オビ 企業物語1 (2)

株式会社ナミキ ‐ 世のため人のために資する企業へ・創業78年の不動産トータルサポート企業

◆取材:綿抜幹夫 /撮影:高永三津子

株式会社ナミキ石塚隆正

株式会社ナミキ/代表取締役社長
石塚隆正氏

 「心地よい生活空間を提供する」「顧客のために尽くす」銀行出身の4代目社長に聞く

建設、賃貸、土地・建物の活用からリフォームまで、不動産に関するトータルサポートを手がける株式会社ナミキ。創業78年を数える同社の石塚隆正社長は、4代目にして初の創業家外の出自、銀行マンからの転身だ。

 

◎ナミキの歴史

「町の不動産屋」として創業

同社は1937年、並木俊雄氏によって「東京不動産取引所」として創業された。今と同じ東京都板橋区成増3丁目12番地に木造2階建ての社屋を構え、いわゆる「町の不動産屋さん」としてのスタートである。東武東上線成増駅周辺から練馬区光が丘地域の発展の基礎を築いた同社は、古くからの地域住民にはよく知られる存在だ。

 

アメリカ高級官僚の住宅地へ

創業から3年後の1940年、国を挙げての「紀元二千六百年」記念事業の一環として、立川の昭和記念公園と光が丘一帯の2カ所が大森林公園の指定を受ける。樹々を剪定し、公園として整えられたが、わずか3年後の1943年、戦局が緊迫する中、どちらの土地も陸軍の飛行場となってしまう。その後2年を待たずに終戦を迎え、アメリカによる日本の統治が始まる。高級官僚が来日、きれいに伐採され広い芝生も有する飛行場跡は「グラントハイツ」と名を変え、彼らのための住宅地に姿を変えた。

 

返還をきっかけに発展

やがて1972年、沖縄と同じ年に光が丘の土地も返還されることになる。すでに自由主義諸国の中で2番目の経済大国となっていた日本だが、なお敗戦を引きずっていた。日本国に直接返すわけにはいかないと、民間企業が間に入ることになる。このとき手を挙げたのが並木俊雄氏だ。埼玉銀行(現・埼玉りそな銀行)から資金を借りてアメリカ軍の土地を買収し、日本国に売却。差額で多少の利益が出たことが、同社発展のきっかけとなった。返還された光が丘地域182ヘクタールの土地に、小中高等学校を15校併設した近代的な公団住宅を建設、その分譲を始めたのだ。

 

合併、株式会社ナミキとして

時は流れ、不動産事業と、賃貸住宅を建てる建築事業をそれぞれ手掛ける「ナミキ不動産」「ナミキ建設」の2社体制の時代を迎える。顧客に信頼や満足を提供できなければ、支えてもらうことはできない。地域社会に認められ、口コミで「あの会社はいいよ」と言われる企業にならなければ存続できないという発想から、「心地よい生活空間を創出すること」を早い段階から理念と定めていた。この理念は、現在の同社にも引き継がれている。

その後2006年にグループ各社が合併し、「株式会社ナミキ」が誕生。同社の事業は土地所有者に向けた賃貸住宅の建設の提案から始まり、旧ナミキ建設である建設部隊が建設を担当。その後は旧ナミキ不動産である不動産部隊が入居者を募り、賃貸管理まで手がける。優良物件は同社で借り上げ、賃料保証を行う。この一貫した体制が、土地所有者の支持を集めた。かつての高度成長期には首都圏への人口流入の波に乗り、1都3県に拡大。2015年8月現在の管理戸数は1万5510戸、業界内で全国60位に位置している。

 

6つの子会社

入居者の退室時には、原状回復や小規模な営繕・リフォームが必要だ。数年おきに外装外壁の塗り替えや、室内設備の交換もしなければならない。不測の事態に備え、賃料の保証会社もあった方がいいだろう。オーナーたちも、はじめは共済会という形でお金を出し合っていたが、発展的に同社が少額短期保険を始めることになった。建築現場で足場を組み、木材や基礎資材を提供するリース会社を作ろうという話も出てくる。

このように、事業を運営していく上でのさまざまな必要に応じて子会社が作られていき、現在の同社は本社と6つの子会社から成る企業集団となっている。

 

高齢者賃貸住宅への展開

2014年度の賃貸住宅着工件数では、関東圏で11位の実績を誇る同社。直近では少子高齢化時代に対応するべく、サービス付き高齢者賃貸住宅の建築・管理運営も開始し、現在5棟300室を有している。生活相談や、介護スタッフが24時間常駐するなど手厚いサービスが用意されているが、特別擁護老人ホームや介護付き有料老人ホームといった〝施設〟ではなく、あくまで入居者のペースで生活ができる〝マンション・タイプの賃貸住宅〟として、高齢者に安全・安心・快適な暮らしを提供している。

 

 

◎石塚氏の半生

東京三菱銀行

銀行マンとしてキャリアを積み、東京三菱銀行の本店営業部で実績を残した同氏。横浜正金銀行を前身とする東京銀行から、1996年の合併によって旧三菱銀行の営業本部に配属された経歴の持ち主で、国際金融や外国為替が専門だ。2000年に下赤塚支店の支店長に就任した同氏は、わずか1年半で外国為替を3000万米ドル程度から3倍増の規模にまで伸ばすことに成功。取引先各社から厚い信頼を得て、同氏時代の下赤塚支店は大きく飛躍した。

 

洋一氏との11年間

連続表彰を受けるなどの実績と取引先企業の信任・評価を得て本店法人営業部に戻った同氏。この頃の取引先のひとつが、株式会社ナミキだった。

当時は現会長の洋一氏が社長職にあったが、この洋一氏が勉強熱心な人物で、毎月第3土曜日の午後1時半から4時まで、石塚氏を招いて勉強する時間を設ける。人事制度について、不動産について、業界の現状、不動産業が閑散となる夏の暑い盛りにどんな業務をすべきかといった相談まで、テーマは多岐に及んだ。基本的なテキストを石塚氏がまとめ、それをもとにまずは1時間のレクチャー。その後は質疑応答となり、ナミキはどうすべきかを議論した。

最後に次回のテーマを決めて終了というこの勉強会は、盆と正月を除く年10回、11年間に渡って続けられた。

 

洋一氏の「殺し文句」

その後、石塚氏は小売業の上場企業に筆頭専務として転職し、6年間勤めた後2011年に退職。この退職の話を聞きつけた洋一氏に請われ、同社に加わることになる。専務としての1年間を経て、2012年に同社4代目の社長に就任。俊雄氏、昭一氏、洋一氏の跡を継ぎ、創業75年にして同社に外の血が入ることになった。

「会長に『世のため人のために、といつも言っていたじゃないか。世のため、人のため、ナミキのためにもう一肌脱げ』と言われましてね。この殺し文句にやられてしまったわけです。こう言われては断れませんよ」

 

◎経営者として

「不易」と「変化」

社長として同氏が心がけているのは「不易」、つまり変えてはいけない部分と、変えなければいけない部分を明確にすることだ。

変えていくべきものは、商品、経営の管理手法、営業プロセス、技術、そういったものだ。一方で変えてはならないものは「心地よい生活空間を提供する」という「理念」の部分だ。時代が変われば生活も変わる。たとえばIT化が進んだ現代、大きな本棚は以前ほど必要とされなくなった。

しかし一方で、サラリーマンとしてコツコツ働き30代後半になれば、機密書類が手元に溜まってくる。それらの書類を整理する広い空間が必要だ。そうでなくても、広い部屋でゆっくりしたい、気分をやわらげたい、リフレッシュしたいというニーズは増えている。そういった傾向を踏まえ、時代に合わせて、商品に磨きをかけ続ける。サポートの面も同様だ。エアコンが不調になればすぐに駆けつけ、鍵を忘れた入居者がいれば夜中であろうと飛んでいく。駐車場に雪が積もって車を出せないと電話があれば、急いで行って雪かきをする。

「顧客のために一生懸命に尽くす」精神も、変えてはいけない部分だ。理念を変えずに方法や中身を変えていくのが、同氏の経営哲学だ。

 

外から来た社長としての役割

初めて創業家外から社長となった同氏。外の血を入れたことについて「社長職を社長職として確立させることや、社長がより前面に出て従業員の心と向き合うことを期待されている」と分析する。会長の洋一氏はナミキグループ全体を見ながら、同社の経営に関しても意思を共有している。勉強熱心なだけあって、先進的な精神の持ち主だという洋一氏。

新しいことを始めるときには、常に細かな課題がたくさん出てくる。そういった部分を会長に代わって行うのが同氏の役割だ。「銀行員はサービス業」と定義した上で、元銀行員だからこそ、できることがあると捉えている。これまでのところ、洋一氏と正面から意見がぶつかったことはないという。

 

「こうしたいということがあったら言ってください、それが私の考えと合えば、私がやりますからお任せください、みなまで言わなくて結構ですよというスタンスです。細かいところ、手間がかかるところ、いわゆるドロドロした部分は私がやりますよ、ということです。もちろん、今後はぶつからなければいけない局面もあるでしょう。気に入らなかったらいつでもクビにしていただいてけっこうです、と言っていますよ」

 

生き残りの鍵は顧客第一主義

利益を出さない企業は生き残っていけない。利益を生み出すには「顧客を大切にすること」しかない。つまり、顧客の満足や信用を得ない限り、企業は生き残っていけない。顧客満足を追求することによって、結果として売り上げが立ち、利益が出るという考え方だ。顧客や世間を騙して一時的に売り上げを伸ばしても、中長期的には生き残っていけないだろう。

本当に顧客のためになる商品やサービスを提供し、それが評価されて利益へとつながっていく。顧客を大切にする精神は不可欠、世のため人のために資する企業でなければ生き残れない時代と言っていい。

 

「汗水を垂らさない限りは利益も出ないし、生き残れないだろうと思っています。我々は、しつこく泥臭く、滑ったり転んだりしながら、お客様のために必死になることで信頼を得て、生き残っていけばいい。大きな利益を出す必要はないんです。一生懸命に働き生きて、その結果としてお給料が出て、少しずつ社員の生活が上向いていくような、そんな企業にしたいと考えています」

 30〜40年後には労働人口が4割減ると言われている。そうなれば、住宅も4割が淘汰される可能性がある。そのとき、本当に機能的で心地よい、賃貸管理も行き届いたサービスの良い住宅を提供できない業者は生き残れない。これからはなおのこと、顧客のためにいかに奉仕できるかが鍵になってくる。

 

オビ 特集

石塚隆正 (いしづか・たかまさ)氏

1952年、神奈川県出身。

1975年、横浜国立大学経営学部卒業。

1977年、横浜国立大学大学院 経営学研究科卒業。経営学修士。

1977年、東京銀行(現・三菱東京UFJ銀行)入行。

2005年、東京三菱銀行(現・三菱東京UFJ銀行)を退職、株式会社エコス(東証一部 証券コード7520)専務取締役(〜2011)。

2009年、株式会社シー・エイチ・エス 代表取締役会長を兼任(〜2011)。

2012年、株式会社ナミキ 代表取締役社長。一般社団法人日中国際交流協会 監査役。

2014年、いたばし倫理法人会 会長。

 

株式会社ナミキ

〒175-0094 東京都板橋区成増3-12-1

TEL 03-3975-6542

http://www.namiki-grp.co.jp

グループ従業員数:300名

グループ年商:270億円

2015年11月号の記事より
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