中央建設株式会社 – 困難の中道を照らすのは、「当たり前」から生まれた社長の信念 〜四国の建設会社、東京への挑戦〜
成功を呼ぶ「信念」と「情熱」
◆取材:綿抜幹夫
地方自治体の財政悪化による公共工事削減や人材不足の影響を受けて、地方の建設会社には厳しい状況が続いている。
2020年にオリンピックを控えた東京に進出する企業もあるが、成功例は決して多くはない。そんな中、貴重な成功例の1つが約6年前に愛媛から東京へ進出した「中央建設株式会社」だ。同社を率いる4代目社長の渡部功治氏にその覚悟と信念、未来への思いを聞いた。
■4代目社長就任、未来を見据え東京へ進出
渡部氏が中央建設株式会社に入ったのは2005年。まず専務として入社し2008年に4代目社長に就任した。
就任当時は2006年の平成の大合併により地方の予算が圧縮され、公共事業に売上の大半を依存していた同業他社の廃業が相次いでいた世相でもあり、「道路は一度ついてしまえば二度はない。公共事業の予算カットの流れは今だけではなくこれからも続き、必ず地方の建設業界を圧迫する。このままでは先行きの見通しは明るくないことはわかっていました」と、従来のやり方では先細りになる大変な時代の訪れを感じていたという。
変化は突然起こるものではないが、たとえその兆しを感じていても時代の流れに適応しその中で生き残る道を見つけるのは簡単なことではない。しかし変化する世の中で生き残っていくためには自分もまた変わっていくしかないのも事実だ。気をつけるべきは「時代は常に流れている。世界は常に変化している。変わっていないのはあなただけ!」な状態であり、まさに常々それを感じていた渡部氏はある選択肢を頭に描く。
それは変化に対応する2つの方法で、ひとつは仕事量に合わせ従業員をリストラする「守り」、もうひとつは人を活かして新しい活路を切り開く「攻め」。「敵は己にあり」が座右の銘の渡部氏は躊躇なく「攻め」の選択をした。
「思い立ったら吉日、即行動に移す!」がモットーの渡部氏は、ただ悩み立ち止まる日々から脱却してしっかりと前を向き日々挑戦すると覚悟を決め、「自分が納得できるまでとことんやってみよう!」と愛媛の県庁所在地・松山市ではなく東京へ進出する道を選ぶ。
そこから苦難の日々が始まった。
■苦難の2年間を支えた「必ずやり遂げる」覚悟と信念
頼る人もいないところからスタートした東京での活動は、やっとアポイントを取り付けていざ約束の時間に現地へいくと相手はいない、といった空振りが続くこともざらだった。
「最初の2年間は事務所もないし当然仕事もまったくの『ゼロ』。経費は出ていくばかりで手ごたえさえなく、一人で真っ暗闇の中を歩いているようで、本当にこれでいいのか、すべては無駄だったのか、と自問自答の日々が続きました」
しかし撤退する気は全くなく、東京にこだわり踏み止まり続けたのは、とにかく絶対やり遂げるという覚悟と信念が常に腹底にあったからなのだろう。
同社にはこの時の経験から得た「6年前彷徨い続け歩き回ったが、3年前の1歩にさえ成らず。今の1歩は、3年前には1万歩歩いていた…」というポスターも貼られている。
「運とタイミングを掴もうと思ったら動き回ること。私が東京に来た頃からずっとがむしゃらに動いてきたことは今から見れば3年前の1歩にも届いていません。けれど、今の1歩はその3年前なら1万歩は歩いていた。〝今〟はそういうひたむきな1歩の積み重ねが作るものです」
■自分が納得できないものを人に提供できるわけがない
現在、同社の事業の主力は東京にシフト。一般住宅などで徐々に元請け案件を増やしている最中だが、施主の中には折角自宅を建てるのだからと奇抜なデザインや設計を試してみたがる人も多いという。しかし同社では必ずしもその希望をそのまま受け入れるわけでもなければ、かといって好みを押し付けるわけでももちろんない。
代わりに行うのは自分の好みを取り払い施主の希望を聞きながら、自分が施主だったとすればどうするかを考え抜き、納得できるものだけを提供すること。「自分がいいと思わないものは人に提供できない」が渡部氏の「当たり前!」だからだ。
例えば壁の色一つにしても中長期的に考えれば変更した方がいいと思われるような場合、「もしダメでしたら塗り替えますので、一度塗らせてください」と提案することも珍しくない。その結果はほとんどの場合「ああ、やっぱりこっちがいいね」という反応だ。
「やってみたい気持ちはとてもわかるのですが、家は〝遊び〟ではなく実際に暮らす場所。一時的な良さではなく中長期的に見て喜んでくださるものはこれだろう、というのは確かに私の中にあります。自分が良いと思わないものを人に提供することはできない。私は仕事とはそういうものだと思っています」
■熱意が引き寄せた素晴らしい協力者との出会い
上京して5年が経とうとしているとき、一つの転機が訪れる……。
渡部氏という力強いリーダーの下、「中央建設」の旗を掲げて新たな場所・東京で一歩一歩実績を重ねていた同社に、2015年7月に大きな戦力が加わった。
「三顧の礼」で迎えられ、惜しみなく最高の経験を伝える
〜伝えたい思い×情熱=世の中に役立つモノ〜
その戦力とはゼネコン最大手・清水建設OBの伊藤直治氏。30数年間スーパーゼネコンで現業畑を歩み、渡部氏と初めて出会った2013年には西東京営業所部長としてエリア全体の受注計画を総括。日本テレビ本社など大型施設の建設も手がけた建設のエキスパートだ。
■最初の出会いはゼネコンの部長と工事事業者
中小企業経営者にとって豊富な経験を持つ人材との出会いは経営上も大きな意味を持つ。1949年に愛媛県で創業。近年東京に進出し、土木から建築・設計・リフォームなどにも範囲を広げる従業員45人の建設会社・中央建設株式会社社長の渡部功治氏と、スーパーゼネコンを定年退職し経験を伝える場を求めていた伊藤氏。
「伊藤専務は入社前に〝俺、社長の夢に付き合うから〟って言ってくださったんです。それで即答で〝ぜひお願いします!〟って言いましたよ」と話す渡部氏にとって伊藤氏は、「素晴らしいの一言。スーパーマンだと思っています」という人材。
2015年7月1日の朝、渡部氏が目覚めた瞬間、「中央建設に日本のトップクラスの技術が入ってきた。これからが勝負だ!」と感じたという。
伊藤氏は名古屋大学を卒業後1979年にゼネコン最大手の清水建設株式会社に入社。そこで現場の係員から主任・工事長…と一貫して現業畑を歩み、敦賀原子力発電所のGT2号機の建設や、工務長としての駿河台大学の施工、日本テレビ本社の建設など数々の大型建築を手がけてきた。
一方、中央建設株式会社の渡部社長は、就任して今年で約10年の4代目社長。同族企業だった同社に専務として途中入社し「私は自分自身が納得し自信が持てる物でないとお客様にお引渡しできない」と徹底したお客様目線を実践する、伊藤氏曰く「まず人間としての馬力と器が大きいところが魅力」の人物だ。
伊藤氏が初めて渡部社長に出会ったのは、定年退職の約3年前。当時の営業課長から「こういう人物がいるのでぜひ営業的にもいろいろな仕事で繋がりたい。清水建設の仕事に入ってもらう方法はないだろうか」と相談を受けたのが始まりだ。
当時西東京営業所の部長職にあった伊藤氏は顧客との接触を含めさまざまな案件を受注段階で見る立場で、予算を組み工程表がきちんと整う段階になれば現場責任者である工事長に下ろしていくという役割。会社はもう少し保守的だったと言うが、伊藤氏は「コストアップせずに上手く工事ができるならいろいろなところに任せていきたい」という考えだったという。
その時点で中央建設株式会社にはまだ実績はなかったが、渡部社長と実際に話しその人柄を「信頼できそうだ」と感じたことから同社との交渉がスタート。ある工事で現場の責任者として立てるべき人材を探していたという事情も手伝って、現場の責任者としてある程度工事をまとめることで契約が成立した。その1本目から繋がりができ、その後鹿島建設とも仕事をするようになった渡部社長に月1~2回ゼネコンごとのカラーに合わせて上手く仕事を取るためのアドバイスをするようにもなっていった。
だが、渡部社長は協力業者の社長さん。将来中央建設株式会社に入社することになるとはこの時は全く予想もしていなかった。
■「経験を引き継ぎたい」思いが繋がる
定年退職者の再就職先としておそらく最もポピュラーなのは会社と再雇用契約を結んで働き続けることだろう。そして建設業界では一般的に建設現場で現場監理を行う統括部長などの人材が足りていないことから、それらのポジションに移れば65歳まで働き続けられる環境になっている。
しかしご多分にもれず給料はやはり半分程度。また西東京エリア全体の受注計画を預かっていた伊藤氏にとっては「俯瞰的な仕事をしてきたのに比べれば、少しおもしろみがない」こともあり、退職後についてさまざまな情報を集めていた。
そんな時にぜひ来てほしいというオファーがコンストラクション・マネジメント会社(PM会社)から入ってくる。PM会社とは、技術的には中立性を保ちつつ発注者の立場から施工計画や品質が妥当かを初期段階からチェックし、工事を円滑に進めていくマネジメントサービスを提供する会社。近年の建設業界でとても需要が高まっているものだ。PM会社が求められるようになったのは「設計者と施工者は別もの、数社で見積もりを取り最も安い業者と組んでプロジェクトを行う」という従来型の発注形態が、発注者のニーズに合わなくなり減少したためだ。
代わりに増えているのは、発注者は基本条件だけを大手ゼネコンなどの建設会社に伝え、その会社が企画を含めた施工計画を任せる形式。その結果コンプライアンス上の問題から建設会社から出される提案の発注金額や施工計画は適切なのか、品質は確保できるのかを株主や投資家に対して説明する必要が生じ、そのための第三者機関が必要になったのだ。
「PM会社はいろいろな案件がありおもしろそうでしたし、清水建設に残るよりも給料もよかったですしね。そこでそういうところへ行こうと決めて、その会社の幹部の方と業務についてのマッチングまでいっていました」と当時を振り返る伊藤氏。そのまま何事もなければ再就職するところだったが、運命の舵は思わぬ方向へ向かう。
定年を目前にした2014年12月末、現場の巡回を終えたところで胸部大動脈破裂で倒れ、緊急入院・手術となってしまったのだ。退院はしたものの、著しく削られた体力が戻るまで2015年の1月は自宅で療養、6月まで週3回はリハビリに通う日々。だが、その日々のうちに伊藤氏の中に新しい思いが芽生える。
「そんな中で思ったのは、PM業務は仕事としてはおもしろいかもしれないけれど、自分から開拓することはないなということでした。一度死にかけたことで自分が今まで経験してきたことを社会に還元する、というと少し大げさですが誰かに引き継ぎたい、伝えたいという思いを強く感じるようになったんです」
そんな時、その思いを知り「三顧の礼」を尽くして迎え入れたのが渡部社長だった。「働くのは65歳まで。オリンピックはゆっくり見させてよ」と伊藤氏。それに対し渡部氏は「最低70歳までお願いしますよ」との攻防を経て、渡部氏を建設技術のエキスパートとしてサポートすることになったのだ。
施工事例の一部。消防署新築工事(上)と、中学校耐震補強工事(下)
■作るのは「世の中に役立つもの」
伊藤氏が目指す目標は「まず東京で10億」。ちなみに、愛媛拠点で公共の土木工事を中心にしていた時の売り上げは約10億。これは十分に社員を養えるだけの数字だった。しかし土木工事が減っていることや東京拠点が手がける建築工事はライバルとの競争が激しく、土木工事ほど儲からないのを計算した目標値が「東京で10億」だ。
「社長としては15億、20億と思っているかもしれませんが、まずは東京で2桁。そこから増やしていけば15、20と増えていくはずですからね」
そのために重要なのは本当に顧客のためになるもの、付加価値の高いものを提供し続けることだろう。「〝世の中に役立つものを作ってやる〟という思い、日本の企業風土だったそれが失われつつあるのを感じている」と伊藤氏。
「できるだけ言わないでとは言われているけれど……」と前置きがつくが、営業でのキャッチフレーズは「スーパーゼネコンの品質を中央建設の価格で」。スーパーゼネコンと同品質のものを安価に提供できることと、素早く小回りの効くフットワークとアフターフォロー。それが最大のセールスポイントでそれを活かしていきたい。
「それを証明するためにも、まずは施工中の2億円強の集合住宅新築工事をはじめ、現在取りかかっている複数の現場を完全に仕上げるのが一番大事なこと。そんな意味で取り組んでいます」
集合住宅の完成予定は今年7月。続いて設計施工で1億円弱の事務所社屋新築工事も決定し、その他数件の受注案件も進んでいる。
事務所社屋新築工事・地鎮祭の様子(上)と、集合住宅新築工事の施工中写真(下)
◎最後に
■次世代を担う子どもたちに選ばれ、その力を活かせる企業でありたい
渡部氏が愛媛で予想した通り、現在地方の公共事業の減少はさらに進み、今や上位数社しか生き残れそうにない時代が来ようとしている。そんな中同社は元請け仕事の土台作りにスーパーゼネコンの下請けも手がけつつ元請け案件を拡大中。将来、愛媛:東京の比率を1:9ほどにする予定だがこの状況はまだまだ「入り口」なのだという。
「目標は、まず元請け企業としてやっていくこと。スーパーゼネコンの下請けもこなせるという実績はお客様への安心材料にもなります。今後は今まで以上に大規模な工事にも着手していきたい、そしてその先には街で頻繁に中央建設の工事看板がみられるような、東京の建築の流れの中で不可欠な会社に成長していきたいですね」と語る渡部氏。
国土交通省によると、建設業就労者は2013年時点で55歳以上が約3割、29歳以下は約1割と、他業種に比べて極端に高齢化が進行。2020年のオリンピックの頃には現在さまざまな形態で働き続けている団塊近辺の世代も引退し、人手不足や技術の継承が深刻な問題になることはほぼ間違いない。これからの建設業界を考えれば、この点は決して避けては通れないと渡部氏は強調する。
「今建設を目指してくれる人は少ない。だからこそ〝建設戦隊アンゼンジャー〟というキャラクターを作り、3Kといわれる建設業界のイメージアップを図っています。また地元の小学生を招いて見学会を実施したり、地元の道路・河川・海岸などを清掃するボランティアを実施するなどのCSR活動を通じて、地域との繋がりを深め親しみやすい会社を目指しています。まず必要なのは人であり雇用。そこさえ何とかなればその人を活かすのは私の役目です」
渡部氏が東京を目指したのも、変化に合わせて自ら変わることで「人」を活かす道を選んだからだった。そのぶれない社長の姿は次の世代の心にもきっと響くはずだ。そのバイタリティを持ち続けている同社の挑戦は、5年後にはどんな実りを迎えているのだろうか。
地元の小学生を招いた見学会(写真上)や、清掃ボランティア活動(下)を行うことで、地域との繋がりを深め親しみやすい会社を目指している
◇
石の上にも3年というが、上京して6年が経ち渡部氏は今思う。
「最初の仕事は数十万円。それまでの2年間という最も辛い時期を支えてくれたのはほかでもなく妻、そして家族の存在でした。そこから始まり一般住宅のリフォームや新築・ビル・複合施設の新築や改修、事務所社屋の新築など、だんだん受注件数、受注額が増えてきました。素晴らしい人との出会いもあり、支えられ、そしてお客様からのお褒めの言葉が何よりも力となり今まで我慢することができたと思います。これはもう商売や利益といった枠を超えた、言葉に尽くせない最高の喜びなのです」
◉渡部功治(わたなべ・こうじ)氏
1972年11月生まれ。愛媛県今治市出身。2005年中央建設株式会社に専務として入社。 2008年に同社の4代目代表取締役に就任する。同年のリーマン・ショックの後に東京に進出。2年後に東京事務所を構え、事業の拠点を東京にシフト。現在に至る。座右の銘は「敵は己にあり」。
◉伊藤直治(いとう・なおはる)氏
1955年6月生まれ。愛知県名古屋市出身。名古屋大学を卒業後、清水建設株式会社に入社。埼玉営業所に始まり、一貫して現業の第一線で活躍した後、2015年6月に定年退職。2015年7月に中央建設株式会社の専務取締役に就任。現職。
《中央建設株式会社》
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TEL 03-3435-1330
◆2016年5月号の記事より◆