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株式会社ニッコー こんな時代だからこそ世界に打って出る!

1977年、そのとき釧路は動いた

◆取材・文:加藤俊

 

ニッコー 1 佐藤 厚(さとう・あつし)氏…1946年北海道浜頓別町出身。旭川工業高校卒業後、東京の食品包装メーカーに就職。退社後、1977年株式会社ニッコーを設立。一貫して加工機械の開発・製造に努めてきた。2005年〝第一回ものづくり日本大賞・経済産業大臣賞〟優秀賞を受賞。2007年には経済産業省中小企業庁が刊行する〝元気なモノ作り中小企業300社〟に選定される

 

〝モノづくり〟を標語に掲げる小誌で道東特集を組むならば、ここだけは外せないという企業が釧路にある。〝食〟に携わる加工機械の製造メーカーとして、国内外で高い評価を得ている株式会社ニッコーだ。
特に水産加工の世界では、手作業が当たり前だった加工現場の風景を一変させてきた歴史がある。その功績が認められ、2005年の第一回ものづくり日本大賞経済産業大臣賞の優秀賞をはじめ、数々の受賞歴を持つ同社。水産から〝食〟全般に事業を展開して、釧路から世界市場も見据える同社のこの強さの原点はどこにあるのか?

紐解いていくと、会社を設立した1977年という年にヒントがありそうである……。

 

徹底した現場主義のエンジニア集団

ニッコーは加工機械のメーカーとして、40年近い年月に渡り国内の第一線で走り続けている。

「10企画したうちの1つか2つが、やっと成功するかどうかの世界」

佐藤氏はそう言うが、同社の有名な機械を挙げるだけでも、帆立の殻に蒸気を当てることで貝柱の繊維を傷つけずに身を取り分ける「オートシェラー」、生魚の微妙な個体差を〝人間さながらの眼で〟見極めてカットする「スーパープロフェッショナル」、鮭の加工機械「ガッターマシーン」など、枚挙に暇がない。

帆立の身を取り分けるオートシェラー帆立の身を取り分けるオートシェラー

なぜここまでヒット商品を出し続けることができるのか。その理由は、設計するエンジニア本人に現場を直接見学させる、徹底した現場主義に基づいている。

 

「例えば営業が『こんなものを欲しいんですよ』と聞いてきたものを、エンジニアが又聞きして作ったものは、大概上手くいかないんです。何を欲しているのか、どういったものを作る必要があるのかは、エンジニア本人が現地で声を拾わないと、本当の意味では見えてきません」

 

しかし、現場を熟知すると言っても、その大変さたるや、鋭い観察力と、徹底した勉強があってはじめてできることで、それはもう忍耐のいる世界だ。数々の加工機械を世に送り出してきたことからも、ニッコーのエンジニアの方々の勉強熱心さが窺い知れる。

ただ、ここで一つの疑問が生じる。ニーズから遡って商品開発する経営に、40年近く徹し続けることができたこの〝手堅さ〟といい、水産から食肉、農産、食品、と食全般にまで事業を広げてきたことといい、経営を安定化させることへの佐藤氏の徹底ぶりには凄味さえ感じるではないか。果たして、これはどこに由来しているのだろうか?

 

これを探っていくと、どうやら会社が設立された年に佐藤氏が経験したことが関係していそうである。
1977年。釧路の漁港は最盛期を迎えていた。しかし……。

 

 

二百海里時代の幕開けに得た教訓

船

ニッコーが設立された1977年、釧路の漁業に激震が走った。米国とソ連が、相次いで、自国の沿岸から二百海里内(370キロメートル)の海では、外国の漁船は、勝手に魚をとってはいけないという宣言をだしたのである。通称二百海里時代の幕開けだった。
釧路は、ソ連の二百海里内に入ることで、サケ、マス、スケトウダラなどを獲り、日本一の水揚げ高を誇る漁港になっている経緯があった。

つまり二百海里時代の幕開けとは、日本の北洋漁場からの締め出しに他ならなかった。これには当時、日本中が大騒ぎとなった。魚価も暴騰した。何より壊滅的な打撃を受けるであろう釧路はパニックにすら陥った。

 

その渦中に、若き日の佐藤氏はいた。水産の世界でやっていこうと思っていた矢先に、水産の将来が悲観されるようになったのだ。こうした世相の中、氏の胸中にどんな思いが去来したのかは、後の経営を見ればわかる。

 

佐藤2「今まで活気のあった港の空気が、あの時は激変しました。同時に、どんなに安泰だと思っていることでも、瞬時に崩れる可能性があることを思い知ったんです。手堅くやろう、心からそう思いましたよ。だから水産でも、少しでも安定性のある養殖事業に、さらにその中でも安定性の高い帆立を最初に選んだんです」

こうした原点があるからこそ、ニッコーは、不測の事態に備えるために、経営の安定化を最重視する企業体質になったのだ。そして、その企業風土は現在も生きている。最たる例をあげよう。

 

「来たるべき、TPPに対しては?」

こう、問いをぶつけてみたのだ。すると─。

 

 

将来を悲観したってしょうがない!

鮭写真

「いま世界各地で、〝食〟の多様化が起きています。それに伴って魚の消費量は膨大し、グローバルな規模で魚の争奪戦が行われています。それと、中間層の増加です。食にお金をかける余裕のある層が増えたことで、〝美味しさ〟に繋がる鮮度を求めるニーズは、確実に大きくなっています。我々としては、そこに打って出るだけの準備をもう長いこと進めてきました。この写真を見てください」

 

秋刀魚

佐藤氏はそう言って、筆者に2匹のサンマが写った写真を見せてきた。片方のサンマは、同社の「海氷・シルクアイス」(低温の塩水を含んだ氷水を用いて、魚の鮮度を守りながら冷却する画期的な鮮度保持機械)で冷却保存されているもので、色が明らかに違っていた。活きの良さを示す青光りをしているのだ。

 

佐藤3

「違いが一目瞭然でしょ。鮮度が違います。当然味も。これだと付加価値をつけて売ることができます。少々高くても、この鮮度を求める人達は世界中にいます。ここまでやれば、世界で勝負ができるんです。魚だけじゃない。これは野菜も一緒。だから、確かに、北海道を取り巻く地域経済は疲弊していますが、私としては、それで将来を悲観していてもしょうがない。来るべき荒波に備えて、寧ろこっちから世界に打って出てやる、そうした腹積もりですよ!」

なるほど。〝釧路にニッコーあり〟とは製造業ではよく聞く言葉だが、この会社、TPPどころか有事があったって、のりきってみせるだろう。この企業風土を守っていくことで、百年先にもしっかりと看板を掲げていそうな会社である。

ニッコー 海氷
プリント

 佐藤 厚(さとう・あつし)氏

1946年北海道浜頓別町出身。旭川工業高校卒業後、東京の食品包装メーカーに就職。退社後、1977年株式会社ニッコーを設立。一貫して加工機械の開発・製造に努めてきた。2005年〝第一回ものづくり日本大賞・経済産業大臣賞〟優秀賞を受賞。2007年には経済産業省中小企業庁が刊行する〝元気なモノ作り中小企業300社〟に選定される。

株式会社ニッコー
〒084-0924 北海道釧路市鶴野110番地1
TEL 0154-52-7101
http://www.k-nikko.com

 

 町工場・中小企業を応援する雑誌BigLife21 2013年6月号の記事より


町工場・中小企業を応援する雑誌BigLife21 2013年6月号の記事より