姑息な集客活動と、見るに堪えない田舎芝居

あまりに異様、というほかない。

混迷を深める現在の政治状況はもちろんだが、その政治状況が生んだ、あの妖怪ならぬ〝幼怪〟一座の姑息な集客活動と、見るに堪えない田舎芝居を、ろくに検証もせず、無批判に垂れ流しているテレビ新聞、大マスコミの報道姿勢である。

全国中継されるテレビカメラの前にも拘わらず、いや、おそらくテレビカメラの前だからこそ、なのだろう。自分にとって邪魔とみた相手のことを、平気でバカだ、クソだとケチョンケチョンに扱き下ろす。

浮気がバレたら臆面もなく、「はい事実です。まだ女房とはきちんと話をしていませんが、たいへんですよ、これから家の中は…」と、暗に〝つい魔が差して脱線してしまったが実は善良な愛妻家〟と思わせるべく宣フ。

しかも念の入ったことに、公私を〝きちんと〟別ける政治家に見せるために、会見場所を途中から〝都合良く〟変える。問題をすり替えたり、巧妙に矮小化するための演出術にばかり長けたこの狡猾な幼怪が、今や今後の政局のキーマンに伸し上がったばかりか、ややもすると国政のトップに立つ可能性まで囁かれているのだ。

社会の木鐸たる大マスコミの目には、この事態が異様だとは映らないのだろうか。だとしたら小欄としては、強く異議を申し立てるほかない。その幼怪と幼怪一座の、とんでもない思い上がりと出しゃばり(国政進出)を許している、大マスコミに対してだ。

 

風呂屋の釜

まずはこの幼怪政治家の表看板とも言うべき教育改革について、ざっとだが検証してみよう。

大阪府知事に就任した2008年の〝教育非常事態宣言〟以来、府立小中学校の学力テスト結果の公表・ランキング化から、学力別のクラス編成、35人学級の見直し、PTAの解体、給食率の100%化、学校運動場の芝生化、特定府立高校の難関大学合格率60%アップ、果ては携帯電話の学校持ち込み禁止まで、それこそどうでもいいこと、よくないことを含めて山ほどの〝改革案〟を公式、非公式に発表している。

しかしこの幼怪は、そのほとんどを結果的にウヤムヤにしたり、撤回しているのが現実である。それもその筈で、いずれもそこに至った背景や実情を精査した形跡が見当たらず、思いつきで言っているとしか考えられないことばかりなのだ。

それが証拠に学力別クラス編成については、当初「塾でもやっていることがなぜ学校でできないのか」と吼えていたにも拘わらず、文科省の事務次官らが理由を添えて不快を露わにしたところ、たちどころに前言を撤回したばかりか、なんと「学校教育の基本であるクラスまで学力で別けるのは、ボクは反対だ」と、真逆の見解を述べているのだ。いやはや。

因みに主要な政策のうち唯一、(これはやったかな?)と思えるのは昨春、幼怪一座の番頭の名前で大阪府議会に提出し、成立させた教育行政基本条例改正案くらいだろう。簡単にいうと、それまでは教育委員会の専権事項だった教育振興基本計画の作成に、知事が主導的役割を担うこととなり、場合によっては委員の罷免もできるという、要するに知事の権限強化案である。

現在の教育委員会の有名無実化や弊害を鑑みると、教育の責任を政治側に持ってくる覚悟を決めたという意味では、それなりに評価していいだろう。しかしこれとて、何らかのシバリ(条件)をかけて実施しないと、知事が変わるごとに基本計画が変わり、教育の一貫性が失われかねないとして、むしろ強く懸念する有識者や関係者の声が少なくないのだ。

そんなこんなを考え合わせると、何のことはない。要するに風呂屋の釜(湯うばかり)である。

そもそもこの幼怪に教育を語る資格が果してあるのだろうか。言うまでもないが、教育の目的は青少年の人格形成を助け、促すことにあり、その要諦は知育・徳育・体育の3本柱に集約される。バカだ、クソだと敢えて下品な言葉で人を扱き下ろし、自分の妻まで人気取りの道具に使うばかりか、それを恬(てん)として恥じない人物である。おそらく徳育なんて概念など、その頭にはこれっぽっちもあるまい。

 

すべて細川政権以来の政治改革のパクリ

しかしそれらは地方での〝チマチマ〟とした話で、国政となるとあの歯に衣着せぬモノ言いや決断力が生きて、この閉塞感を打ち破ってくれるのではないか。少なくとも庶民が不況で苦しもうが、領土を侵されようが、企業の在外ブランチが酷い目に遭おうが、何もしない、何もできない今の政権や既成政党よりは、彼らのほうが遥かに期待できる──。

これが今の、普通の国民の普通の思いであり、大多数の世論ではある。しかし、果してそんなに期待していいのだろうか。答えは〝ノー〟である。何故か。

ひと言で言えば、政権を担うだけの資質と能力が、まるっきりないからである。資質について言えば、前述した教育改革の中で述べた通りだが、更に分かり易い事例をひとつ紹介しておこう。自身の著書「まっとう勝負!」(小学館)の一節である。

「別に政治家を志す動機が、権力欲や名誉欲でもいいんじゃないか。(中略)なんで国民のため、お国のためになんてケツの穴が痒くなるようなことばかり言うんだ?政治家を志すっちゅうのは、権力欲、名誉欲の最高峰だよ。その後に国民のため、お国のためがついてくる。自分の権力欲、名誉欲を達成する手段として、嫌々国民のために奉仕しなければいけないわけよ」。

これには何の論評も要るまい。政策能力や政治手腕も、官僚に脅されたらすぐに撤回するくらいだから推して知るべしだろう。ちなみに例の〝維新八策〟も、すべて細川政権以来のこの20年間に議論されてきた、政治改革の単なるパクリである。

統治機構を変える、議員定数を減らすというのはもちろん、首相公選、地方分権、道州制など、何ひとつ新しい政策は見当たらない。敢えて言えば少々過激に、大胆に打ち出したことくらいか。要するに素人なのである。現に幼怪自身が、自ら率いる一座を「素人集団だ」と断じている。

そこで思い起こしていただきたい。半年余り前にクビになった防衛大臣が、就任の際に述べた言葉である。彼も自らを評して「防衛に関しては素人」と公言している。

調べてみると、これまでも多くの政治家がこの素人というフレーズを、折りに触れて使っている。おそらく謙遜もあるのだろうが、同時に失敗したときのための、エクスキューズ(言い訳)にする目的もあるに違いない。そんな素人に任せて、国がよくなることなんて金輪際ないことは、同じく素人集団に任せてきたこの3年間で、しっかり学んだ筈である。

それでもおそらく、次の選挙で多くの国民が彼らに票を投じるのだろう。しかしだからといってその世論におもねるが如く、このまま幼怪らが跋扈(ばっこ)するのを、大マスコミが黙過していいという理屈にはけっしてなるまい。

編集長/大高正以知

(本記事は2011年1月号に掲載された記事です)