筒井潔 - 孫子に書かれている戦い方 「強を避けて弱を撃つ」
強を避けて弱を撃つ
◆文:筒井潔(合同会社創光技術事務所 所長)
砂川闘争(著作権消滅済)
※以下の見解は、事務所としての見解というより、所長である私個人の見解であることは先に断っておきます。所内にもいろいろな意見があります。
今回は孫子に書かれている戦い方のうち「強を避けて弱を撃つ」ことについてお話ししようと思います。
夫れ兵形は水に象(かたど)る。水の形は、高きを避けて下(ひく)きに趨(おもむ)き、兵の形は、実を避けて虚を撃つ。水は地に因りて流れを制し、兵は敵に因りて勝ちを制す。故に兵に常勢無く、水に常形無し。能く敵の変化に因りて勝ちを取る者、之を神と謂ふ。故に五行に常勝無く、四時に常位無く、日に短長有り、月に死生有り。(虚実編第六)
何が書いてあるか、というと大体、次のようなことです。軍の形は水のようなものである。水は高いところを避けて低いところへと流れるが、軍は「実」のところを避けて「虚」のところを撃つのである。ここで、「実」とは、敵の陣形が整っているところ、「虚」とはそうでないところ、と考えても良いと思います。
水は地形に沿うように流れるが、軍も敵の軍の形に合わせることで勝利を得るものである。よって、軍には固定された流れも、固定された形もない。上手く敵の変化に合わせて変化して勝利を収めることは神業とも言うべきものであろう。
結局、木・火・土・金・水の五行でも、全てが常に勝れている状態というのはないし、春・夏・秋・冬の四季でも、一つのものが続くことはなく、昼間の長さも短い日もあれば長い日もあり、月にも満ち欠けがあるものである、ということです。
「強を避けて弱を撃つ」というと、まず、物理的な衝突である「戦争」や「闘争」といったものを連想します。太平洋戦争後、日本ではほとんど、「闘争」と言えるものは起こっていません。
例外的に「闘争」と言えるものは1950年代から1960年代にかけて起こった学生運動くらいであろうと思います。学生運動と言ってももう半世紀以上前のことですし、今日と学生運動の時代の間に「バブル時代」が挟まっているからか、学生運動についての記憶は日本の中では急速に忘れられつつあるような気が私はします。この学生運動について、私は直接的な面識はありませんが作家の赤坂真理氏が著書「愛と暴力の戦後とその後」(講談社現代新書)の中で次のように書いています。
彼ら(引用者注:学生運動の参加者)は、もしかしたら市民革命が起こらなかったこの国で、初めて、それに近いことをした人々だったのかも知れない。権力に対して抵抗した。
60年代安保闘争の前駆期に、「砂川闘争」というのがあった。今の東京都立川市で起こった。駐留米軍と国家とを相手どった住民運動で、学生運動の原点とも言われている。これは日本の歴史上ほんの束の間、本当に「民衆」や「市民」という意識が日本で萌芽し、それが成功した事例ではないかと思う。住民や農民や学生たちが、米軍を立ち退かせたのである。
赤坂真理氏は、市民革命に近い唯一のものが日本では学生運動であり、特に、その中で1950年代の砂川闘争は、市民革命に近い運動が成功した例ではないか、と言っているのです。市民革命とは、フランス革命を引き合いに出すまでもなく、体制の変革を引き起こそうとする運動であり、さらに踏み込めば人々が権利を取得するため、または権利を守るための運動です。
まず、時代背景を簡単に整理します。1955年には、右派と左派が合同して日本社会党が誕生、一方、自由党と日本民主党の保守合同で自由民主党が誕生し、いわゆる「55年体制」が出来上がります。また、1955年は、当時、学生運動を支配下においていた日本共産党が第六回全国協議会(全六協)を開催して、武力闘争路線から、より穏健な路線に転換した年でもあります。この新しい日本共産党の路線は、「踊ってマルクス、歌ってレーニン」をスローガンとするレクレーション路線とも揶揄されました。
このような状況で、学生運動は、日本共産党とは別の路線を模索し始めます。学生運動の指導者、つまり全国学生自治総連合(全学連)の幹部であったのが、当時、東京大学の学生であった森田実氏(現在、政治評論家)、故島成郎氏、故香山健一氏(元学習院大教授)らであり、また明治大学の学生であった小島弘氏らです。彼らは、1956年の砂川闘争から、1960年の安保闘争まで学生運動を実質的に率いました。
砂川闘争 (著作権消滅済)
砂川闘争は、立川の米軍基地の拡張に反対する住民や学生と、それを排除しようとする警察隊との衝突です。より具体的には1956年の砂川闘争では、拡張工事のための測量をしようとする国側と、それを阻止しようとする学生が衝突しました。「闘争」ですから、血も流れます。負傷者は約1000人であるとの資料もあります。これだけの犠牲を払いながらも、学生たちは砂川闘争で米軍基地拡張工事のための測量を国に断念させるという具体的な成果を出しました。
砂川闘争の勝因は、平和部長の森田実氏を筆頭に、現場指揮の小島氏など全学連に指導力があった、当時はまだ機動隊の体制が不十分でありそれほど強力ではなかった、といったことも大きな要因ですが、学生側がマスコミを意識し、大衆を味方につけたことも大きな要因だったようです。学生側は地元の農民の方々と積極的に交わり、農作業を手伝い、米俵の中で寝る、といった具合です。学生側は、孫子でいう「用間」、つまりスパイとしてもマスコミ関係者を使います。警察の情報は学生側に筒抜けであり、そして、新聞は「砂川に荒れ狂う警察の暴行」と書きたてる。大衆が味方につかないはずがありません。
この学生運動に資金を提供した一人が田中清玄氏です。小島弘氏の言を借りると、島成郎氏から「田中清玄に会ってみるか」と聞かれて小島弘氏は「会いましょう」と返事をした。周囲の方々からは、「右翼の田中清玄なんかに会ったら殺されるぞ」と脅されたようです。しかし、小島氏は田中清玄氏に会った。ここで小島弘氏が田中清玄氏に会わなかったら、日本の歴史は全く別のものになっていたかも知れません。
学生運動のスローガンは何であったかというと、反帝国主義、反米です。いつの時代も、若さは最大の武器の一つです。このことを田中清玄氏は見抜いていました。1906年生まれの田中清玄氏は1959年当時53歳。自身、若い頃に武装共産党を率いた経験から、若いエネルギーが共産党の下に結集したらどうなるのかを想像できたのかも知れません。とはいえ、砂川闘争後、反帝国主義、反米だけをスローガンとする運動はそれほどの盛り上がりは見せませんでした。
そこで田中清玄氏がとった戦略は、反帝国主義、反米というスローガンに、当時首相であった岸信介氏に反旗を掲げる「反岸」のスローガンを加えることでした。実際、学生たちは、1959年の60年安保闘争では、日米安保改訂調印のためにアメリカに出発しようとする岸首相を羽田空港で阻止しようとして羽田空港に立て籠るようなこともします。反岸のスローガンは、全学連内部では、国内問題に矮小化し過ぎる、革命性が失われるといった批判もあったようです。しかし、ここに「強を避けて弱を撃つ」の戦略を見ることができます。
反岸を掲げるということでのポイントは、全学連がこのスローガンを掲げて困るのは自民党の岸派という反帝国主義、反米と言った時の対象より、非常に小さいが明確な対象の人たちであることです。
反米という圧倒的大国であるアメリカをターゲットとする戦略から、反岸という必然的に弱みを持つ時の総理をターゲットとする戦略への変換が功を奏したのか、学生運動のクライマックスである1960年の日米安保締結反対の闘争では、全国で580万人、国会デモが15万人、学生が2~3万人参加したと言われています。
田中清玄が「反岸」を学生運動のスローガンに加えることで、財界が動いたことにも触れておかないといけないでしょう。むしろ田中清玄は財界を動かすために学生運動を使った面もあります。逆に「反帝国主義」をスローガンとする全学連は、運動の資金提供を受ける一方で、財界に上手いこと使われた面もあるということです。
さらに砂川闘争に関連して、警察に逮捕された学生に対する最高裁判決があります。法曹界では「砂川裁判」として知られています。この判決に関してアメリカ政府が日本政府に対しどのような工作をしたのか、についてはいずれ別稿で書いてみたいと思います。
*私が本稿の話題について考えることになったのは私自身が、学生時代に砂川闘争を指導し、現在、公益財団法人世界平和研究所参与を務めておられる小島弘氏と個人的に面識があり、さらに、私は学生運動に資金を提供した田中清玄氏が創始のプライベートクラブのメンバーであり、さらに小島氏と共に学生運動の指導者であった故香山健一氏のお弟子さんの一人と一緒にビジネスを遣っているということもあって事情を多少は知り得る立場にいることと無関係であるはずがなく、誌面上で僭越ではありますが、これらの方々に深く感謝致します。
筒井潔(つつい・きよし)…経営&公共政策コンサルタント。慶應義塾大学理工学研究科電気工学専攻博士課程修了。外資系テスターメーカー、ベンチャー企業を経て、経営コンサル業界と知財業界に入る。また、財団法人技術顧問、財団法人評議員、一般社団法人監事、一般社団法人理事などを務める。日本物理学会、ビジネスモデル学会等で発表歴あり。大学の研究成果の事業化のアドバイザとしてリサーチアドミニストレータの職も経験。共訳書に「電子液体:電子強相関系の物理とその応用」(シュプリンガー東京)がある。
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