オビ 企業物語1 (2)

テレビから出発、残りの半生を障害者支援に。社会全体を明るくしたい映像制作会社 ‐ 有限会社アクロ

◆取材:綿抜幹夫 /文:北條一浩

有限会社アクロ 齋藤匠

有限会社アクロ/代表取締役・プロデューサー 齋藤 匠氏

残りの半生を障害者支援に。そのためにも、会社をもっと大きく!

人には誰しも、それぞれ人生のステージがある。役者の夢破れてテレビの世界に入り、そこで得た信頼からPTA活動、さらに知的障害者支援と、より広い視野に立った社会貢献活動に進んでいった経営者がいる。その根本には、人生に対するどのような哲学があったのか。アクロ齋藤匠社長に話をうかがった。

 

目立ちたがり屋の少年が役者に。 やがて失恋、挫折を経験

大きなよく通る声で明解に答える。齋藤社長の声は、これまで取材してきた方々とは質が違うようだ。それもそのはず、実は元俳優だったのだという。

「小学校の頃からとにかく目立つことが好きでした。小学校の学芸会では脚本を書いて、それなりに演出を友だちに付けていました。もちろん自分が主演(笑い)。テレビを観て、メディアの向こう側にいる人たちにあこがれていました。そして高2の時、東京のとある劇団の養成所に通うようになります。その後、日大芸術学部に進みました。日芸に入ってまた劇団を受けまくっていましたが、片っ端から落ちました。そして唯一受かったのが加藤健一事務所。加藤健一さんは、つかこうへいさんのところで風間杜夫さんや平田満さんらと看板役者をやっていた方ですね。そこの2期生になりました」

 

役者で生計を立てていくことができる人は、ごく少数の才能だけに限られている。しかし当時は、野田秀樹の夢の遊民社、鴻上尚史の第三舞台などが次々に誕生し、演劇に新しい風が吹いていた時代だった。それは20歳前後の若者には、大きな追い風と映る。しかし、挫折があっさりと訪れた。

「高3から付き合っていた女の子がいたんですが、他に好きな人ができて、振られちゃったんです。それがとてもショックで、劇団に行くのを1日休み、2日休み、ズルズルと休むようになっていきました。そこで、女性1人のことでこんなふうになるなんて、オレはもうこの道はダメだなとスパッとあきらめました。当然、劇団も辞め、働き口を探すことになりました」

 

就職雑誌をめくっていると、「マスコミ」の項目の中に、これはおもしろそうだと直感した会社があった。それが、20代の10年間をそこで勤務することになるレーザー光線のディスプレイ演出会社だった。入社は21歳の時。従業員30人くらいの企業だった。

「兄弟で社長、副社長を務めていて、33歳と27歳の若さ。とても優秀な人たちでした。つくば科学博覧会が始まる前年の募集で、即採用されました。博覧会ブームが始まる頃です。バブルに向かっていった時期。結婚式場でもレーザー光線の機械が売れ、ディスコにも売れました。それまではレーザー光線の機械を持って松田聖子のコンサート会場を回る、みたいなものが主たる業務の会社だったのですが、ハードの製造販売部門を強化していくにあたっての初期メンバーだったので、やりがいもありました」

 

 

26歳で三菱商事の子会社にやがてテレビの世界へ

やがて仕事の内容は、映像制作にシフトしていく。

「最初は演出会社だったのが、製造販売部門の子会社を分社化し、どんどん事業を拡大していきました。映像制作分野に進出しようとしていた時期ですが、ちょうどその頃、各商社がどんどん衛星を打ち上げて、放送通信業界に参入してきました。そんな流れの中で、私がいた会社と三菱商事の新規事業がピタリとかみ合い、三菱からポンと2億円の予算が出て、会社から『おまえ、出向してこい』と。26歳の時でした」

そこから2年間、子会社の責任者として、三菱商事の社内で「ビデオを作りませんか」「新商品を輸入して日本で販売する時の展示会を子会社にやらせてもらえませんか」といった社内営業を担当することになる。ところがなかなか仕事が来ない。「三菱グループ全体に営業しよう」ということになり、今度はグループの各宣伝部がお金を出し合って作った広告代理店・第一企画にまたまた出向し、そこでも社内営業をかけていく。

 

「レーザーの会社が、イギリスの最先端の合成機械を導入した編集所を作っていたので、その技術を生かして『これまで見たことがないようなコマーシャルを作りませんか?』という営業を、第一企画のコマーシャル制作のプロデューサーやディレクターたちにかけていたわけです。私もこの頃からプロデューサーの真似事を始め、また起業家精神も芽生えてきたように思います」

そして時代もまた変化していく。バブルが崩壊し、2億円投資した事業は先行きが見えない。三菱商事側が求めてきたのは事業の縮小と、新規で採用した社員3名の解雇だった。そしてこれを齋藤社長は拒否する。

「私自身が面接して採用した子たちだし、情もあります。彼らに何の落ち度もない。そこで、『どうしても解雇しろというなら私も辞める』と宣言して飛び出しました」

 

そしてほどなく、幼い頃から憧れていた世界に急接近する機会を得る。

ザ・ワークスという、テレビ業界でよく知られた制作会社がありますが、ある人を介して『齋藤、テレビ番組を作る気はないか?』と。『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』という人気番組がありますが、その前身『ウンナン世界征服宣言』のプロデューサーです。どうやらこの番組、制作が非常にキツく、人が足りなくて困っていると。テレビの仕事ができるなんて夢のようでしたし、『楽しければいい。休みも睡眠時間も要らない』と思って取り組み、社員になってバリバリやっていました」

しかしここもまた、最終的に納得のいく場所ではなかった。そしてとうとう、自分の会社を立ち上げることになる。

 

 

PTA活動から障害者支援へ。 後半生のライフワークとの出合い

有限会社アクロ (1)社交ダンスパーティ・デモダンス(左上)
・「タクちゃん訪問ライブ」の様子(右上)・日本PTA全国大会ちば大会・第1分科会市川会場にて(下)

「テレビの仕事をしているうちに、疑問を感じることが多くなってきたんです。まず、ADの労働環境が劣悪すぎる。不眠不休が当たり前で、孫請け会社のADなんかだと、それだけ働いて月に10万くらいしかもらっていなかったりする。あと、人としてちょっとどうか?と思う人が多いんです。面白い番組を作る才能はあるのかもしれないけど、礼儀やモラル、マナーを知らない人がかなりいます」

 

そんな思いからついに、自らの会社・有限会社アクロを興すことを決意する。2001年10月、38歳の時だった。「アクロ」とは「最高、頂点」を意味する古代ギリシャ語で、「最高の意志を持ち、最上のソフト制作をし、最良の人生を送る」、そんな意味が込められているという。

「私の姿勢や会社のポリシーを理解して来てくれる子が多いせいか、出入りしているテレビ局でも、『アクロさんのスタッフは、若くてもとてもしっかりしている。礼儀正しく、明るくて良いね』と言っていただけることが多いんです」

 

齋藤社長にはこの10年、テレビ番組の制作以外に力を注いでいることがある。そちらに力を入れていることで、「あそこは普通の映像制作会社と違う」という評価にもつながっているという。それは、PTA活動と知的障害者の支援活動である。

「PTA活動って嫌々やっている人が多いので、『大人が率先して楽しくやりましょうよ』という活動を始めたんです。それで子供の通う小学校のPTA会長になり、その後、千葉県PTA連絡協議会の会長にもなりました。ある時、市民ミュージカルを運営しているNPOの方と知り合う機会があり、彼らが知的障害者ミュージカルもやっていることを知ったんです。100人の出演者のうち70人が知的障害児。

しかしお父さん役が足りないということで、『齋藤さん、昔、役者志望だったんでしょ? 再デビューの機会が来たよ』なんて言われて(笑い)、それでその知的障害児たちと3カ月間、毎週日曜日、6時間くらい一緒に稽古をしていく中で、『知的障害を持っている人たちってステキだな』と思ったんです」

 

知的障害児だけではない。身体障害や精神障害、性同一性障害など世の中にはたくさんの障害がある。それらを背負っている人たちがもっと社会参加して、明るく生きていける社会を作りたい。そのことをライフワークにしたいと齋藤社長は考えるようになる。

 

14B_human_Acro03「障害を背負っている人たちがもっと社会参加して、明るく生きていける社会を作りたい。そのことをライフワークにしたい」(齋藤氏/写真はチャレンジド・ミュージカルの様子)

「自分の会社を作る時、ある方に言われたんです。『会社というのは大きくするか、大きくしないか、二者択一しかない』と。そこで私は『大きくしない』という決断をした。ところが最近、その決断が揺らいでいます。それは会社を大きくして利益を上げることで、障害者支援の活動を充実させられるし、また社員の幸福にもつながると思うからです」

 

幸い、アクロは昨年、大きな仕事を受注し、収入が2.5倍くらいに増えた。

「私は今年、ちょうど満50歳になりました。ここが折り返し地点だと思っています。だから映像制作のほうは、『オレが時期社長をやります』と手を挙げるヤツが出てきてほしい。そしてそいつに安心して任せ、私は障害者支援に邁進していきたいと思っています」

 

役者志望の青年が、50歳になって思いがけず役者として舞台に立つ経験をし、そのことでまた新たなライフワークが見つかるという、この「回帰」する人生のおもしろさ。

そして「回帰」といえばここに一つ、エピソードがある。齋藤社長が失恋を経験し、役者の道をあきらめる引き金となったその女性こそ、今の齋藤匠社長夫人である。

 

オビ ヒューマンドキュメント

齋藤 匠(さいとう・たくみ)氏…1963年5月24日生まれ。役者を志し、日大芸術学部演劇学科演技コースに入学。2年学んだ後中退し、劇団加藤健一事務所へ。夢破れて退団、レーザー光線会社に就職、イベント映像や企業VP制作にあたる。その後、プロデューサーとして三菱商事社内に2年間出向、さらに三菱グループの広告代理店である第一企画へ2年間出向などの期間を経て、 株式会社ザ・ワークスと契約。やがて2001年、アクロを設立。現在は映像制作のほか、障害者支援、さらに社交ダンスの普及活動も積極的に行っている。

 有限会社アクロ

〒107-0052東京都港区赤坂2-15-18 西山興業赤坂ビル701

TEL 03-5575-5096

http://www.acro-net.tv

従業員数:23名