株式会社シー・アール・エム – 祖父・父と続いた経営危機の印刷会社 旧来の経営を捨て、 挑戦を続ける3代目社長
倒産寸前だった家業を継ぎ、V字回復を成し遂げた株式会社シー・アール・エム代表取締役社長松村祐輔氏。
しかし、それまでには過去成功した経営方法を頑なに守る先代との対立や、数々の失敗があった。
生まれながらに後継者に決められていた
「本来であれば今年、創業70周年を迎える有限会社松村印刷所。
名古屋で祖父が創業し、父に受け継がれたその会社が私の家業です。
しかし、私が入社する頃には4期連続の赤字決算。もう風前の灯という状態でした」今年、創業70周年を迎える有限会社松村印刷所。
こう話すのは、株式会社シー・アール・エムの松村祐輔代表取締役社長。
2002年に有限会社松村印刷所に入社、04年から現職に就いている。
70年前、終戦直後の名古屋で会社を起こした松村社長の祖父は達筆で有名な人で、他人に代わって字を書く仕事、筆耕屋をしていた。そこでの繋がりから印刷業を起業、その後特に官公庁の記録出版物を一手に引き受けるようになると、会社の業績は急上昇していった。
「父が会社を受け継いだ時は、高度経済成長の真っ只中。仕事は何もしなくても舞い込んでくるし、やればやっただけ金は入ってくる。その頃の父は常々私に対し『印刷屋は儲かるぞ』と言っていました。私が高校生くらいの時です」
更に、名古屋市内の再開発に乗じて所有していた土地を売却。それを元手に自社ビルを建築する。時流に乗じ、絵に書いたような拡大路線を突き進んでいた。
「しかし、そんな勢いに任せた経営が続く筈もなく。
90年代に入りバブルが弾けて以降はあっけなく経営は苦境に陥っていきました。当時私は愛知県内の大学に実家から通っていたのですが、家で過ごしていると両親が夫婦喧嘩している声がよく耳に入ってきました。
原因は会社の資金繰り。バブルの時代のツケが経営を苦しめていました」
幼い頃から「ゆくゆくは松村印刷を継いで3代目になれ」と言われていた松村社長は、大学で経営やマーケティングを学んでいた。
「父が昔話していたほど印刷業はそんなに甘いものじゃない、と感じながらさあ就職、となった時に、父から『まずは外のメシを食べて来い』と言われて、それで一旦別の会社に就職したんです」
新卒で入社したのは野菜や果物などの青果物のパッケージを製作する会社。扱うモノは違うとはいえ、実家と同じ印刷関連の会社だった。営業として全国を飛び回り、各地の農協などに伺い鮮度の長期保持やより美味しそうに見せるラッピングなどを提案する日々だった。
「結局、5年間サラリーマン生活をしていました。仕事は楽しかったし、評価も良かった。成績も優秀でしたしね。慣れてきたな、と思っていた矢先に、父からの連絡が入ってきた」
「帰ってこい」。その一言で後ろ髪を引かれる思いで5年間を過ごした会社を後にし、改めて実家に戻ることになった。
「入社してから実家の決算書を見たら、そりゃあ酷いものでした。最盛期2.4億の売り上げがあったのが1.3億まで下降し、その時で4期連続で赤字を出していた。
このまま進んで行ったら、余命は3年か、長くても5年。そんな状態でした」
生まれながらに継ぐことが決められていた家業は、瀕死の状態だった。それを生き返らせるためには、大ナタを振るって大手術をしないとならなかった。
しかし、そのためには父である社長を説き伏せ、納得させねばならないという長い戦いが待っていた。
後継者でありながら、創業者になる
「父はとにかく、自身が成功していた時の方法に固執していました。
官公庁から仕事をもらっていれば、こちらから営業に駆け回らなくても問題は無い。印刷業界の仲間同士で仕事を融通し合っていればやっていける。だからその辺りとの繋がりだけを重視していろ、と世の中は2000年代に入っているのにまだ言っていた」
しかし、その最大の顧客である官公庁関係の文書も電子化が始まっていて、入札も電子入札になりつつあった。
「それなのに、当時社内にまだパソコン数台しか揃えられていなかった」
松村社長としては、今後も拡大が見込めないそんなジャンルで勝負を続ける気はなかった。やるのであれば今まで手を出してないジャンルをと考えていた。
「やりたかったのは販促やセールスプロモーション。
サラリーマン時代に知ったことでしたが、そちらのジャンルにはまだまだ開拓の見込みがあるし、それに自分の知識と会社が培ってきた経験を両方とも生かすことができる。これだ、と思いました」
早速デジタル印刷機と大型インクジェットプリンタを導入したが、古い方法にこだわる父はそれに反発。
それからは連日、父と経営方針について大ゲンカすることになったが、話は一向に噛み合う様子もなく、ただただ平行線を辿っていた。
「サラリーマン時代の会社は、社員60名ほどでしたが、経営方針も理念もあり、戦略もあった。
しかし、松村印刷所は社員数12名、そのほとんどが印刷工です。営業は2人いましたが、ほとんど仕事は父が取ってくるもの。典型的なワンマン経営、会議すらなかった。
その延長でこれからも会社を続けていく、というわけにはいかなかった」
実は松村社長、いきなり苦境の印刷会社を継ぐのは過酷だと考え、別会社を起していた。
それが販促支援とウェブを活用した事業を専門に行う会社、株式会社シー・アール・エムだった。
この会社が獲得してきた仕事のうち、印刷関係の仕事を有限会社松村印刷所に発注する、という形にしていたのだが、株式会社シー・アール・エムは父親による掣肘もなく、松村社長の自由に展開、活動の手を広げることができた。
「特に利益を上げることができたのが、当時業界が急成長していたパチンコ業界から仕事を得ることができたからです。
名古屋はパチンコ発祥の地として有名な地域。店舗も多く、全国でも有数の激戦区になっています。
その販促支援グッズを製造・提案したのですが、これが受けて業績が初年度に5000万、それから毎年1億・2億と拡大していった。それで、自分の方針に確信を持つことができた」
こうして2004年、父は60歳になったのを期に社長職を退き、会長となった。
松村社長は、有限会社松村印刷所を株式会社シー・アール・エムがM&Aする形で統合し、2005年1月1日、新たなスタートを切ることになった。
数多くの失敗を経験しながら学ぶ
「こう話すとスムーズに成長していっているように聞こえますが、勿論そう簡単に進んで行ったわけではありません。数多くの失敗も経験しています」
そう話す松村社長が今でも覚えている大きな失敗が2つある。
「1つはパチンコ店に置く宣伝用ポップを全国展開しようとした時。
ウェブを使って全国の上位売上3000店をピックアップし営業をかけたのですが、当時プレイングマネージャーのような立場で、私自身も営業として全国を飛び回っていたので、どうしても注力することができず、中途半端になってしまった。それが敗因ですね。
もう1つがリーマンショックの時期に地域密着を謳い、地元の店舗で利用できるクーポン券を付けたフリーペーパーを印刷・配布したことです。
自社媒体を作って、ということも冒険的でしたが、既に当時飲食店もネット媒体を使った宣伝に移っていて、赤字を出すだけでした。1年半で1500万円ほど赤字を計上したところで、手を引きました」
現在まで18の事業を立ち上げたが、うち12は手を引いているという。
こうした失敗から学びながら、松村社長が今、主力の1つとして扱っているのが料理メニューの印刷と製本だ。
「どの料理店でもメニューは必要ですよね。しかし、小さな店では印刷のロット数も少なく、一般に印刷屋はあまり受けてくれません。これに着目しました。たとえロット数が少なくても、装丁などまでこちらで引受け、各店の好み・コダワリに合わせてカスタマイズできるようにすれば、充分利益は成り立つ。
今は小さな店でも自分で写真を撮り、印刷もできる。しかし凝った装丁までは自分たちではできない。
そこにチャンスがあると思って始めたのですが、好評を得ています」
M&Aしてから14年。今まで一度も赤字を出していないという、その経営の秘訣について伺ってみた。
「弊社はニッチな製品に特化した専門店、という方針をとっています。
サイトも、メニュー製作を受けるサイトならメニューだけ、という出し方をしていて、メニュー製作が得意なんだという点をアピールしています。
他にもアクリルグッズへの印刷や、大判の印刷のサイトも別個に運営していて、『狭く深く掘り下げる』という点を徹底しています。そ
れによって、クライアントの希望にピンポイントでマッチできています」
2013年には東京にもオフィスを構え、会社の更なる飛躍を図っている。
「どうしても仕事は東京に多くありますからね。現在売上の35%は東京から受けた仕事です。『江戸で受注して尾張の工場で作る』と私は言ってます。
今後は東京オフィスの採用も増やし、人材を充実させていきたいですね」
経営統合してから14年。昨年度の売上は7・4億に達し、もう父からも意見をしてくるようなことは無くなったという松村社長。
「今後も拡大・展開していきたいと考えています。
これからはVRやアプリを利用した印刷の営業にも注目しています。弊社の持つ大型の印刷機では壁紙の印刷もできるので、内装リノベーションなどにも手を広げていきたいですが、今後の課題ですね」
この取材を受けた後は、アメリカに飛んで商談を行う予定だという。既に松村社長の目は海の向こうすら見据えている。
社長就任前は官公庁関連の仕事は売上全体の95%以上を占めていたが、今は民間からの仕事が90%になった。
14年間でガラッと会社を変えた松村社長の座右の銘は「知行合一」。
己が考え思いついた事は実行しなければ悪であると説く、陽明学に発するその教えは古くから吉田松陰や西郷隆盛などの革命家を生んできた。
今、旧態を脱した松村社長は、経営を「革命」する道を歩み続けている。
●松村祐輔
1974年、愛知県名古屋市生まれ。
愛知学院大学卒業後、野菜パッケージメーカーで5年勤務した後、祖父の起業した有限会社松村印刷所に入社。
同年、株式会社シー・アール・エムを設立、代表取締役に就任。
2005年、両社を経営統合し、現在に至る。
●株式会社シー・アール・エム
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名古屋オフィス:愛知県名古屋市中村区名駅5-21-8船入ビル3F