ミノリ化成工業株式会社 – 先端異型押出成形で未来を拓く ハイテクを支えるローテクの底力を見よ!
【モノづくりの挑戦】
先端異型押出成形で未来を拓く
ハイテクを支えるローテクの底力を見よ!
ミノリ化成工業株式会社/代表取締役社長 上田一成氏
◆取材:綿抜幹夫
日本の産業界を支える典型的な加工技術には様々な種類が存在する。その中でプラスチック押出成形を中心に、他社では断られ諦めていた図面の実現や現行の製品の精度の不満を解決すると謳う企業がある。東京板橋にあるミノリ化成工業株式会社だ。2000年前後に落ち込んだ業績を様々な改革を経てV字回復させた2代目社長に、ハイテクを支えるローテクのモノづくりに携わる者のやりがいや苦悩、描く未来までも語っていただいた。
ミノリ化成工業の誕生〜先代の思い
1975年2月15日、ミノリ化成工業株式会社は産声を上げた。金型のスペシャリストだった先代であり現社長の上田一成氏の父親が、押出成形でビジネス展開していた双葉化成を中心に友人3人で始めた会社である。
「僕が子供の頃に押出というと、ストローとか塩ビ管といった電線ケーブルに使われている被覆材がほとんどでした」(上田氏、以下同)
比較的に工賃は安くても長期間の仕事で稼ぐような状況だったのだ。電線事業は三公社五現業事業の最たるもので、年を越すまで予算があればいいが、なくなれば2月にはパタンと仕事が止まってしまう。そんな時にある商社から押出成形を使った自動車のモールディング開発、具体的にはGM(ゼネラルモーターズ)の金属モールの部品、内側に貼る内モール開発の話があった。自動車産業は2月、3月が決算前の書き入れ時だから、手薄な時を補える。そこで加藤発條製作所(現・パイオラックス)というバネ業界の雄と組んで、新事業に立ち向かった。自動車業界、主に日産系に向けて樹脂分野のボリュームを上げていこうと。
少し時代は遡って1972年頃、ミノリ化成工業を立ち上げる前に先代が双葉化成と共に仕事をしていた時の話だ。その後、先代は金型部門を分離して自動車部門をメインに独立した。高度成長期で、つくれば売れるという時代背景もあったが、「異型押出で車分野における一石を投じた加藤発條グループは、樹脂モール開発のコンペでは日産系としてトヨタを追い詰めたという自負があります。その礎をつくったのは間違いなく当社です」。
ただ良好を保っていた両社の関係も、加藤発條自体が大きくなるにつれて変化する。加藤発條が上場するような高い目標を持てば、ミノリ化成工業としてはなかなか思うように自分たちの仕事をコントロールできなくなっていった。そこで先代は自動車関連とは異なる分野での自主開発も進め、開発力を養っていく。自動車関係で大手の樹脂メーカーとの良い関係を築きあげることができたため、様々な樹脂における新しい用途開発、実験を行ったのだ。だが思ったようには新分野への道筋は見えて来ない。開発の種はあっても、時間や納期、人の問題がある。そんな時に日産の調子が悪くなって、ゴーンがやって来た。
ミノリ化成工業の雌伏〜2代目の決断
日産のCOO(後にCEO)に就任したカルロス・ゴーンは、世界の標準化を図るにあたって規模で勝負するために、日本の部品メーカーに対して『仕事量は担保するが、3年で7割のコストカットをする』方針を打ち出した。ミノリ化成の樹脂加工では素材に特殊ナイロンを採用してより良いものを提供していたが、世界標準とされる素材の塩化ビニールとの価格差があり、結局は価格面で折り合いがつかず、日産との取引は打ち切られてしまった。自動車関連の売上が96%も占めていた同社だ。
「そのゴーンショックがものすごく大きくて、父親は『もう無策だ、第一線を退くから後は会社を売ろうがパイオラックスに売ろうがお前の好きにしろ』と言い、希望を失いかけていました」
確かに売上は激減した。従業員のためにもその技術に耐えうる仕事を探したが、なかなか新規の受注は見つからない。同社の将来を託された上田一成氏はその時にはすでに入社15年を過ぎ、40歳目前。
「その当時は自分に力がなかった。借り入れのある金融機関も納得しないし、申し訳ないという思いとともに、父親時代を支えてきた副社長にも引退いただくなど、スリム化するために3分の1強のリストラを敢行しました」と苦渋の決断だったことを明かす。
ただし指をくわえて情勢に流されていたわけではない。青年会議所の活動も10年ほど経験して、ある程度の人脈も持っていた。自動車業界については1997〜1998年をピークに今後拡大することはあり得ないと見切った。自動車関連以外に自主試作のチューブ開発を行っていたこともあり、技術者も応用技術も蓄積できていた。このチューブ開発で活路を見出すことができないかと考え、「そうした時に大手のゴムメーカーから、産業用といっても娯楽系、パチンコやパチスロですが、自動搬送用のベルト関連のお手伝い依頼の案件をいただいたので、異型でやろうと決めました」。
ただし樹脂素材は、塩ビほどではないがナイロンよりもコストの低いウレタン系エラストマーを採用した。
「ナイロンでの加工技術はどこにも負けない自信を持っていますが、老舗素材メーカーさんとのお付き合いから弾性エラストマーについても熟知しているので、異型の精度において別の顔を見せることができるチャンスだったのです」
ミノリ化成工業の躍進〜2代目の思い
大手のゴムメーカーとの協力関係のもと、ウレタン系エラストマーを使った自動搬送用のベルト関連の新事業は、パチンコ・パチスロ業界を席巻した。それを聞きつけた大手ベルトメーカーから、付き合いを伏せる条件でピンポイントの商品開発へのアプローチもあった。その間の2001年から2003年までは、ミノリ化成工業にとって谷間期となった。ゴーンショックで落ち込んだ売り上げは急速に回復するわけではない。
上田社長が新事業立ち上げと同時に手を打ったのが、質の良い企業となるための方策だ。そのひとつがそれまでの評価見積もりシステムを、大手タイヤメーカーの購買部と話し合いながら改善したことだ。
「モノづくり屋としての中小企業を管理する大手さんの考え方を知りたいし、そのために僕はウチの生のデータを出し、考え方をさらけ出しますので良いアドバイスが欲しい。お互いの共通の認識のある見積書をつくりたい。生意気なことも言いました(笑い)。全ての品目を改善するまで3年もかかりましたけれど」
そのおかげで守備力が上がり、V字回復に結びついた。
もうひとつ新分野にチャレンジしようとする時に共感を持ってくれた社員がいたこともV字回復の一因だ。
「僕の場合は、僕がやる分には限界があることもわかっているので、たとえば新分野ではある程度の方向をつける。あくまでプラットフォーム1を作ったけれども、僕と似たような発想を持っているみんながアイディアを出しあって、プラットフォーム2、3を作る。共通項を持ってプラン作りを行っています」
受注企業であるミノリ化成工業は、あくまで部品という二次的な製品づくりを主としているため、大手企業や商社においては特許関連などの問題もあって、隠したい、表には出て欲しくない存在だという。そんな閉鎖的な環境下にあっても、同社は基本となる電線ケーブルに加え、医療関連のチューブにもアプローチして主力商品にまで押し上げた。国内だけでなく整備先端事業の一端として台湾の新幹線のジョイント部を開発提供し、その技術ももうひとつの柱になった。
ミノリ化成工業から世界へ〜2代目の夢
樹脂を扱うミノリ化成では、二酸化炭素削減のための環境づくりも考慮しなければならない。
「確かに、『君のところは樹脂を使っているじゃないか。天然資源を使っているじゃないか。その責任を感じないのか』とか、『一時的に使うにしろ、環境負荷のないものがいいんじゃないの?』などご指摘を受けることがあります。それに対しては『燃やすより、再利用することがベスト』と答えています」
また今後の大きな課題のひとつに〝技術の伝承〟がある。
「ウチには『この商品を見れば、彼の製品』と言われる匠が3人います。その人たちの技術を継承していく人材については、30代の技術者3人を確保できました。継承させていくための方法は『ついてくる人じゃないと教えられない、自分流でやれるとこまでとにかくやってみたい』というので任せました」
2年で押出のいろはを習得してもらい次の一手を打つための勉強会やお互いの技術交換、共通項目において共同プロジェクトの可能性を探る。
「会社的には次世代に交代できるようなビジョンをつくる。次なる5年は2020年以降のさらなる20年を目指すための基礎固めをする再考の5年間に当てて、若い人たちにバトンタッチしようという思いでいます」
さらに上田社長には夢がある。それは自分たちを含めて板橋のローテクを一カ所に集めてモノづくりの街にしようというものだ。ローテク分野には様々な技術の基盤となるものが多い。これらで一度新技術が開発されると、ハイテクを含む広範囲の関連分野に影響を及ぼす。間接的には、全く新しく優れた新製品を生み出す原動力となり得るからだ。
日本の産業界は、加工業で成り立っている。その火を絶やさないためにも、上田社長の夢の実現を応援したい。
◉上田一成(うえだ・かずなり)氏
1960年7月1日東京都豊島区生まれ。早稲田大学社会学部卒業。マスコミ志望だったが、25歳の時にミノリ化成工業株式会社に入社。32〜40歳の9年間は東京青年会議所の活動にも積極的に参加。2001年代表取締役社長就任。
◉ミノリ化成工業株式会社
〒175-0081 東京都板橋区新河岸2-23-5
TEL 03-3939-5171
◆2016年5月号の記事より◆