいよ中国にも進出、来月(2月)下旬を目処に、広東省江門市の工場を稼働させる予定だ。

 

「当初は自動車部品に使う亜鉛のバレルメッキからスタートし、次にニッケルメッキ、更にフープメッキと順次領域を広げていきながら、やがては国内と同じ〝品揃え〟をし、国内と同じように事業を展開していく考えでいます」(藤川氏、以下同)

 

その品揃えこそが他社にはない同社の大きな強みだという。

「メッキは元々が装飾のためのものでしてね。そのせいで亜鉛なら亜鉛だけ、金なら金だけを専門に処理する業者が今もほとんどなんですよ。しかし今やメッキの需要は、装飾だけにとどまりません。

市場的に言うと装飾はむしろ少数派で、自動車や家電品、通信機器など、様々な製品の様々な部品、金属素材に、耐食性や電気特性といったある種の機能性を持たせるためのメッキ需要が、多数派といっても過言ではないのです。

例えば自動車ひとつを取ってみても、様々な素材が大量に使われています。それらにもっとも適したメッキ処理をワンストップで施すには、多くの高度な設備と技術力が必要になります。

しかしそれに応えられる業者が中国にはまだ少ないということで、進出したメーカーが嘆いているのが実情なんですよ。ちなみに私どもには、金、銀、銅、錫、ニッケル、亜鉛など、ありとあらゆるメッキ処理を施す設備と技術がズラリ揃っています

 

これが氏の言う品揃えで、その品揃えを見込んだ大手メーカーの要請に応える形で実現したのが、今回の中国進出というわけだ。しかし聞くと氏は、

「正直言って、最初はあまり乗り気ではなかったんですよ。根が臆病ですから(笑い)。それにわざわざ中国まで行かなくても、国内に活躍の場はまだまだあるというのが私の持論ですからね」

 

そんな氏の心を揺り動かしたのは、今後ますます加速するであろうグローバル化を念頭に、密かに、しかし沸々と熱意をたぎらせてきた若い役員たちだったという。

「第三者を通じて、日系企業が合弁会社をつくろうと言ってきたのがきっかけですよ。その話は先方の都合で結局ご破産になったんですが、そのことが彼らの気持ちに火を着けたんでしょうね。それなら単独で進出しましょうよって言ってきたんです。それは目を見張るものがありましてね。

その熱意に水を差すのは良くないという思いと、それだけの熱意があれば大丈夫だという思いが同時に湧いてきて、よし、だったら行こうと私も決心したわけです」

 

 

ときのトップの英断が切り拓いた三つの転機

ちなみにこれは筆者の勝手な憶測だが、その若い役員たちの先頭に立って声を上げたのは、誰あろう創業家の〝御曹司〟のようである。要するに次期社長だ。その次期社長の言うことだから無条件にOKしたとはけっして思わないが、それなりに尊重すべきとの認識にあったことは、言葉の端々からもはっきりと窺い知ることができる。

 

ということでここからが本題だ。

「私は彼が成長し、会社を引っ張っていけるようになるまでの単なる繋ぎ役であり、リリーフ社長です。創業者から数えると私で4代目ですが、気持ち的には3.5代目ですかね(笑い)」

そう言う氏の表情には、何の衒いもない。おそらくは自らの〝分〟を、心底から弁えているのだろう。そしてこの会社自体にも、そういう風土がおそらく根を張り、すっかり定着しているのだろう。それらを検証すべく、まずは同社の歴史から紐解いてみる。

 

戦後まもない1948年、のちに全国鍍金工業組合連合会の会長になる中山秀生氏が、三菱重工(津工場)の下請け工場として創業・設立した旭鍍金工業所が、その原型である。当初は自転車やミシンの装飾メッキがメインだったようだ。これが現在の業態・業容にまで進化し、成長を果たすまでには、大きく分けて三つの転機があったという。

 

一つ目の転機は1955年、松下電工(現パナソニック)との取引が始まったときだ。それまでの装飾メッキから、家電品、住宅関連機器、配線器具など工業用メッキへのシフトである。

50年代から60年代にかけての松下といえば、三種の神器と呼ばれたいわゆる白物家電を全国津々浦々にまで普及させるなど、文字通り日の出の勢いで、同工業所はまさにそれと軌を一にし、目覚ましい成長を果たす。

 

二つ目の転機は、それまでの駅前から現在の工業団地に本社工場を移転した1986年である。松下の技術指導の下にその領域を拡大し、更に高度化を果たしたばかりか、環境保護の面からも一気に近代化を進めるなど、かつての3K(キツイ・汚い・危険)から逆3K(きれい・経済的・環境に優しい)に、これまた文字通り〝生まれ変わった〟時期と言っていい。

 

そして三つ目の転機は2003年、売上の約4分の1を占めていたパナソニックがITバブルの崩壊にともない、(従来の個別のメッキ処理から一度に大量処理してプレスで打ち抜く方向に)方針転換したことから受注がピタリと止まったときだ。

折しも氏が、創業家とは血縁のない初めての社長に就任した翌年のことである。同社は今年で創業から65年にもなるが、草創期を除き、赤字決算をしたのはその2003年の一度きりだという。

 

「現在の品揃えは、そのときの教訓から構築したものです。パナソニックさんもそれを認めて、これまでとは違う分野の仕事をドンと投げてくれましてね。お陰さまでその後はV字回復を果たし、今は自己資本比率が80%を超えて、すこぶる安定した経営ができております」

 

余談ながら我が国の中小企業の自己資本比率は概ね10~20%で、40%あれば潰れることはまずない、60%あれば理想的な経営状態にあるとされる。驚くべき数字という他あるまい。

それにしても三つの転機は、いずれもときのトップの英断によって切り拓かれたと言っていいだろう。少々せっかちで恐縮だが、今度の中国進出も、遠からず四つ目の転機に数えられる日がくるのではないだろうか。

 

 

無事にバトンタッチができるように頑張ればいい

旭鍍金 本社外観

ついでと言ってはなんだが、最後に氏の社長就任時のエピソードを一つ挙げておきたい。

それまで順風満帆と思われていた会社経営に、突然赤信号が灯ったのは2001年のことである。絶対的リーダーとして内外から全幅の信頼を集めていた3代目社長が、53歳の若さで病死するのだ。死の直前、3代目は主だったメンバーを集めてこう言う。

 

─藤川、あとはお前に任せる。

「正直言って凄く戸惑いましたね。果たして私に社長の代わりができるのかと。さっきも言いましたけど、根が臆病ですから。それで(亡くなった社長の)奥さんや、銀行からきていただいた副社長にお願いして、1年間だけ勉強するための時間を与えてもらったんです。そしたらその間に、気付いたんですね。

そもそも私に社長の代わりができるかどうかなんて考えるほうが、おこがましいと言うか僭越だということにです。真の経営権は中山家の正統を継ぐ人にしかない。私はそのための繋ぎ役に徹すればいい。

昨日より今日、今日より明日と、少しでも経営のし易い状況にして、無事にバトンタッチができるように頑張ればいい。それが私に与えられた役目であり責務だって……」

〝分〟を弁えて〝役目〟をキッチリと果たす。敢えて武士道を持ち出すまでもなく、考えれば誰にでもすぐに分かる話ではある。というわけで読者諸氏、これをきっかけにご自分の足許や人間関係が、実際はどうなっているかを、今一度しっかりと確かめてみません?

 

※本記事は2013年1月号掲載記事を基に構成しています

藤川勝彦(ふじかわ・かつひこ)氏…1954年生まれ、津市出身。地元の高専(金属工学科)を卒業後、大日本塗料(大阪)に8年間勤務する。知人の世話で28歳のときに旭鍍金に入社、一貫して技術畑を歩む。2002年、代表取締役社長に就任。

旭鍍金株式会社

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従業員数:87名(平成28年3月現在)

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