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株式会社浅草大黒家 天麩羅屋のご隠居は、数々の公職を歴任する「浅草の語り部」だ!

◆取材:綿抜幹夫 /撮影:周鉄鷹

 

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協同組合 浅草商店連合会 理事長/㈱浅草大黒家総本店 丸山眞司氏

東京スカイツリー人気は国内だけに留まらず、外国人観光客にも及んでいる。開業1年の来場者数は638万人。スカイツリータウン全体の来場者数で見ると5080万人という破格の数字を叩き出している。そして、その多くが浅草にも足を延ばすという。古くからの歓楽街は新たなランドマークを得て、往年の活気を取り戻そうとしている。そんな浅草に生まれ、浅草をこよなく愛する大旦那・丸山眞司氏。浅草を代表する通人が熱く語る!

老舗天麩羅屋の店主が表の顔なのだが……

浅草 浅草寺

創業明治20年。浅草の老舗天麩羅屋「大黒家」。本店・別館を構え、連日お客は引きも切らない。そのお目当ては「天丼」。ご飯が見えないくらいに大きい海老の天麩羅が4尾も乗っている、見た目にもインパクト抜群の天丼だ。もちろん、味も見た目に勝るとも劣らない。ごま油だけを使って揚げたキツネ色の天麩羅を、ちょっと辛めなタレにつける、一度食べたら忘れられない懐かしい味。120年を超える歴史の重みを醸しだす一杯と言って過言ではないだろう。

 

その大黒家4代目店主が丸山眞司氏だ。現在、実務は妻・益江さんが取り仕切っているので、ご隠居さんを自認している。

だが、このご隠居さんは、日がな一日縁側でお茶を飲んでいるような、枯れた人ではない。地元の様々な役職を兼任し、さらには自らオーケストラまで運営するアクティブな大旦那だ。

 

「私は根本的に商売人ではないんですよ。経営のことや売上なんかぜんぜんわかっていなくてね」

そう謙遜なさるが、「商売人ではない」という部分はある意味事実かもしれない。

 

「私はもともと音楽家志望だったんです。しかし、長男だったから家業を継がないわけにもいかなかった。親父はピアノの名手でしてね。私はファゴットというあまり知られていない楽器を演奏しています。やっている人が少ないから、演奏するチャンスは多いんですよ」

丸山家は先代、ご尊父のピアノに始まり、益江さんはプロのヴァイオリニスト、丸山氏自身も上野浅草室内管弦楽団を台東区の教育委員会と共に創立され、自ら木管楽器ファゴットを演奏し、年2回の定期演奏会を開くまさに音楽一家なのだ。

さらに音楽活動のみならず、数々の公職を歴任。特に地元の地域振興には並々ならぬ熱意を持って活動中だ。

 

 

京都から落ち延び、浅草に根を下ろした丸山家

京都

丸山眞司氏は丸山家の当主。明治維新以降から数えると4代目に当たる。もちろん、それ以前の江戸時代から続く由緒ある家柄だそうだ。

先祖は江戸時代には京都にあって役人をしていたそうだ。だが、京都は明治維新の動乱の時期、蛤御門の変で焼土となった洛中の復興も終わらないうちの東京遷都で、大打撃を受けた。

 

江戸、大坂と共に日本の三都であった京都の人口は維新前、江戸百万人、大坂五十万人に続く約三十万人。尊皇攘夷、倒幕運動の高まる中で政争の中心となった幕末の京都へは全国の諸侯、藩士、志士、商人らが押し寄せて人口も膨張し、不穏さを漂わせながらも市中には活況がみなぎっていた。だが、この活況も東京遷都で潮の引くように消え去った。

遷都後の京都市域の人口は明治3年の約33万人が同5年に約24万人、同7年約22万人に急減したと言われる。丸山家の人々も京都を離れざるを得なくなった。

 

「それで東京に出てきてどうやって食っていこうかってことになって。武士の商売でずいぶんと苦労したようです。ですが、ご先祖が浅草に出てきてくれたことが幸いでした」

浅草。下町の風情が薫る独特の雰囲気が魅力だろう。

都内最古の寺・浅草寺や日本最初のバー・神谷バーなど、古い歴史を感じさせる施設が多いのも特徴だ。日本を代表する観光名所であり、さらに三社祭や浅草サンバカーニバルといった新旧取り混ぜたイベントも数多く開催される。

 

江戸時代、浅草が大いに発展したのは、蔵前に米蔵が置かれ札差が登場してきたためだ。蔵前は、日本全国から集められた食用米や武士たちの給料としての米などを保管していた。また、これを守るために大勢の警備が配置され、下級役人が暮らしていた。

江戸時代は、武士の給料は米で支払われていたため、武士のために米を保管するだけでなく現金にも替えてくれる札差という商人が現れた。札差は預かった米から手数料を引いて現金を武士に渡した。手元に残った米は小売の米屋たちに手数料を付けて売った。

 

札差は武士と小売の両方から手数料が取れるため莫大な利益を得て、さらに儲けた金を元手に金融業まで行い富豪となっていった。この富豪が豪遊する場として、浅草は発展した。

また、両国を中心に蔵前商人は店を構えていたので、商人や武士たちの多くが浅草周辺に集まった。中でも浅草には人・物・金が集中した。

江戸 町並み

1657年(明暦3年)の明暦の大火の後、新吉原遊郭が移転してきた。1841年(天保12年)の天保の改革では、江戸市中に散在していた歌舞伎の芝居小屋(中村座、市村座、河原崎座)などを現在の浅草六丁目一帯に集め、猿若町と名づけて芝居町とした。

当時、芝居小屋や吉原に出入りしては粋を競い、豪遊を行った町人を通人と呼んだが、中でも「十八大通」と呼ばれた人々がおり、その多くが札差であった。浅草の庶民文化、江戸の粋にはこのような背景がある。

 

明治時代には、当時としては画期的なエレベーターを持つ高層建築である凌雲閣(12階建)などが建てられ、江戸以来の繁華街として新たに演芸場や劇場が建ち、東京らしい文化の発信地、歓楽街として知られるようになった。

昭和に入り、戦災により一時期の繁栄の勢いが失われたが、戦後には浅草寺周辺をはじめ、田原町、蔵前、合羽橋周辺の旧浅草区の道路整備が進み、拡幅された碁盤の目をもつ街並みとなった。

 

このように古い歴史を持つ浅草の町に、自身が生まれ育ったこの町に、丸山氏は並々ならぬ思い入れがある。町と共に生き、町の繁栄を願って止まない。だからこその矜持がある。

 

「私がお手伝いしている浅草法人会には、6000社ほど加盟しています。その中で法人税を払っている、つまり利益の出ている会社は微々たるものです。日本に400万社以上ある中小零細企業はほとんどこんなものでしょう。うちは天麩羅屋だが年間十数億の売上があります。当然、この町の中ではトップクラスに税金を納めています。それはこの町の真ん中を堂々と歩きたいからにほかなりません」

店の繁栄は町の繁栄のためでもある。現在は社長の座を退いているが、それも次代のためだ。

 

「60歳で孫が出来て、これは代替わりを考えなきゃいけないと思いました。そこで会社の役員会に退任についてかけてみると満場一致で認められました。つまり店の方は私じゃなくてもやっていける目処が立っているというわけです。今は女房が社長を務めていますが、これは息子が継ぐまでの『つなぎ』です。息子には40歳になるまでは人の上に立つなと言っています。その40歳まであと4年。それまでに立派な社長を作り上げるのが、会社における私の責務ですね」

 

 

音楽への思いは消えず……

父親の影響か、音楽に関する才に恵まれた丸山氏。浅草という町も、その才を育む要因となっているそうだ。今のように音楽を記録する媒体がない明治時代、外国の音楽は当然譜面でしか入ってきませんでした。そうなると、譜面が読める上野の東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に海外からの音楽が集まって来たんです。

日本でいち早く外国音楽が演奏されたのが上野だったわけです。そういう文化が上野から浅草に降りてきました。それこそ蕎麦屋の出前のお兄ちゃんが鼻歌で歌ったりしていた。それが後の浅草オペラに発展していったということです」

そして前述の通り、上野浅草室内管弦楽団を創立、運営する機会を得た。

 

「台東区の教育委員会から委嘱されて、楽団を作りました。アマチュアでやっているので指導者を置かないといけないと思い、指導が上手と評判のヴァイオリニストを呼んできました。それが現在のかみさんです」

大黒家別館で定期的に開催されている『大黒家室内楽シリーズ』という音楽会では、益江さんはもちろん、丸山氏も演奏を披露している。

 

 

世話焼き親父には言いたいことが山ほどある!

浅草 浅草寺 (2)

愛する浅草だからこそ、町のために言いたいことがある。

 

「スカイツリーが出来て、年間何百万人と集客している。そのうちの75%が浅草にも観光に来るようになりました。だが、持ってくるのは空の財布とゴミなんです。スカイツリーと周辺の商業施設には顧客を囲い込んで、そこにお金が落ちる仕組みが見事に出来上がってしまっている。

現在のスカイツリーは一過性のブームに過ぎません。いずれ来場者は落ち着きを見せるでしょう。今、このお客さんが浅草にも来てくれているうちに浅草ファンを増やさなければなりません。そのためにも浅草に来てよかったと思われる施策を打ち出さないといけないんです。それは浅草に長くいる我々の務めです。そのために私は働いている」

地域の活動に積極的なのは、あるいは浅草っ子気質なのかもしれない。だが、こういう世話焼き親父こそが、浅草に根付く古くからの文化を継承するために必要な存在なのだろう。

 

「今、本を作っています。浅草に住む人、浅草で働く人みんなに読んでもらいたい本です。1章には江戸の川のことを、2章には江戸しぐさを取り上げています。全4章70頁くらいになるかな。これに書かれていることくらいは常識として知っておいて欲しい。これはいわば私の遺書替わりみたいなもんですよ」

浅草の大旦那の心意気は、間もなく形になる予定だ。一読に値する名著を待つことにしよう。

 

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●プロフィール

丸山眞司(まるやま・しんじ)氏…1948年東京浅草生まれ。中央大学卒業。浅草の老舗天麩羅店・大黒家の長男として生まれ、40歳のとき、家業を引き継ぐ。社長業の傍ら、地域活動にも熱心に取り組み、現在浅草商店連合会理事長の他、様々な団体の要職を務めている。二児の父。

●協同組合 浅草商店連合会(事務局)

〒111-0032

東京都台東区浅草1-25-15 ROX5F

TEL 03-3841-9250

http://asakusa-kankou.com/

●株式会社 浅草大黒家総本店

〒111-0032

東京都台東区浅草1-38-10

TEL 03-3844-1111

http://www.tempura.co.jp/

 

 

2013年9月号の記事より

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