美麗島事件・台湾民主化運動の結節点
美麗島事件
台湾民主化運動の結節点
◆文責:菰田将司
高雄・美麗島駅。駅舎のコンコース天井に施されたステンドグラスはイタリアのステンドグラスアーティスト・ナルシサス・クアグリアータ氏作 (pixaboy)
ひまわり学生運動を語る時、羅福全閣下の口から「美麗島事件」という言葉が出た。日本ではあまり知られていないが、この事件は、台湾の政界に今も大きな影響力を残している大事件である。
……雑誌『美麗島』(美麗島は台湾島の異称)は1979年に創刊された言論雑誌だった。この『美麗島』を企画・発行した黄信介が、政治家でありながら国民党と対立し、民主化運動を支援していたことから、出版社には多くの「党外活動家」(国民党以外の政党は非合法組織であったため、民主活動家はこう呼ばれていた)が集まってきていた。
その中には、台湾の東沖合に浮かぶ孤島の政治犯収容所「緑島」に15年間も服役していた施明徳など筋金入りの活動家もいた。
『美麗島』は高い支持を得、発刊から半年も経たない1979年11月には8万部を数えるベストセラーになっていた。出版社は世界人権デーにあたる12月10日に、高雄市内で集会とデモ行進を行うことを企画、これを警察当局に申請したが、許可されなかった。その後も数度の申請を試みたが、許可は得られず、ついに無許可で行うことを決定した。
デモ当日、会場に集結した群衆の中から『美麗島』発行人の黄信介の演説が始まると、治安部隊は群衆を完全に包囲した。施明徳らは警察当局と協議を行い、再度デモの許可と、治安部隊の撤収を要求したが、当局はこれらの要求を全て拒否。その後、夜になっても解散しない群衆に業を煮やした治安部隊は、群衆に対し催涙弾の使用を開始、更に警察の応援部隊も到着すると会場は大混乱となった。
事件後、政府は台湾全島での「党外活動家」の逮捕を決定、治安部隊を全島に展開した。逮捕された『美麗島』関係者は軍法会議(戒厳令下であり、司法は憲兵が担っていたため)にかけられ、全員が叛乱罪で有罪判決を受けることなった。26日間の逃亡の末に逮捕された施明徳は無期懲役、主導的立場にあった黄信介には懲役14年、その他関係者6人に懲役12年が言い渡された。
1990年、「美麗島事件の判決は無効」とした李登輝総統によって釈放された彼らは、改めて設立された民進党の中心人物として政治の世界で活躍するようになる。釈放後の黄信介は民進党主席・顧問として活動の指揮を執り、施明徳も立法委員・そして黄信介の後、民進党主席となった。また、軍法会議の際「党外活動家」たちを助けた弁護団の中には、民進党から初めての総統になる陳水扁もいた。
これら、美麗島事件に関わり、その後民主化運動を指導していった人々のことを美麗島事件世代と呼んでいる。彼らの中にはその志向の違いから袂を分けたものもいるが、今も台湾政界で重きをなしている。