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山勝電子工業株式会社 「愚痴を言う暇があったら一歩先を読め」

◆取材:綿抜幹夫

 

山勝電子工業株式会社 (2)山勝電子工業株式会社 代表取締役社長 金究武正氏(かなくつ・たけまさ)氏…1946年、新潟県六日町(現在は南魚沼市)生まれ。法政大学第一工業高校(その後法政二校と合併)卒業後、プリント回路基板メーカーに勤務。73年に山勝電子工業を設立し、現在に至る。2013年、創業40周年を迎えた。

前例がないは絶好のビジネスチャンス!?

プリント配線基板の設計メーカーからシステム機器メーカーに変貌・飛躍

産業用高密度プリント配線基板の回路設計や製作を行う山勝電子工業。舵取りをするのは、27歳で起業し、40年間、走り続けてきた金究武正社長だ。創業から一貫しているのは、現状に満足することなく、常に一歩先を読んですばやく行動に移す果敢な姿勢。いままたLED照明で新しいステージに立つことになった金究社長に、同社の戦いの歴史と経営哲学をうかがった。

相次ぐ受賞で知名度大幅アップ

山勝電子工業株式会社が手掛けるLED照明

一般照明に比べて圧倒的に長寿命で省電力、しかもCO2排出量を抑えられることで環境への負荷も少ないLED照明が注目されている。

山勝電子工業では、他社に先がけてLED事業に取り組み、直管型LED照明の製造により、「かながわ産業Navi大賞2012」の環境(エコ)部門で大賞に輝いた。

「ウチが開発した『YAMA LIGHT』は、炭酸ガスの放出量が業界一低く、オンリーワンのお墨付きをいただきました。同大賞のほか、2012年2月には、川崎市が推進する『低CO2パイロットブランド12』の認証もいただきました」

山勝電子工業株式会社 (4)金究社長は胸を張る。白色LEDを使用した同製品は、蛍光灯並みの明るさを保ったまま消費電力を45%以上削減するという。山勝電子工業がLED事業に進出できたのは、単に目を付けるのが早かったというレベルの話ではなく、着実な技術の積み上げがあったからである。

 

「話は平成12年頃まで遡りますが、ブルーレーザーダイオードの検証装置の開発をやりました。それまでは赤色のダイオードを使っていたのですが、赤は波長が長く、情報量の多い高画質のDVDなどには使えなくなってきていたんですね。そこで波長の短いブルーレーザーダイオードに移行するわけですが、当初は世の中にまだブルーレーザーダイオードを検証する装置がなかった。

簡単に言うと、冬の北海道のような寒さや、逆に真夏のクルマの中のような厳しい温度条件でも安定的に動くかどうか、湿度や電流の量などによって左右されないか、そういうことを検査する装置です。実はウチの会社は、それまでプリント基板の設計を主にやってきたので、社内に技術者がいない状態だったんです。

しかしこれからの時代、設計だけをやっていたのではダメだ、装置の製造もできるようにならなければという危機感があり、思い切ってトライしました。なにしろ技術者がいないんですからたいへんに苦労しましたが、なんとか完成させて、これがウチの初めてのオリジナル製品になりました」

 

この記念すべき製品は「レーザーダイオードパルスエージングシステム」で、2000年9月に1号機を出荷している。神奈川県の産業大賞技術奨励賞を受賞し、ここから山勝電子工業は、設計の会社からシステム製品もできる会社へ、開発からすべて自社で一貫してやれる会社へと成長していく。

 

賞を受けるということは単に名誉の問題ではなく、実質的な効果も大きいと金究社長は強調する。

「大手企業と違って、われわれには知名度がありません。いくら製品に自信を持っていても、それが本当に信頼できる製品なのかどうか、なかなかわかっていただけないんです。では自前でCMを打つかといったら、もちろんそんなお金もありません。そこで重要なのが、公的機関やそれに準ずる所に積極的に出展し、そこで評価されることで信頼を獲得していくことなんです」

実際、これまでの数々の受賞の度に知名度が上がり、新規顧客からの問い合わせが増え、チャンスが広がっていった。「かながわ産業Navi大賞2012」受賞後は、学校や病院、老人ホームなど公共施設からの問い合わせが相次いでいるのだという。

 

 

未踏の地をめざす果敢なフロンティア精神

秋の草

山勝電子工業が川崎市中原区に誕生したのは1973年。今年でちょうど40周年を迎える。当初はプリント回路配線基板の設計会社としてスタートを切った。

「私自身、プリント配線基板メーカーに勤務していまして、『この分野はこれから伸びる』という確信がありました。私は新潟県の出身で、東京に出てから高校に通い、卒業後に就職しましたが、25歳くらいから『この広い東京で、家庭も自分の家も持ちたいと思ったら、当時の中小企業のサラリーマンでは無理なんじゃないか。自分で会社を興すしかないんじゃないか』と思うようになったんです」

 

新潟県六日町に生まれた金究社長は、多感な時期に父親を亡くし、川崎に住む姉を頼って上京する。高校は電気科に通い、先のプリント配線基板メーカーにしばらく勤めた後、いよいよ仲間2人と会社を立ち上げる。

「今でも憶えていますが、3人で喫茶店で将来設計を話し合っていた時、私は『10年以内に自社ビルを建てたい』『この業界で5本の指に入ってみせる』と宣言したんです。他の2人には『いくらなんでもそりゃ無理だよ、できっこない』と笑われました。その2人はその後辞めてしまいましたが、私は必死で努力を重ねました」

今でこそCADが普及しているが、当時はまだ自動作画機(プロッター)しかなく、しかも1台1億円もするその機械を、創業しておよそ7年半で購入する。その後、本社ビルが竣工したのが1983年11月26日。設立が1973年12月21日だから、9年11カ月で見事に有言実行を果たしたのである。

 

こうして一国一城の主となってからは、時代の先を読む金究社長の感性と努力が爆発し、見事に開花していく。

「昭和53年ごろ、出身地である新潟に設計事務所を作りました。大手企業の工場はあっても、地方に設計事務所を作ろうという発想は当時、誰も持っていなかったはずです。しかし私には、東京の大学を出ながらも田舎に戻され、大学で学んだことを生かせる受け皿の会社がなく、ぜんぜん関係ない職業に就き専門知識を持て余している若者がたくさんいるはずだという読みがありました。彼らを生かせる場所を作れば定着率も高くなるだろうし、ウチみたいな無名の企業でもいい人材が確保できます。

この狙いは見事に当たって、それ以降、地方に設計事務所を構える会社が増えましたね。ちょうどファクシミリが出始めた頃で、私はすぐ、『首都圏で受注した仕事をFAXで地方に送り、地方で図面を作って送り返す』という発想を描きました。そこで、当時は社員5千人規模の会社でも総務部に5台あるかないかくらいだったFAXを、社員たった30人のウチの会社で2台入れたんです」

 

常識に囚われないこと。誰もやっていないことに挑戦すること。自分の会社には今何が足りなくて、将来どうしたいのかを徹底的に考え抜くこと。金究社長は何物も恐れずに突き進んだ。そこには常に、熱い志とクールな頭脳が同居していた。

「1システム1億円ほどする本格的なCADを、どこよりも早く導入しました。銀行の融資を受けるのに苦労し、売るほうも、あからさまに『山勝? 聞いたこともない名前だが、そんな会社がCADを何に使うのか』という態度でしたね。しかし、導入したおかげで宇宙開発事業団のロケット制御回路の基板設計をやらせてもらい、その成功で信頼が生まれ、防衛省関連の設計の仕事などにつながって行きました」

 

 

ビジネスチャンスはいくらでも転がっている

プリント

「前例がない」という理由ですべてをやり過ごすのがこの国の役所の答弁だとすれば、まさにその真逆、自らパイオニアとなって荒野を切り拓いていったのが金究社長の人生である。そんな骨太の経営者の目に、昨今のモノづくり企業の苦境はどのように映っているのだろうか。

 

「これだけの規模の不況ですから、正直ウチも厳しいです。受注量は確実に減少しています。大手メーカーは海外にどんどん移転していますが、しかし付加価値の高い技術はそう簡単には持っていかないはずです。まず、そういう部分の仕事を探すのが一つの手だと思いますね。大手が移転した先で、次に何が起きるか。それに対して自分の会社に何ができるかをとことん考えてみる。

今日の明日では無理でも、複数の種を蒔いておけば、少なくとも1年か2年以内には何らかのアクションを起こせるようになるはずです。会社の規模と経験値から、『これとこれは行けるのでは?』というものについて、早くから手を打っておくことが大事ですね」

 

金究社長は、不平ばかり多くて行動しない経営者が多すぎる、その態度がビジネスチャンスを逃しているとバッサリ斬り捨てる。

「政治が悪いなんてボヤいたところで、何一つ変わらないでしょう? 例えば中国との関係だって、何も直接、中国人と仕事をすることだけが仕事のやり方ではない。今、中国に進出している日本企業が2万社とも3万社とも言われていますが、それらの本社は日本にあるはずです。それらの中には、対中国ビジネスでの様々な苦労や悩みが必ずある。それらを丁寧にヒアリングしていって、そこに共通する問題点は何か、そのことに対して自分の会社に何ができるのか、そんなふうに問題を立て直してみたら、いくらでもビジネスチャンスが見つかるはずです」

 

自らの手で風向きを変え、危機を回避し、社員を養ってきた経営者の言葉には大きな説得力がある。先を読むこと。準備を怠らないこと。会社の経験値と能力を冷静に計算し、今後の方向性を見定め、果敢な投資行動に打って出る。そこに、モノづくりが生き延びるためのヒントが、必ず見つかるはずだ。

金究社長の経営ポリシーと行動スタイルには、今ではすっかり陳腐化してしまったが、かつて日の出の勢いにあったあのベンチャー企業の原型を、垣間見る思いである。

 

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プロフィール

金究武正(かなくつ・たけまさ)氏…1946年、新潟県六日町(現在は南魚沼市)生まれ。法政大学第一工業高校(その後法政二校と合併)卒業後、プリント回路基板メーカーに勤務。73年に山勝電子工業を設立し、現在に至る。2013年、創業40周年を迎えた。

山勝電子工業株式会社

〒213-0013 神奈川県川崎市高津区末長541-4

TEL 044(866)2413

http://www.yamakatsu.co.jp

 

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経済金融研究所 加藤隆一 所長(元 財務省国際金融局開発金融課課長補佐) 日本の伝統的な精神文化に経済・経営立て直しのカギを探せ!